別項「ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その7)」で、
マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)は、
マリア・カラスの自画像そのものだ、と書いた。
このことに気づいてからは、
では、あの演奏家の「自画像」といえる演奏は、あるのかないのか。
あるとしたら、いったいどれなのだろうか、と考えることになる。
グレン・グールドについて、まず考えた。
グレン・グールドの自画像といえる演奏(録音)は、どれなのか。
ゴールドベルグ変奏曲に決っているだろう、という声は多いだろう。
でも、そうだろうか、とおもう。
グレン・グールドはバッハの録音を多く残している。
グレン・グールドはゴールドベルグ変奏曲でデビューして、
死の前年に再録音を行っている。
ゴールドベルグ変奏曲という作品のことを考え合わせれば、
いかにもグレン・グールドの自画像的といえる。
でもなんだろうか、自画像というよりも、肖像画という気がする。
多くの人がそうだっただろう、と勝手におもっているが、
グレン・グールドのブラームスの間奏曲集を聴いた時、
これもグールドなのか、と私は思った。
こういう演奏をする人なのか、と思った。
デジタル録音になってからのブラームスも、私は好きである。
では、これなのか、と自分に問う。
何か違うような、そんなところが残っている感じがする。
意外にも、グレン・グールドの自画像といえる録音は、
音楽作品ではなく、ラジオ番組の録音ではないのか、という気もする。
そんなことを考えていると、シルバージュビリーアルバムこそが、
グレン・グールドの自画像なのかもしれない。
日本ではLP一枚で発売されたが、本来は二枚組である。
二枚目には、「グレン・グールド・ファンタジー」が収められていた。
グレン・グールドの独り芝居が収められている。
これも「音による自画像」といえば、たしかにそうだ。
それでも、私にとって、グレン・グールドはまずピアニストである。
ピアニストとしてのグレン・グールドの自画像は、
私には、ハイドンのように思えてならない。
「グレン・グールド・ファンタジー」でのグレン・グールドだからこそ、
こういうハイドンが演奏できるんだな、とおもうからだ。