岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(現在よりも……)
表面的な意味ではなく、
それに単に製品の数の多さや価格のレンジの広さとか、そういったことでもなくて、
まったく違う意味での「豊かさ」が、
「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」のオーディオの世界にはあったように思えてならない。
表面的な意味ではなく、
それに単に製品の数の多さや価格のレンジの広さとか、そういったことでもなくて、
まったく違う意味での「豊かさ」が、
「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」のオーディオの世界にはあったように思えてならない。
瀬川先生の著作集が出ないことがはっきりした。
よく遺稿集という言い方をする。私もこれまで何度も使ってきた。
けれど遺稿とは、未発表のまま、その筆者が亡くなったあとに残された原稿であって、
すでに発表された文章を一冊の本をまとめたものは遺稿集とは呼ばない──、
ということを、私もつい先日知ったばかりである。
私の手もとには瀬川先生の未発表の原稿(ただし未完成)がひとつだけある。
いずれ電子書籍の形で公開する予定だけれど、それでも一本だけだから、遺稿集とはならない。
あくまでも著作集ということになる。
ステレオサウンドの決まり、
そんなことがあるものか、と思われる方も少なくないと思う。
けれどふりかえってみていただきたい。
瀬川先生の著作集は出なかった。
黒田先生の著作集も出なかった。
黒田先生の本は、すでに「聴こえるものの彼方へ」が出ていたから。
岡先生の本も出ていない。
岡先生の本は、すでに「レコードと音楽とオーディオと」というムックが出ていたから。
山中先生の本も出ていない。
山中先生の本は、すでに「ブリティッシュ・サウンド」というムックが出ていたから。
「ブリティッシュ・サウンド」は山中先生ひとりだけではないものの、
メインは山中先生ということになる。
長島先生の本も出ていない。
長島先生の本は、すでに「HIGH-TECHNIC SERIES2 図説・MC型カートリッジの研究」が出ていたから。
I先輩の言われた「決まり」、
そういうものがあることをあとになって「やっぱりそうなのか」と、
ステレオサウンドをやめたあと、岡先生、長島先生、山中先生が亡くなり、そう思っていた。
だからこそ瀬川先生が亡くなられて32年目の今年、著作集がステレオサウンドから出る、ということは、
嬉しいとともに、意外でもあった。
正直、遅すぎる、とは思う。
そう思うとともに、なぜ、いまになって、とも考えている。
5月31日に岩崎先生の「オーディオ彷徨」が復刊され、
瀬川先生の著作集が出るのだから、このことは書いてもいいと判断したことがある。
私がステレオサウンドで働くようになったのは、1982年1月。
瀬川先生が亡くなって二ヵ月後のこと。
ステレオサウンド試聴室隣の倉庫には、
瀬川先生が愛用されていたKEF・LS5/1A、スチューダーA68、マークレビンソンLNP2があった。
そういうときに私はステレオサウンドで働きはじめた。
入ってしばらくして訊ねたことは「瀬川先生の遺稿集はいつ出るんですか」だった。
編集部のI先輩にきいた。
どうみても、その編集作業にとりかかっている様子はどこにもなかったし、
そんな話も出てきていなかったから、不思議に思いきいたのだった。
I先輩の返事は、当時の私にはたいへんショックなものだった。
「出ないんだよ。ステレオサウンドのルールとして筆者一人一冊と決っているから。
瀬川先生はすでに『コンポーネントステレオのすすめ』がもう出ているから……」
確かに「コンポーネントステレオのすすめ」は出ている。
しかも改訂版も出て、「続・コンポーネントステレオのすすめ」も出ている。
だからといって、なぜ出さないのか。
そんなことを誰が決めたの? そんな決まり(これが決まりと呼べるのだろうか)は破ればいいじゃないか、
ステレオサウンドにとって瀬川冬樹とは、そんな存在だった?──、
とにかくそんなことが次々と頭に浮んだものの、何も言わなかった(言えなかった)。
LS3/5Aは、日本ではロジャースの製品が最初に入ってきて、知られることになったことから、
私も最初に聴いたLS3/5Aはロジャースの15Ω型だった。
購入したのも、そうだった。
1970年代の終りごろになって、イギリスのスピーカーメーカー数社からLS3/5Aが登場した。
チャートウェルからも出てきた。
このチャートウェル製のLS3/5Aは数が少ないこともあって、
これをいくつもあるLS3/5Aのなかで、高く評価される人もいる。
私は聴く機会がなかったから、そのことについてはなにもいえない。
実際、どうなのだろうか。
LS3/5Aは、いまでも人気のあるスピーカーシステムだから、
各社LS3/5Aの比較試聴は、オーディオ雑誌の記事にもなったりするが、
試聴している人に関心が個人的にないため、本文を読もうという気にはなれなかった。
まったく違うタイプのスピーカーシステムを集めての試聴であればまだしも、
同じ規格のもとでつくられているLS3/5Aの、製造メーカーによる音の違いは微妙なものであるだけに、
ほんとうに信頼できる人が試聴をしているのであれば、興味深く読むのだが、
そうでない場合には、読む気はおきない。
瀬川先生はチャートウェルのLS3/5Aについて、どういわれているのか。
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’79」で、わずかではあるがふれられている。
*
このふたつのLS3/5Aについて、30万円の予算の組合せのところでは、その違いをあまり細かくふれないで、どちらでもいいといったようないいかたをしたけれど、アンプがこのぐらいのクラスになると聴きこむにつれて違いがはっきりしてくるんです。で、ひとことでいえば、チャートウェルのほうが、全体の音の暖かさ、豊かさというものが、ほんのわずかですけれどもまさっているように思えるので、ぼくはチャートウェルのほうをもってきたわけです。もっともやせ型が好きなひとのなかには、ロジャースのほうが好ましいとお感じになる方もいらっしゃるかもしれませんね。
*
「コンポーネントステレオの世界 ’79」は1978年12月にでている。
つまり瀬川先生は、この時点で暖かさ、豊かさを、自分の音に求めはじめられていることがわかる。
ステレオサウンド 61号の編集後記に、こうある。
*
今にして想えば、逝去された日の明け方近く、ちょうど取材中だったJBL4345の組合せからえもいわれぬ音が流れ出した。この音が先生を彷彿とさせ、話題の中心となったのは自然な成り行きだろう。この取材が図らずもレクイエムになってしまったことは、偶然とはいえあまりにも不思議な符号であった。
*
この取材とは、ステレオサウンド 61号とほぼ同時期に発刊された「コンポーネントステレオの世界 ’82」で、
井上先生による4345の組合せのことである。
この組合せが、この本の最初に出てくる記事にもなっている。
ここで井上先生は、アンプを2組選ばれている。
ひとつはマランツのSc1000とSm700のペア、もうひとつはクレルのPAM2とKSA100のペアである。
えもいわれぬ音が流れ出したのは、クレルのペアが4345に接がれたときだった、ときいている。
このときの音については、編集後記を書かれたSさんにも話をきいた。
そして井上先生にも直接きいている。
「ほんとうにいい音だったよ。」とどこかうれしそうな表情で語ってくれた。
もしかすると私の記憶違いの可能性もなきにしもあらずだが、
井上先生は、こうつけ加えられた。
「瀬川さんがいたのかもな」とも。
ほんとうのところは、まだまだスピーカーとアンプの関係性について書いていきたいのだが、
そうするといつまでも本題である「瀬川冬樹氏とスピーカーのこと」に移れなくなるのでこのへんにしておく。
けれど、スピーカーのアンプの関係性については書きたいことだけでなく、
考えていきたいとも思っているので、項を改めて書く予定ではある(といってもいつになるかは……)。
なぜ少しばかりの脱線とはいえないくらいアンプのことを書いてきたのは、
瀬川先生が最後に鳴らされていたJBLの4345から、
もしいまも存命だったら絶対に鳴らされているはずのジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットまで、
いったいどのスピーカーを鳴らされていたのかを考えていくのに、
スピーカーのことだけを考えていては、答に近づけないと思うからである。
リスニングルームの条件も考慮しないといけない。
瀬川先生が砧に建てられた家から移られたのは目黒のマンションである。
ここは決して広いとはいえないスペースだった、と聞いている。
そこに4345を置かれていた。
1981年以降、瀬川先生はどの程度のリスニングルームのスペースを確保されただろうか……。
そういうことも勘案していく必要がある。
それにアンプのこともある。
1981年の初夏にステレオサウンドから出たセパレートアンプの別冊の巻頭に掲載されている文章、
「いま、いい音のアンプがほしい」を読んでいくと、
瀬川先生が求められている音にも変化があり、
マークレビンソンのアンプの音にも変化があり、
このふたつの音の変化は同じところを向っていないことが感じとれる。
瀬川先生は、アンプは何を選ばれただろうか──、
このことも考えていかなければ、スピーカーに何を選ばれたのかについての確度の高い推察はまず無理であろう。
このスピーカーとアンプの関係性からみていくときに、
この項の(その2)で書いているアルテック620Bとマイケルソン&オースチンのTVA1の組合せ、
それにずっと以前の、604Eをおさめた612AとマッキントッシュのC22とMC275との組合せ、
このふたつの組合せのもつ意味を考えていく必要がある、と私はそう確信している。
D40は、ステレオサウンド 44号の新製品紹介のページで登場している。
井上先生と山中先生が試聴されていて、次のようなことが語られている。
*
井上 この場合は、スペンドールのスピーカーを鳴らした場合には、という条件つきでないとこのアンプの本来の姿を見失ってしまいますね。ある一つのスピーカーを鳴らすことに的を絞ってアンプを開発した場合は、特別な回路構成をとらないでも、コントロール機能を必要なものに簡略化してしまっても、スピーカーを含めたトータルな再生音のクォリティは非常に高い水準に持っていけるという好例として注目できます。
*
私はD40を他のスピーカーで聴く機会はなかった。
でも、聴いたことのある人の話では、BCIIと同系統のスピーカーではよかったけれど、
そうでないスピーカーとの組合せでは、精彩を欠いてしまう、と。
そうだと思う。
一般的なアンプの常識では、優秀なアンプとは考えられない。
D40の音は、不思議にいい音であって、その意味では優秀なアンプとは言い難い。
なのに優秀なアンプで鳴らしたBCIIよりも、BCIIの魅力を抽き出し弱いところをうまく補うアンプはない。
もうすこし引用しておく。
*
山中 このアンプでスペンドールのスピーカーを鳴らしてみますと、他のアンプで聴いたときの印象と違って、かなり中音域が充実して聴こえます。
井上 そうなんですね。以前にいろいろなアンプで聴いたスペンドールのスピーカーの音は、大変バランスがいいといってもやや中域がエネルギー的に不足している部分に感じられたのです。またそれがデリケートで微妙なニュアンスの再現性に優れた、特有の音色と結びついていたともいえるのですが場合によっては神経質な音といった感じに聴こえてしまうこともありました。このD40で鳴らすとその辺をうまく補って、中域にある種のエネルギー感がついて、全体的な音のまろやかさ、余裕といったものが出てくるようです。
山中 もちろん中域のエネルギー感が加わったといっても大変元気な音になったというわけではないですね。スペンドール独得のひめやかな、雰囲気のある音はやはりベースになっています。
*
D40は優秀なアンプではないし、アンプの理想像に近いわけでもない。
それでもアンプは単体でなにかをするものではない。スピーカーを鳴らしてこそアンプの存在があり、
つねにスピーカーとの関係において語っていくものとしたら、
スペンドールのスピーカーシステムとD40の関係は、
スピーカーとアンプの関係のひとつの理想に近いものといえるところがある。
スペンドールのD40は、
スペンドールの設立者であるスペンサー・ヒューズの息子、デレク・ヒューズの設計となっている。
スペンドールのスピーカーシステムの型番は、
たとえばBCシリーズは、
ウーファーの振動板のベクストレンとトゥイーターに採用されているセレッションを表しているし、
小型のSA1は、
自社製のウーファーとフランス・オーダックス製のトゥイーターを採用していることからつけられている。
そういう型番のつけ方をしているスペンドールだから、
D40のDは、デレク・ヒューズの設計を表している、と考えていいはず。
D40はコンパクトなプリメインアンプで、
機能も最小限度のものしかついていない。
入力セレクター、バランサー、レベルコントロールだけ。
外形寸法はW33.2×H9.6×D22.3cm、重量は6kg。
出力は型番からわかるように40W+40W。
回路についての技術的な説明はなにもない。
D40についての製品解説をしようと思っても、あまり書くことが見当たらない、
そういうプリメインアンプである。
けれど、このD40は、スペンドールのスピーカーシステムと組み合わせたとき、
なぜ、こんなつくりのアンプなのに、と思いたくなるほどの音を聴かせてくれる。
私はいちどだけBCIIとの組合せで聴いたことがある。
D40よりも物量を投入したプリメインアンプ、セパレートアンプのいくつかでBCIIを聴いたことはある。
そのどれよりも、D40で鳴らしたときに、BCIIは、こういう音も鳴らせるのか、という驚きがあった。
300Bのアンプのことについては何度か書いてきている。
そのたびに、具体的な300Bのアンプについて書けないもどかしさを感じている。
市販品でなんとかおすすめできる300Bアンプがあれば、そのアンプを例にとって話をしていけるのに……、
というもどかしさがある。
300Bという真空管の名称は、真空管にさほど興味のない方でも、
いちど聞いたことのある、そういう誰もが名前だけは知っている真空管である。
なのに、そのもっとも有名な真空管を使ったアンプの音について、
なんらかの共通認識があるのかといえば、ないとしかいいようがない。
ウェスターン・エレクトリックの、ほんとうの300Bは格別の球であることは断言できる。
だからといって、ほんとうの300Bを出力段に使ったからといって、
それだけでどんなアンプでも、格段の音になるわけではない。
それでも300Bのアンプということが語られ謳われ、私も300Bのシングルアンプという表現を使う。
けれど、それは、おそらくみな違う音のことでもある。
伊藤アンプにかわる標準原器ともいえる300Bのアンプが登場してほしい、と、
300Bという言葉を、ここで書く度に思っている。
300Bのシングルアンプよりも、まだ多くの人が聴いているアンプ、
それも市販されたことのあるアンプで思い出したのがひとつある。
スペンドールのプリメインアンプのD40である。
同じイギリスのスピーカーメーカーであるロジャースのアンプは知っているけれど、
スペンドールもアンプを作っていたの? と思われる方は少なくないだろう。
D40も決して多く売れたアンプではない。
でもスピーカーとパワーアンプの関係について、
パワーアンプに求められる姿について考えていくうえで、
D40はもっとも好適である。
スピーカーのことについて書いていくのが、パワーアンプのことについて書いている。
もう少しパワーアンプのことにつきあっていただきたい。
パワーアンプの理想とはどういうことなのか。
いかなるスピーカーシステムであろうと鳴らしきることのできるパワーアンプを優秀なパワーアンプということで、
この項を書いてきている。
けれど、その優秀なパワーアンプでは鳴らせない音を、
300Bのシングルアンプのように、優秀なアンプの定義にはおさまらないアンプが聴かせることが、
オーディオには往々にしてある。
300Bのシングルアンプといっても、市販品に推められるアンプがあるからといえば、
そうとうに妥協しても、ない、といわざるをえない。
シングルアンプが無理なら、300Bのプッシュプルアンプでは──、
やはり、ない。
海外のメーカーからも300Bのプッシュプルアンプは出ているけれど、
あのアンプの写真を見たとき、なんというデザインなんだろう……、とひどくがっかりしたものだ。
仕上げはたしかに丁寧であっても、はっきりいってひどいデザインといえる。
でもオーディオ雑誌を読むと、デザインのことで褒めている人が何人かいる。
なんなのだろうか……、と思う。
これがブランド・イメージなのか、とも思う。
音に関しては、特になにもいわないけれど、あのデザインに関してだけは、あれこれいいたくなる。
いいたいことがありすぎる。
書き始めると、それだけでけっこうな文量になってしまうし、
書く方も読まれる方も気持のいいものではないから、具体的にはあれこれ書きはしないものの、
あのアンプのデザインを褒める人の音質評価は、私はもう信じないことにしている。
オーディオ雑誌で書いている人たちは、書きにくいことがあるのは読む方だって承知している。
だからデザインについて悪く書くことができなければ、
デザインについては触れなければいいわけで、それをあえて触れて褒めているということは、
その人は、あのアンプのデザインがいいと思っていることになる。
読者はそう受けとめるだろう。私はそう受けとめた。
優秀なパワーアンプとは、
スピーカーシステムを鳴らしきれるだけのパワー(単に出力という意味だけでなくパフォーマンスも含めて)をもつ、
ということになるのだろう。
どんなスピーカーをであれ、鳴らしきれるパワーアンプもあることだろう、
一方で、その範囲は狭まるものの、ある種のスピーカーを鳴らしきることのできるパワーアンプもある、といえる。
この場合、前者のパワーアンプの方がより優秀ということに一般的になるけれど、
オーディオを仕事としていなければ、つまりいくつものスピーカーを鳴らすということを目的としていなければ、
自分がそのとき気に入っているスピーカーを鳴らしきってくれれば、充分でありそれ以上を求めるかどうかは、
その人次第でもある。
鳴らしきれるスピーカーの範囲が広かろうと、ある程度限られていようと、
鳴らしきることのできるパワーアンプからすると、決して優秀とは呼びにくいパワーアンプがあることも事実である。
けれど、そういうパワーアンプのすべてが、いい音がしないわけでは、決してない。
たとえばウェスターン・エレクトリックの300Bのシングルアンプ。
このアンプを優秀なアンプとは呼びにくい。
もちろん300Bのシングルアンプといってもピンからキリまであるのだから、
あくまでもここでいう300Bのシングルアンプとは、私にとっては伊藤先生の300Bシングルアンプであり、
すくなくとも同等のクォリティをもった300Bのシングルアンプということに限らせてもらう。
出力が小さいからそれに見合うだけの高能率のスピーカーと組み合わせれば……、というとこになるだろうが、
それでも感覚的には、スピーカーを鳴らしきる、というイメージにもったことはない。
鳴らしきっている、というより、うまく鳴らしている、といった感じなのである。
300Bのシングルアンプは、一方の極にある。
もう一方の極には、いかなるスピーカーであろうと鳴らしきるだけの優秀なパワーアンプ。
パワーアンプという括りではいっしょにできないほど、このふたつの極のアンプの性格は違う。
マッキントッシュのMC275は登場したときは、優秀なパワーアンプの極に属していた、ともいえる。
けれどMC275の登場から50年以上が経ち、
いまでは300Bのシングルアンプの極にぐっと近い位置にいるといえる。
マイケルソン&オースチンのTVA1が現代のMC275と、当時いわれたのは、
なにもKT88のプッシュプルで出力がほぼ同じということだけでなく、
シャーシーがどちらもクロームメッキ処理されているということもあった。
KT88とクロームメッキ、ということでいえば、1983年に登場したフランスのジャディスのJA80もまた、
KT88にクロームメッキ・シャーシーの組合せだった。
JA80は、けれどAクラス動作(MC275、TVA1はABクラス)で80Wの出力を得るために、
KT88を4本使用したパラレルプッシュプル。
いま、これら3機種を集めて聴き較べをしてみたら、どういう結果になるんだろうか、と関心がある。
どれも、個性の強い(というより濃い)音を特色としている。
そういう音をベースにしていても、意外にも一色に塗ってしまう音とは違う。
しなやかさをきちんと持っている。
コントロールアンプを替えれば、カートリッジやCDプレーヤーを替えたりすれば、
その音色の違いを、それぞれのアンプ固有の音色の中に反映させる、という意味でのフレキシビリティの高さがある。
意外に思われるかもしれないけれど、MC275もフレキシビリティの高いアンプである。
これは以前書いていることだが、ステレオサウンドの試聴室で、MC275を鳴らしたことがある。
鳴らしたスピーカーシステムはBOSEの901に、アポジーのCaliper Signature、
コントロールアンプはあえて使わずにCDプレーヤーを直接接続。
音量調整はMC275の入力レベルコントロールで行った。
901とCaliper Signatureは、ずいぶんと異る面をいくつも持つスピーカーシステムで、
およそ共通するところはないように見える、このふたつのスピーカーをMC275を実にうまく鳴らしてくれた。
Caliper Signatureはインピーダンスが低いため、
トランジスターアンプでは大型の電源トランスと大容量のコンデンサーによるしっかりと余裕のある電源、
それに低インピーダンス負荷においても十分な電流供給能力をもつ出力段、
そういったことが要求されるわけで、必然的に大型パワーアンプと組み合わされることが多かった。
そういったアンプからみれば、MC275の出力は少ないし、規模も小さい。
リボン型の低インピーダンスのスピーカーシステムを鳴らしきるアンプとは思いにくい。
その印象はそう間違ってはいない。
Caliper Signatureに合うパワーアンプが鳴らしきる、という印象の音なのに対し、
MC275での音には、鳴らしきっている、という印象はない。
けれど、うまく鳴らしてくれる。
鳴らしきるパワーアンプでは聴けない表情をCaliper Signatureから抽き出してくれた。
瀬川先生は、JBL4345とジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットのあいだに、
どんなスピーカーシステムを鳴らされていたであろうか、を考えるにあたって、いくつかの要素がある。
その中でまず浮んでくるのは、スイングジャーナルの別冊でつくられた組合せのことだ。
このブログの最初のころに書いているように、そこで瀬川先生はJBLのスピーカーではなく、
アルテックの604の最新型604-8Hをおさめた620Bを指定され、
アンプにはアキュフェーズのC240とマイケルソン&オースチンのTVA1。
この組合せは、
瀬川先生の耳の底に焼きついている音を鳴らした、
604Eをおさめた621AとマッキントッシュのC22、MC275と組合せを思い出させる。
TVA1はKT88のプッシュプル、MC275もKT88のプッシュプルで、
出力はTVA1が70W+70W、MC275が75W+75Wということもあって、
もちろんそれだけでなく音の面でも、MC275の現代版としてとらえられるところがあった。
そういうパワーアンプである。
マイケルソン&オースチンからコントロールアンプもややおくれて登場したけれど、
それほど話題にはならなかった。
TVA1の出来に比較すると、コントロールアンプの出来はそういう程度であったからだ。
まだTVA1しか登場していなかったころ、瀬川先生はアキュフェーズのC240と組み合わせされている。
そのことはステレオサウンド 52号に書かれている。
*
TVA1は、プリアンプに最初なにげなく、アキュフェーズのC240を組合わせた。しかしあとからいろいろと試みるかぎり、結局わたくしは知らず知らずのうちに、ほとんど最良の組合せを作っていたらしい。あとでレビンソンその他のプリとの組合せをいくつか試みたにもかかわらず、右に書いたTVA1の良さは、C240が最もよく生かした。というよりもその音の半分はC240の良さでもあったのだろう。例えばLNPではもう少し潤いが減って硬質の音に鳴ることからもそれはいえる。が、そういう違いをかなりはっきりと聴かせるということから、TVA1が、十分にコクのある音を聴かせながらもプリアンプの音色のちがいを素直に反映させるアンプであることもわかる
*
TVA1の音の個性は、どちらかといえば濃い、といえる。MC275もそういうところをもつ。
それでいて両者とも、意外にもフレキシビリティの高さももっている。
11月7日のaudio sharing例会「瀬川冬樹を語る」でも出た話題であり、
私がステレオサウンド働いていたときも辞めたあとも、なんどか出た話題が、
瀬川先生が生きておられたスピーカーは何を鳴らされているか、ということだ。
いまならば、間違いなくジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットを使われている。
ジャーマン・フィジックスのスピーカーシステムにされているか、
菅野先生と同じようにDDD型ユニットを中心としたシステムを自分で組まれるか、
たぶん後者ではなかろうか、とは思うけれど、
どちらにしろジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットを核としたシステムである。
これは断言しておく。
菅野先生がジャーマン・フィジックスのTrobadour40を導入されたとき、
たしか2005年5月だった。
このとき聴き終った後、
「瀬川先生が生きておられたら、これ(Trobadour40)にされてたでしょうね」、
自然と言葉にしてしまった。
菅野先生も
「ぼくもそう思う。オーム(瀬川先生の本名、大村からきているニックネーム)もこれにしているよ」
と力強い言葉が返ってきた。
私だけが思っていたのではなく、菅野先生も同じおもいだったことが、とてもうれしかった。
すこしそのことを菅野先生と話していた。
菅野先生はいまはTrobadour40からTrobadour80にされている。
ウーファーはJBLの2205、その下にサブウーファーとしてヤマハのYST-SW1000が加わり、
スーパートゥイーターとしてエラックのリボン型4PI。
瀬川先生がどういうウーファーと組み合わされるのか、
やはりスーパートゥイーターとしてエラック4PIを使われるのか、
そういう細かいことをはっきりとはいえないし、
もしかするとThe Unicornを中心としたシステムを組まれていたことだって考えられる。
それでも、ジャーマン・フィジックスのDDD型に惚れ込まれていたことだけは、確信している。
だから「瀬川先生が生きておられたら……」で考えるのは、
最後に鳴らされていたJBLの4345とジャーマン・フィジックスのあいだをうめるスピーカーについて、
ということになる。
もうこんな時間(1時40分)なので、すでに昨夜のことになってしまったが、
毎月第一水曜日に四谷三丁目にある喫茶茶会記で行っているaudio sharing例会、
今回は11月7日、瀬川先生の命日ということだったので、前回お知らせしたように、
「瀬川冬樹を語る」がテーマだった。
途中からではあったが、サンスイに当時に勤務されていて、
瀬川先生とも親しくされていた西川さんが来てくださった。
始まりは7時、終ったのは11時をすこしまわっていた。
いろんな話が出た。
そして、ひとつ確認できたことがあった。
やっぱりそうだったんだ、と。
別項「岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと」の(その7)で、
瀬川先生と岩崎先生はライバル同士であり、お互いに意識されていたはず、だと、
瀬川先生の文章を読んでも、岩崎先生の文章を読んでも、そう感じるようになっていた、ということを書いているが、
西川さんの話で、瀬川先生は岩崎先生のことを、岩崎先生は瀬川先生のことを、
もっとも手強いライバルであり、オーディオの仲間同士として意識されていたことを確認できた。
間違いのないことだとは思っていたことが、確認できた。
私にとって、そういう11月7日だった。
来年の11月7日は、33回忌になる。