Archive for category 瀬川冬樹

Date: 3月 9th, 2011
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その8)

瀬川先生の「本」づくりの作業において、書かれたものはすべておさめたいと思っている。
試聴記も含めて、だ。

試聴記といっても、すべてが30年以上昔のものばかりであり、
いま「本」に収録することにどれだけの意味があるのか、という声も実はあった。

でも実際に入力作業を続けていると、試聴記の中に意外な発見があり、おろそかにできない。
たしかにいま現在、その試聴記は試聴記としてはほとんど役に立たない。
でも、瀬川先生が何を求められていたのかは、試聴記から伝わってくることが多い。

なかには意外なモノの試聴記が,思わぬヒントを与えてくれる。
ステレオサウンド 54号に載っているグルンディッヒ・Professional 2500がそうだ。

54号では、瀬川先生のほかに、菅野先生、黒田先生の試聴記が載っている。
Professional 2500に高い評価を与えられているのは、瀬川先生ひとり。
菅野先生の評価は、かなり低い。

ここに、瀬川先生の求められている音、
つまりこの項の(その1)に書いたことが顕れている。

Date: 2月 5th, 2011
Cate: イコライザー, 瀬川冬樹

私的イコライザー考(その8・続々続々補足)

瀬川先生が、1966年12月に発行された ’67ステレオ・リスニング・テクニック(誠文堂新光社)で、
ビクターのPST1000について、こんなふうに書かれている。
     *
コントロール・アンプとしてこれくらい楽しいものは他にあるまい。使いはじめて間がないので批評めいたことはさしひかえたいが、小生自身はこのアンプを一種の測定器としても使いたいと考えているので、いずれ何らかの発見があると思う。
     *
PST1000は、当時、ビクターがSEA(Sound Effect Amplifier)コントローラーとして発売していた、
7素子のグラフィックイコライザー機能を搭載したコントロールアンプのこと。
7つの中心周波数は、60、150、400、1k、2.4k、6k、15kHz。

いまの感覚からすると7素子はローコストのアンプにでもついてくるようなものととらえてしまうが、
PST1000は、145,000円していた。
マランツの7Tが150,000円、マッキントッシュのC22が172,000円の時代のことだ。

瀬川先生の発言は、コントロールアンプとしてではなく、
グラフィックイコライザーとしてとらえられてのもの、と思う。
このあと、グラフィックイコライザーを積極的には使われていないはずだし、
上の発言は、あくまでも1966年当時のことだから、時代とともに変化していった可能性もある。

もうそのへんのことは確かめようがないけれど、
グラフィックイコライザーを積極的に使うと言う選択も、導入しないという選択も自由だ。
どちらが正解というわけではない。
それでも、一度はグラフィックイコライザーを徹底的に使ってみてほしい、といいたい。

そこには、瀬川先生も言われているように「何らかの発見があると思う」からだ。

Date: 1月 14th, 2011
Cate: 「本」, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏の「本」(さらに、お願い)

瀬川先生の「」第三弾では、多くの方々の証言をいただきたいと思っています。

たとえばリスニングルームに瀬川先生を招かれた方、
瀬川先生のリスニングルームに行かれたことのある方、
オーディオ販売店などのイベントで、瀬川先生と話された方、
ごく短な断片的なことでも、瀬川先生のどの時代についてもでもかまいません、
少しでも多くのことを私自身が知り、それを伝えていきたいと考えていますので、
ぜひ、ご連絡くださいますよう、お願いいたします。

Date: 1月 12th, 2011
Cate: 「本」, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏の「本」(お願い)

瀬川先生の「」の第三弾は、これまでとは違い、
未発表原稿やスケッチ、メモの公開とともに、取材も行い、記事も何人かの方にお願いし、
私自身も書く内容とします。

その取材のひとつとして、瀬川先生が、新宿西口にあったサンスイのショウルームで毎月行われていた
「チャレンジオーディオ」についての取材も考えています。

当時、このショウルームでのイベントの担当をされていた西川さんを招いて、
当時、「チャレンジオーディオ」に行かれていた方々とのやりとりを、ぜひ聞いてみたいと考えています。

私自身は、当時はまだ実家住まいでしたので、「チャレンジオーディオ」に行きたいと思っていても、
結局、一度も行けずに終ってしまいました。

ですから、私自身は、西川さんから当時のことを、引き出していくのが無理ですので、
ここで、当時、通われた方々に、ぜひお集まりいただき、お話しいただきたいと考えた次第です。

場所は四谷三丁目に確保しました。
何人の方が集まってくださるかによって、こまかいことを決めていきます。

当時「チャレンジオーディオ」に行かれていて、取材に協力してくださる方は、
私宛に、メールにてご連絡ください。

よろしくお願いいたします。

Date: 1月 10th, 2011
Cate: 「本」, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏の「本」(第2弾)

瀬川先生の「」の第2弾を公開しました。

前回同様、今回もEPUB形式です。
前回のものを増強したものです。
ですから、ファイル名もまったく同じです。
前回よりも、iPadでの表示では約900ページ増えています。

今回はアップロード関係上、zipで圧縮してあります。
なので解凍してください。

iPad、iPhoneで、前回の「本」をインストールされている方は、
iPad、iPhone上の「本」、それからiTunes上の「本」を削除した上で、
ダウンロードし解凍したファイルを、iTunesにドラッグして、インストールお願いします。
(FireFoxで開けないという報告がありましたので、手直ししたものを新たに公開しました。
 23時以前にダウンロードされた方は、再度ダウンロードをおすすめします。)

次回の更新・公開日はまだ決めておりませんが、
今回の「本」から、ドネーションブックにさせていただきます。

ドネーションブックですから、前回の「本」同様、無料でご覧いただけます。支払いの必要はありません。

ですが、これからの更新作業を確実に、より早く、より良いものにするためには、皆さまが必要です。
もしよろしければ、できる範囲の額のご寄付を、どうかご検討ください。

よろしくお願いいたします。

ご連絡は、私あてにメールでお願いいたします。

Date: 1月 1st, 2011
Cate: BBCモニター, PM510, Rogers, 瀬川冬樹

BBCモニター考(特別編)

昨年秋、また瀬川先生が書かれたメモとスケッチをいただいた。
その中に、BBCモニター、というよりもロジャースのPM510についてのメモがある。

1年前の今日も、瀬川先生のメモを公開した。
今年は、去年に比べるとずっと量は少ないが、このPM510についての「メモ」を公開する。
     *
◎どうしてもっと話題にならないのだろう、と、ふしぎに思う製品がある。最近の例でいえばPM510。
◎くいものや、その他にたとえたほうが色がつく
◎だが、これほど良いスピーカーは、JBLの♯4343みたいに、向う三軒両隣まで普及しない方が、PM510をほんとうに愛する人間には嬉しくもある。だから、このスピーカーの良さを、あんまりしられたくないという気持もある。

◎JBLの♯4345を借りて聴きはじめている。♯4343よりすごーく改良されている(その理由を長々と書く)けれど、そうしてまた2歩も3歩も完成に近づいたJBLを聴きふけってゆくにつれて、改めて、JBLでは(そしてアメリカのスピーカーでは)絶対に鳴らせない音味というものがあることを思い知らされる。
◎そこに思い至って、若さの中で改めて、Rogers PM510を、心から「欲しい」と思いはじめた。
◎いうまでもなく510の原形はLS5/8、その原形のLS5/1Aは持っている。宝ものとして大切に聴いている。それにもかかわらずPM510を「欲しい!!」と思わせるものは、一体、何か?

◎前歴が刻まれる!
     *
内容からして、なにかの原稿のためのメモであろう。
そして最後の1行の「前歴が刻まれる!」だけ、インクの色が違う。しばらくたってから書き足されている。

注意:若さの中で改めて、とあるが、「若」の字がくずしてあり、他の漢字の可能性も高いが、
ほかに読みようがなく、「若さ」とした。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その46・さらに補足)

もともと人間という動物は、最少限度の、自分の考えに共鳴してくれる仲間を求め、集団を作る。それはいわば相手の中に自己の類型を発見する、つまり自己の存在を確認するひとつの手段なので、こうした手段の得られない完全な孤立の状態には耐えることができない。この状態は、もっと複雑な社会の中では、特に、過渡期といわれる時期に目だってあらわれる。物ごとのゆれ動いている過渡期の状態では、人は方向を見失う、すなわち孤立するという怖れにつきまとわれる。それは何か確定したひとつの形式を求める気持、あるいは画一性の必要悪となって現われる。その形式に従っているかぎり自分は方向を見失わないのだ、という安心感。周囲のどこを見回しても、他人が自分と同じ形式に従って行動しているという安定感。つまり類型の発見が、自己の存在を確認するための確かな安心感となってあらわれるので、これは日常のことばづかい、行動、服装の流行などに端的にあらわれている。
いまこれと逆に、周囲の誰もが自分と違った形で行動している、というようなことが起きると、彼はひどく不安になり、孤立感が彼を苦しめる。孤立の怖れの強い人ほどそれを打消したいという意識も当然強く、孤立感の裏がえしの行動としての自己拡大欲、征服意識が強く、それが他人への積極的なはたらきかけ、あるいは命令となってあらわれる。自己と他との間に存在するギャップを埋めようとする意識のあらわれである。つまり〈弱い犬ほどよく吠える〉ということである。
     *
上記の文章は、11月7日に公開した瀬川先生の「本」のなかにもおさめたからお読みになった方もおられるだろう。
ラジオ技術、1961年1月号に掲載された「私のリスニングルーム」のなかで書かれている。
瀬川先生、25歳の時の文章。

Date: 12月 27th, 2010
Cate: 瀬川冬樹

続・思い浮かんできたこと

「音は人なり」が意味するところは、結局のところ、
レコードにおさめられている音楽は、決して不動でも不変でもない、ということ。

同じ1枚のレコードが、聴き手が100人いれば100とおりの鳴り方をする。
1000人いても、10000人いても、ひとつとして同じ音では鳴ることはない。
そこにオーディオが介在しているからだし、再生(演奏)する人がいるからだ。

その意味でも、オーディオは「虚」だと思う。

オーディオは、「虚」の純粋培養を、ときとして行ってくれる。
そのために必要なことはなんだろうか、と考えてゆくことを忘れてはならない。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その46・補足)

瀬川先生は趣味をどういうふうに捉えられていたのか。

スイングジャーナルの1972年1月号の座談会のなかで語られている。
     *
人との関係なくして生きられないけれども、しかしまた、同時に常に他人と一緒では生きられない。ここに趣味の世界が位置しているんだ。逃避ではない自分をみつめるための時間。趣味を逃避にするのは一番堕落させる悪い方向だと思う。
     *
こんなことを語られている。
     *
仲間達と聴く。そのときはいい音に聴こえる。しかし、それは趣味そのものではなくて、趣味の周辺だと思うのです。趣味の世界は常に孤独なのです。
     *
1972年の1月号ということは前年の12月に出ているわけだから、この座談会は、亡くなられる10年前になる。
だから、それからさきに、この考えを改められたのか、ずっと変らずだったのか。どちらだったのだろうか。
私のなかでは、答は出ている。

瀬川先生の書かれたものを読んで、ひとりひとりが自分の答を出していくものだろう。

Date: 12月 25th, 2010
Cate: 瀬川冬樹

思い浮かんできたこと

このブログをはじめたころに「再生音は……」と短い文章を書いている。

そこに「生の音(原音)は存在、再生音は現象」と書いた。

じつはこのときは、なかば思いつきで書いた。
だが8月からの瀬川先生の「本」づくりに集中していて、このことが頭にとつぜん浮かんできた。
そして、「現象」だからこそ、それは虚構世界へとつながっていく。

はっきりと言葉として表現されているわけではないが、瀬川先生も、こう捉えられていたのだろうか。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その46)

レコードの音は、徹底的に嘘であるところが好きだ。虚構だから好きだ。日常的でないから好きだ。そしてそれを鳴らすメカニズムには、レコードの虚構性、非日常性をさらに助ける雰囲気があるから好きだ。
一人の人間を幸せにする嘘は、人を不幸にする真実よりも尊い。「百の真実にまさるたったひとつの美しい嘘」というのは私の好きな言葉で、これを私は、レコードの演奏やそれを鳴らすメカニズムやそこから出てくる音にあてはめてみる。レコードの音は、ほんらい生とは違う。どこまで行ってもこの事実は変わらない。オーディオの技術がこの先どこまで進んだとしても、そしていまよりもっと生々しい音がスピーカーから出せるようになったとしても、ナマとレコードは別ものというこの事実は変わらない。
だからナマと同じ音など求めるのはバカげている、という考え方がある。どこまでナマに近づけるかという追及などナンセンスじゃないか、という意見がある。一面もっともだが、私は違う。たとえば小説が虚構の中で現実以上の真実をみせてくれるように、映画が虚構の中で実生活以上の現実感を味わわせてくれるように、私は、スピーカーが鳴らす虚構の音にナマ以上の現実感を求める。生の音と同じ、ではない、いわば生以上の生、を求めるのである。虚構の世界のこれは最も重要な機能である。虚構は日常性を断ち切ることによって、虚構にいよいよ徹することによって、真実を語ることができる。(「人世音盤模様」より)
     *
瀬川先生が、なぜLNP2の音に惹かれたのか、が、この文章につながっていっていると思う。
そして、もうひとつのなぜ──ここまで虚構世界に追い求められるのはなぜなのか。
その答はここにあるのではなかろうか。
     *
なぜ、趣味が人を純粋にさせるのか。それは、趣味というものは実生活のあらゆる束縛から解き放たれた虚構の世界のものであるからだ。虚構の世界では、人は完全に自由である。実生活上の利害とも無縁だ。これを買ったらトクかソンかなんていう概念は、趣味の世界にありえないコトバなのだ。外から強制されるものではなく、自らが自らのルールを(虚構の中で)定め、虚構世界の束縛の中に、束縛による緊張の世界に、自発的に参加する。そこに無限の飛躍と喜びがある。これはある意味で子供たちの遊びの世界に似ている。子供たちは遊びの世界で——というより遊びこそが子供たちの全宇宙と言うべきなのだが——、石ころや木の葉をさえすばらしい宝ものに変えてしまう。子供たちは魔法つかいだ。(「続・虚構世界の狩人」より)
     *
私がなぜ、そう感じたのか、その理由については、まだ書きたくないし、書くべきでもないよう気がする。
だからあえて舌足らずのままにしておくことをお許し願いたいが、それでもひとつだけ書いておく。
「子供」──、このことばこそ、ここでは、とても大事な意味を持っているはずだ。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その45)

この項(その32)に、瀬川先生のKEFの105の試聴記を引用している。
そこに「組合せの方で例えばEMTとかマークレビンソン等のようにツヤや味つけをしてやらないと、
おもしろみに欠ける傾向がある。」と書かれている。
このことは、瀬川先生がマークレビンソンのアンプ(このときはML7はまだ登場していない)の音を、
どう感じておられたかがわかる。

もしこのとき、LNP2やJC2(ML1)、ML2などがとっくに製造中止になっていて、ML7とML3だけになっていたら、
こんなことは書かれなかったと思う。
ステレオサウンドの1981年夏の別冊の巻頭原稿「いま,いい音のアンプがほしい」に、どう書かれているか。
     *
その当時のレヴィンソンは、音に狂い、アンプ作りに狂い、そうした狂気に近い鋭敏な感覚のみが嗅ぎ分け、聴き分け、そして仕上げたという感じが、LNP2からも聴きとれた。そういう感じがまた私には魅力として聴こえたのにちがいない。
そうであっても、若い鋭敏な聴感の作り出す音には、人生の深みや豊かさがもう一歩欠けている。その後のレヴィンソンのアンプの足跡を聴けばわかることだが、彼は結局発狂せずに、むしろ歳を重ねてやや練達の経営者の才能をあらわしはじめたようで、その意味でレヴィンソンのアンプの音には、狂気すれすれのきわどい音が影をひそめ、代って、ML7Lに代表されるような、欠落感のない、いわば物理特性完璧型の音に近づきはじめた。かつてのマランツの音を今日的に再現しはじめたのがレヴィンソンの意図の一端であってみれば、それは当然の帰結なのかもしれないが、しかし一方、私のように、どこか一歩踏み外しかけた微妙なバランスポイントに魅力を感じとるタイプの人間にとってみれば、全き完成に近づくことは、聴き手として安心できる反面、ゾクゾク、ワクワクするような魅力の薄れることが、何となくものたりない。いや、ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある。そうである筈だ、と自分に言い聞かせてみてもなお、しかし私はアンプに限らず、オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたいのだ。
     *
「その当時のレヴィンソン」とは、ジョン・カールと組んでいた頃のマーク・レヴィンソンだ。

Date: 12月 1st, 2010
Cate: オーディオ評論, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その17)

「いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント論」のなかで、
「少なくとも昭和三十年代の半ば頃までは、アンプは自作するのが常識だった」と書かれている。

なにもアンプだけでなく、スピーカーにおいてもそうだったし、
さらにはトーンアームやカートリッジまで自作されている方がおられたことは、
ラジオ技術の古い号を見ると、わかる。

昭和三十年代の半ば、つまり1960年ごろ、海外にはすでに優れたオーディオ機器が誕生していた。
ただ、日本でそれらを購入できる人はごく限られた人であり、
国産メーカーも存在していても、腕の立つアマチュアの手によるモノのような水準が高かったようだ。

そういう時代を、ステレオサウンドの創刊当時の筆者の方々はみな経験されている。
岡俊雄、岩崎千明、井上卓也、上杉佳郎、菅野沖彦、瀬川冬樹、長島達夫、山中敬三。みなさんそうだ。
アンプは自作するもの、という時代(ステレオサウンドが創刊される前)にすでに活躍されていた。
みなさん、オーディオを研究されていた。

瀬川先生は自作について、「いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント論」で書かれている。
     *
なまじの自作よりもよほど優秀な性能のオーディオ・パーツを、当時からみたらよほど安い価格で自由に選択できるのだから、その意味からは自作する理由が稀薄になっている。しかし、オーディオの楽しみの中で、この、自作するという行為は、非常に豊かな実り多いものだと、わたくしはあえて申し上げたい。
     *
なにも カートリッジからアンプ、スピーカーに至るまですべてのモノを自作できるようになれとか、
メーカー製のモノと同等か、さらにはそれよりも優れたモノが作れるようになれとか、
そんなことをいいたいわけではなくて、なんでもいい、アンプでも、スピーカーでも、
なにかひとつ自作して、時間をかけてじっくりと改良していく過程を、
やはりいちどは体験してもらいたい、と思っているだけだ。

アンプだって、パワーアンプだけでもいいし、コントロールアンプ、それもラインアンプだけでもいい。
ラインアンプだけなら、とっかかりとしてはいいかもしれない。

別項で真空管のヒーターの点火について書いている。
真空管単段のラインアンプをつくったとする。
部品点数はそう多くない。少ないといってもいい。

アンプ本体はまったくいじらず、ヒーター回路だけをあれこれ試してみるのもいいだろう。
電源だけをいじってみるのもいいだろう。
回路はまったく手をつけずに、部品を交換するのもいい。
アースポイントだけを変えてみるだけでもいい。
筐体構造まで含めてやっていくと、やれることにかぎりはない。
とにかく真空管単段のラインアンプでも、楽しもうと思えば、とことん楽しめる。

回路が単純だから単段アンプを例にしたまでで、
もちろん他の回路でもいい。真空管でなくてもいい。

いろいろ試したからといって、どんなに時間をかけたからといって、
メーカー製をこえるモノができあがるという保証はない。
あるのは、研究するという姿勢が必要だということを学べるということだ。

Date: 11月 30th, 2010
Cate: 瀬川冬樹

続々・瀬川冬樹氏の「本」

瀬川先生の「本」つくるにあたって考え続けてきたことのひとつに、
川崎先生のことば「いのち・きもち・かたち」がある。

瀬川先生の「いのち・きもち・かたち」について考えてきた──、というよりいまも考え続けている。

瀬川冬樹の「かたち」
瀬川冬樹の「きもち」
瀬川冬樹の「いのち」

考えるために毎日の入力作業を続けているようなものかもしれない。

そして「本」の構成をどうするか。
そのまま「いのち・きもち・かたち」を使うわけにはいかない。

考えたのは、
「かたち」を……
「きもち」を……
「いのち」を……
として、……のところに、ことばをあてはめる。

そして「かたち」から「きもち」「いのち」へとたどっていくということ。

瀬川先生の「かたち」は、まず、その音がある。
瀬川先生とともにその「音」はもう存在しなくなった。
残された「かたち」は、書かれたものだ。

第一弾は、瀬川先生の、いわば「かたち」をまとめたものだ。
それは「読む」ものである。

だから「かたち」の……は、「読む」にした。

第一弾のタイトルを、「瀬川冬樹」を読む、にしたのはそういう理由からだ。
「瀬川冬樹」もまた「かたち」である。

「きもち」「いのち」の……についても考えている。
「きもち」の……は決った。

けれど「いのち」の……についてはまだ迷っている。

Date: 11月 27th, 2010
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その6・補足)

この項の(その6)に、瀬川先生が、もうひとつ別のペンネームをもっておられたことを書いた。

今日、その「芳津翻人」で書かれた「やぶにらみ組み合わせ論」の(II)と(IV)を入力していた。
「やぶにらみ組み合わせ論」の二回目はステレオサウンド 13号(1970年冬号)に、
四回目の文章は別冊「コンポーネントステレオの世界 ’78」(1977年冬)に載っている。
ちなみに一回目は4号(1967年秋号)、三回目は17号(1971年冬号)だ。

「芳津翻人」のペンネームについて、誰かに話すとき、
上に書いているように「瀬川先生のもうひとつのペンネーム」だと言ってきた。

だけど、今日、とくに二回目の文章を入力していて感じたのは、
瀬川冬樹にとってのペンネームなのか、それとも大村一郎にとってのふたつめのペンネームなのか──、
そのどちらなのだろうか、ということ。

ささいなことかもしれないが、意外とこれは大事なことのように、いま感じている。
そして、どうも後者ではないのだろうか、とも……。