Archive for category 「スピーカー」論

Date: 11月 2nd, 2015
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その14)

ウェスターン・エレクトリックのスピーカーユニットやアンプ、それに真空管は中古で流通している。
法外な値段を支払えるのであれば、そして納期を決めなければ、
未使用のユニットの入手も決して不可能なわけではない。

けれどこれらはウェスターン・エレクトリックが販売してきたモノではない。
ウェスターン・エレクトリックは劇場に、スピーカーやアンプを売っていたわけではない。
あくまでもレンタルしていた会社である。

日本の劇場でもウェスターン・エレクトリックの音が聴けていた時代、
ウェスターン・エレクトリックのユニットや真空管が稀に入手できていたそうだが、
それらは補修部品がなんらかの理由で流出したものだときいている。

ここが、いわゆるオーディオメーカーとは、根本的に違う点である。
世の中のすべてのオーディオメーカーは、なんらかの製品を売っている。
アンプであったりスピーカーであったり、カートリッジであったりする。

けれどウェスターン・エレクトリックが売っていたのは、その音である。
アンプやスピーカーといったモノを売っていた会社ではなく、
その「音」を売るために、劇場にアンプやスピーカーをレンタルしていた。

音を売るのか、モノを売るのか。
その違いを、我々は忘却しているのではないだろうか。

Date: 11月 2nd, 2015
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その13)

伊藤先生の「獄道物語」は最低でも一度は読んでいる。
それでも、いま読み返していると、以前読んだ時以上に興味深い。

まだまだ引用しておく。
     *
 家庭で聞いてバランスのとれた音のスピーカーもステージに置くと、それを何十個並べ立てても客席に到達するまでに聞くに堪えない消え入るばかりの音に痩せ細ってしまう。アンプの出力とは関係なく要はスピーカーの効率だけに絞られてしまう。舞台全面でなんとなくたち騒いでいる感じで画面にくローズアップされた大砲が煙を吐くと同時に耳をつんざく砲声を期待していると「さながら遠雷を聞くが如し」的音がしてしまうのである。哀しいことである。
     *
この項で以前書いた、音が飛ぶスピーカーとそうでないスピーカーがあるのは、そういうことではないのか。
つまり遠くで聴いても音が痩せ細らないスピーカーと痩せ細ってしまうスピーカーとがある。

測定上の音圧は同一であっても、
音が痩せ細ってしまっては、音が飛んでこない、と感じてしまう。

伊藤先生は続けて書かれている。
     *
音はステージから客席に訴えるものであって、シネラマやシネスコープの効果音的効用としての客席周囲の壁面のスピーカーの存在は認めるが、殊に音楽の鑑賞用としてのスピーカーは舞台(ステージ)が基本である。
 大きなホールで四チャンネルステレオを試聴する催が増えて来たが止むを得ぬ事情とは察するが昏迷の世界への勧誘であると思う。
 劇場ではステージから出る音のみに限られ(例外はあるが)、その音の聴衆に到達するまでのある程度のリバービレーションを経た音を鑑賞している。
 一方あたかもその劇場に坐しているかのように現在狭い部屋にいる人に錯覚を起こさせるのが四チャンネル方式である。これを広いホールで演奏し鑑賞させた結果が如何なるものかを判別できないとしたならば無感覚も甚だしきものである。
 適当な広さ(狭さ)の部屋に小人数を招じ入れて最良の条件の位置に坐らせて聞かせるのが四チャンネル方式であり、「何処でもいい処に坐って下さい」といって聞かせるのが劇場である。
 こんな平凡なことが忘却されている処に目的を逸脱した昏迷がある。
     *
ここで伊藤先生が述べられている4チャンネル再生と、
現在のハイエンドオーディオと呼ばれているスピーカーの音場再現とを、
完全に同一視するわけではないし、できないことはわかっているが、
それでも「最良の条件の位置に坐らせて聞かせる」ところは共通するところである。

Date: 11月 1st, 2015
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その12)

トーキー用スピーカーといえば、まずウェスターン・エレクトリックのスピーカーのことである。
その次にシーメンスのスピーカーが、私の場合は頭に浮ぶ。

ウェスターン・エレクトリック、シーメンスときいて、私はそれぞれのスピーカーの型番よりも、
まず先に思い出すのは伊藤先生のことだ。

伊藤先生はトーキーの仕事をされてきた方だ。
伊藤先生はトーキー用スピーカーのことをどう表現されているのか。

ステレオサウンド 24号掲載の「獄道物語(2)」で、
劇場用と家庭用の音のあり方、について書かれている。
     *
 映画の音に就いて甚だ感覚的な談をさせて頂くが、前号にも述べたように今まで自分が追求していた音のすべては自分の住居の広さ、つまり極めて狭い場所で鑑賞していたのに較べて映画の音は劇場のあの広さの中で聞くのである。しかも入場税までも払って鑑賞するのである。「新発売、当社のステレオ装置試聴会にご招待、粗品呈上」とはわけが違う。聴衆は貪欲に聴こうとする。
 とにかく金を払ったからには聞く方は必死であり、金を取ったからには聞かせる方も真剣である。スクリーンに画が映るというおまけがあるが私達には音の方が大切である。
 ウェスターンの再生装置を確認して入場するのである。勿論光学録音であるから自分の所有している再生装置と音を較べくもないが問題は休憩時間に演奏してくれるディスクである。一般に市販されているレコードをかけてくれるのである。
 ステージに据付けられた五五五型のレシーバーから流れ出るその音は、最早私に帰宅して自作のシステムを聞こうとする意欲を完全に喪失させてしまうほどの絶品であった。
 英国フェランティのスピーカーとトランス、そして英国マルコニのピックアップで組み上げた私の装置も顔色なく、よい音を出すには生やさしい金では不可能であるという諦めとも悲憤ともつかぬ、初恋の失恋でなく分別盛りの失恋に似たものを味わわされた。
 相当のパワーを出して、ある距離をおいて、ある拡がりを与えてから聞く目的のスピーカーは別格のものである。
     *
伊藤先生が映画館に、ウェスターン・エレクトリックの音を聴きに通われていたころは、
休憩時間にレコードがかけられていたことがわかる。
私が小さかったころ、いなかの映画館でも休憩時間には音楽が流れていた。
けれど、それはレコード(ディスク)ではなく、テープであったはずだ。

上京してからも、休憩時間には音楽が流れていたが、
あきらかに貧相な音で鳴っているのしか記憶にない。

休憩時間にウェスターン・エレクトリックのシステムでディスクが聴ける。
うらやましい時代である。

24号は1972年のステレオサウンドである。
ここで、伊藤先生は「休憩時間に演奏してくれるディスク」という表現されていることにも注目したい。

Date: 3月 2nd, 2015
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(ピストニックモーションにまつわる幻想・その1)

ソニーのマイクロフォンの広告からエレクトロボイスのことを思いだし、
エレクトロボイスといえば、フェノール系のダイアフラムのことを私は連想する。

アルテックにしろJBLにしろ、
ウェスターン・エレクトリック系のコンプレッションドライバーのダイアフラムは金属である。
JBLのドライバーにも、フェノール系のダイアフラムのモノはあった。
2470、2482などがそうである。
だがこれらのドライバーはPA用に使われることが多く、
スタジオモニター、家庭用のスピーカーでは使われていなかったし、
JBLのコンシューマー用ドライバーにはフェノール系のダイアフラムのモノはない。

そのため、どうしても金属系のダイアフラムの方が音のクォリティは上で、
フェノール系は下にみられることもある。

それにコンプレッションドライバーのダイアフラムとして使われ、
ピストニックモーションの範囲内でしか使わないのであれば、
ダイアフラムの材質固有の音はしない、という意見もある。

そう主張する人たちは、フェノール系よりも金属系のほうがピストニックモーション領域が広い、
なのでフェノール系のダイアフラムを使う意味はない、ということになるらしい。

だが、そう言い切っていいのだろうか。
ほんとうにピストニックモーションの帯域においては、
ダイアフラムの材質固有の音はしない、と言い切れるのか。

Date: 8月 11th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(Dolby Atmos・その7)

2014年「ゴジラ」を観ていながら、つい1954年に「ゴジラ」を観た人たちは、
この2014年のハリウッド「ゴジラ」を観たら、どう感じるのだろうか──、ということをぼんふりと思っていた。

1954年の「ゴジラ」はモノクロ映画で、音声も映画と比較すると周波数レンジも狭く、
映画の音響としての効果もあまり期待できるものではなかったはず。

それにゴジラも着ぐるみによる演技で、ゴジラによって破壊される東京の街並もミニチュアである。
いまの映画の技術水準からすれば映像も音もずっと貧弱ということになるわけだが、
表現としては、必ずしも貧弱とはいえないところがあったからこそ、
60年後の現在、新たなゴジラが生み出されている。

2014年「ゴジラ」の咆哮に、感慨はなかった。
60年前、映画館でゴジラの咆哮を初めてきいた人たちは、どう感じていたのだろうか。

1954年と2014年は、何もかもが変っている。変りすぎているところもある。
1954年は1945年からまだ九年しか経っていない。
私は1963年生れだから、当時の雰囲気を肌で感じていたわけではない。
それでも、1945年から九年ということで、想像できることはある。

1954年の空気の中でのゴジラの咆哮は、何かを切り裂いていた、はずだと思う。
2014年の空気の中でのゴジラの咆哮は、何ものも切り裂いていなかった、切り裂けなかった。
私はそう感じている。

Date: 8月 7th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(Dolby Atmos・その6)

なぜ体が反応しないのか。
反応しないことで、どう感じていたのか。

結局、「ゴジラ」のドルビーアトモスによる音響には、
「スタートレック イントゥ・ダークネス」、「アメイジング・スパイダーマン2」にあったものがなっかた。
それは、映画の音響としてのリアリティだと思う。

「スタートレック イントゥ・ダークネス」、「アメイジング・スパイダーマン2」もリアリティがあったからこそ、
臨場感があったように思える。
反対に臨場感があったからリアリティを感じていたのかもしれない。

どちらにしても絵空事の音と観客を冷静にさせてしまうような音ではなく、
何かを体験しに映画館に行った、というリアリティが、
「スタートレック イントゥ・ダークネス」、「アメイジング・スパイダーマン2」にはあったし、
「ゴジラ」には残念ながら、かなり稀薄だった。

私だけがそう感じたのか、とも思い、
私が観たTOHOシネマズ日本橋で、「アメイジング・スパイダーマン2」と「ゴジラ」を観た人にきいてみた。
私と同じ感想だった。

そして「ゴジラ」本編が始まる前のドルビーアトモスのデモ・ムービーの出来が良すぎた、ということも、
私とまったく同じだった。

このリアリティの稀薄さをもっとも嘆きたくなるのがゴジラの咆哮だ。

Date: 7月 28th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(Dolby Atmos・その5)

「スタートレック イントゥ・ダークネス」、「アメイジング・スパイダーマン2」では、
いくつかのシーンで、そこで鳴っている音に反射的に体が反応してしまう。
それだからこそ、臨場感という、いまではオーディオではあまり使われなくなってきている、この表現を使う。

ただ、いい音がしているだけでは体は反応しない。
体が反応するということは、現実の音と錯覚しているのかもしれない。
何が要因でそうなるのかまではわからないまでも、ドルビーアトモスには、まさしく臨場感がある。

映画のシーンでは、空間がつねに同じわけではない。
閉ざされた空間もあれば開放された空間もあるし、
閉ざされた空間にしても、どういう構造体により閉ざされているのか、という違いはあるし、
閉ざされている空間が、何かによって一瞬にして開放されることもある。

そういった空間のシチュエーションを映像だけでなく、音響でも表現できるのがドルビーアトモスのような気がする。

「ゴジラ」にもいくつもの空間のシチュエーションがあった。
だかそこで鳴っている音が、それぞれのシチュエーションを見事に表現していたか、というと、そうとはいえない。
たとえばあるシーンで閉ざされた空間から、重い扉を開けたら、というシーンがある。
そこは堅固な構造物でのシーンから外界へ切り替るシーンでもある。

映像では暗いシーンから明るいシーンへとなる。
だが、音響がそれについていっていない。
だから、いい音で鳴っているな……、と終ってしまう。
体が反応する、ということがない。

Date: 7月 28th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(Dolby Atmos・その4)

1963年生れだから、子供のころ、ゴジラは映画館でよく観た。
今年はゴジラ生誕60周年で、ハリウッド制作の「ゴジラ」が7月25日から公開されている。

「スタートレック イントゥ・ダークネス」、「アメイジング・スパイダーマン2」を、
3D+ドルビーアトモスで観た私は、
ゴジラのような巨大生物が登場する映画こそ、3D+ドルビーアトモスで観たい映画である。

ハリウッド制作の「ゴジラ」がドルビーアトモスだということは早くから伝わっていた。
1998年のハリウッド制作の「ゴジラ」と今回の「ゴジラ」はずいぶん違う、ということも伝わってきた。
期待は高まるわけで、できるだけ早いうちに観に行きたいと思っていたら、
鑑賞券が当った、というメールが、25日に届いた。

そういえはfacebookで鑑賞券プレゼントに応募していた、と思い出した。
しかもドルビーアトモスによる上映の鑑賞券である。
日時も指定されているから、さっそく昨日コレド室町にあるTOHOシネマズに行ってきた。

「スタートレック イントゥ・ダークネス」、「アメイジング・スパイダーマン2」の上映にはなかった、
ドルビーアトモスのデモ(短い時間のもの)が、本編の直前に流れた。
これの出来がすごくいいだけに、「ゴジラ」本編のドルビーアトモスその期待は、さらに大きくなっていた。

「スタートレック イントゥ・ダークネス」、「アメイジング・スパイダーマン2」を観て、
ドルビーアトモスの特長は臨場感にある、と感じていた。
なのだが、残念なことに「ゴジラ」では、その臨場感が期待したほどではなかった。

今回の「ゴジラ」がドルビーアトモスを初めて体験するのであれば、
けっこう高い評価をしたであろうが、すでに二回体験し、その臨場感に昂奮していたのだから、
つい厳しいことをいいたくなる。

Date: 7月 21st, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その11)

まだアルテックが健在だったころ、
JBLと比較でよくいわれていたのは、アルテックの方が音が飛ぶ、ということだった。

スピーカーの正面1mのところにマイクロフォンを立て、
どちらのスピーカーシステムも同じ音圧になるように設定する。
そして音を出す。

さほど広くない空間では、アルテックもJBLもスピーカーからの距離がましても差はあまりないが、
小劇場くらいの空間となると、後方の席まで音が届く(飛ぶ)のはアルテックである、と。

私はそういう空間での比較試聴をしたことはないけれど、そうだろう、と納得できる。
ここでいうアルテックのスピーカーとは、おそらくA7、A5といったところだろうし、
JBLは、というと、どれを指すのかはっきりとしないけれど、
同口径のウーファーと同規模のコンプレッションドライバーとホーンの組合せとなるのだろう。

どんなスピーカーであり、離れればそれだけ音圧は低下する。
球面波か平面波という違いがあれば、距離による音圧の減衰の仕方もちがってくるが、
どちらもホーン型で指向特性において大きく違わないのであれば、音圧の減衰も同じような結果になるはず。

にも関わらずアルテックは音が飛び、JBLはそうでない、といわれてきた。
おそらく音圧はアルテックもJBLも低下する。
ただ音圧と音量に対する聴き手の感じ方が違いがあるのであれば、
片方のスピーカーは音が飛び、トーキー用スピーカーにおいても、
スクリーン裏のスピーカーだけで劇場後方の席の観客も満足させることも不思議なことではなくなる。

Date: 7月 16th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その10)

スピーカーとの位置関係を自由に変えるようなことをコンサートホールではまず行えない。
たいていが全席指定席だし、全席自由席でがらがらの入りであれば、
ステージと聴き手との距離を変えることはできても、そんなことはまれにしかない。

いわばコンサートホールでは固定である。
同じことは映画館もそうだ。

いまの映画館と違い、
トーキー用スピーカーと呼ばれていた時代の映画館では、
スピーカーはスクリーン裏に設置されたモノだけだった。
つまりメインスピーカーだけで、客席の両側にサブスピーカーと呼ばれるモノの存在はなかった。

スクリーン裏のメインスピーカーだけで観客全員を満足させなければならない。
それは音質面だけではなく、音量面において、でもある。

このふたつの満足のうち、難しいのは音量面での満足ではなかったのか。
スクリーンのすぐ近く(つまり前の席)と後方の席とでは、通常到達する音圧は違ってくる。

簡単に考えれば前の席の観客にとってちょうどいい音量であれば、
いちばん後方の席の観客にとっては小さな音量となるだろうし、
反対にいちばん後方の席の観客に十分な音量にすれば、最前列の席の観客は大きすぎる、と感じることだろう。

私は残念ながら、ウェスターン・エレクトリック、シーメンスといった、
佳き時代のトーキー用スピーカーを設置した映画館で鑑賞した経験はない。

だからなにひとつはっきりしたことはいえないのだが、
それでも同じ料金を払っている観客全員を、音質・音量ともに満足させていたはずだ、と思う。

このことが家庭用スピーカーとトーキー用スピーカーの、大きく異っている点ではないのか。

Date: 7月 16th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その9)

ステレオサウンド 68号のスーパーマニアの冒頭にこう書いてある。
     *
 ぼくがQUAD/ESLの存在を意識するようになったのは、亡くなられた岩崎千明さんのお宅で聴かせていただいてからなんです。確かカウント・ベイシーのビッグバンドをかけていただいたように記憶しているんですが、ほく自身ESL=室内楽という先入観があったものだから、恐る恐る聴いたというのが正直な感想でしたね。
 しかし、ESLから厚みのある輝かしいブラスのサウンドが流れはじめるや、思わずのけぞってしまいましたね。「こいつはすごい」ということになって、左右のスピーカーから1mくらいのところに陣取って、そう、ちょうど雰囲気としてはでっかいコンデンサー型ヘッドフォンを耳にぶらさげているような感じで、ビッグバンド・ジャズやコンボ・ジャズのとびきりハードな演奏ばかり次から次に聴かせていただいたのが懐かしい思い出ですね。
     *
68号が出たのは1983年。
私がESLを鳴らすようになったのは三年後くらいである。
そして岩崎先生のESLと同じように、1mくらいのところで聴いていた。

このことは体験してみると、よくわかる。
ESLを至近距離で聴くとき、それまでのESLの、どこかひ弱なところが残るというイメージは払拭される。

朝沼さんは「厚みのある輝かしいブラスのサウンド」と書かれている。
これもよくわかる。
そういう音がESLから聴ける、のである。

これは再生オーディオにおいては、レベルコントロールの自由とともに、
聴取位置の自由があり、ここで書いているような音がESLから欲しければ、思いきって近づいて聴けばいい。

反対に、他のスピーカーではぐんと離れて聴く、という聴き方の自由が聴き手にはある。

レベルコントロールが常に同じではないように、
聴取位置もつねに同じでなくともいい、ということ。

これは再生オーディオならではの聴き方である。

Date: 7月 16th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その8)

再生音量設定の自由は、なにもコントロールアンプやプリメインアンプのレベルコントロールの操作だけではない。
スピーカーとの距離を変えるのも、音量設定の自由である。

私は20代のなかばごろ、QUADのESLを鳴らしていた。
パワーアンプはSUMOのThe Gold。
5.5畳ほどの狭い空間だった。

そこで鳴っていた音は、多くの人がイメージするESLの音量的な制約はほとんど感じさせなかった。
狭い部屋ということで、しかも長辺の壁にESLを置いていたから、
ESLと私と距離はほんとうに近い。

そういう環境でESLの仰角を調整していた。

そうやって得られた音は、マーラーの最新録音を鳴らしても不足は感じなかったし、
大丈夫だろうか、という不安も感じなかった。

私だけがそう感じていたわけではない。
それにやはりESLで同じ体験をされた人がいる。

ステレオサウンド 68号のスーパーマニアに登場されている朝沼吉弘氏だ。
吉弘は予史宏の変換ミスではなく、のちの朝沼氏予史宏氏の、このときのペンネームである。

Date: 7月 14th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その7)

1977年12月に出たステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’78」に、
JBLの4350Aの組合せ記事がある。

菅野サウンドのジャズ・レコードを
制作者の意図したイメージで聴きたい

この見出しがついていて、4350Aを選択し、組合せをつくられたのは菅野先生である。

組合せ例はここでのテーマとは関係のないことだが、一応書いておく。
スピーカーはいうまでせなく4350A。
アンプはコントロールアンプがアキュフェーズのC220、
エレクトリッククロスオーヴァーネットワークもアキュフェーズで、F5。
パワーアンプは低域用にアキュフェーズM60、中高域用にパイオニアExclusive M4。
アナログプレーヤーはテクニクスのSP10MK2にSH10B3(キャビネット)、
トーンアームはフィデリティ・リサーチのFR64S、カートリッジはオルトフォンMC20である。
この他に、ビクターのグラフィックイコライザーSEA7070が加わる。

この記事で、菅野先生が話されている。
     *
私は『サイド・バイ・サイド』にかぎらず、とくに私自身が制作・録音したジャズのレコードは、実際よりも大きな音量で楽しんでいます。さらにいえば、『サイド・バイ・サイド』のシリーズの場合、かなりのラウドネスで聴いていただいてはじめてベーゼンドルファーの音色の細やかさ、まろやかさ、芯の強さといったものが生きてくると思います。
     *
私はなにも大きな音量で必ず聴け、といいたいのではなく、
音量設定の自由に自ら制約をつくっていかなくてもいいのではないか、ということだ。

Date: 7月 14th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その6)

どうも日本には、実際の楽器の音よりも大きな音で再生することに対して、
蔑みの目で語りがちなところが昔からあるように感じている。

チェンバロやヴァイオリン・ソロを、大きな音で鳴らす。
そこには知的な要素が完全に欠けているような感じで受けとめられがちである。

それが逆に小音量で、ということになると、印象は違ってくる。
なぜ実際の楽器の音より小さな音は認められていても、大きな音で聴くことは認められていない、
もしくは躊躇いがちになる人がいるのか。

オーディオには音量設定の自由があるのに、それを放棄するようなこと、
それも実際の楽器そのままの音量と同じ再生音量ということにこだわるのならばまだしも、
小さな音量は認めても、大きな音量は認めないのか。

こんなことを書いていくと、
録音物の制作者が、実際の楽器の音より大きな音での再生を望んでいない、と主張する人がいる。
ほんとうにそうだろうか。

録音エンジニアに直接聞くなり、発言している記事を読んでのことなのだろうか。
録音エンジニアも大勢いるから、実際の楽器の音より大きな再生音なんても認められない、という人もいると思う。
再生音量は聴き手にまかせられていることだから、制作者側が口出しすべきことではない、という人もいるだろう。

実際の楽器の音よりも、大きな再生音で自分で録音したものを楽しんで聴いている録音エンジニアもいる。

Date: 7月 14th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その5)

ピアノのAキーを叩く。
440Hzのピアノの単音が鳴る。
ここで鳴ってくるのは440Hzの正弦波ではない。

もし440Hzの正弦波が鳴ってくるのであれば、
ピアニッシモの440Hzの音とフォルテッシモの440Hzの音との区別は、
音量が同じであれば区別はつかない。

けれど鳴ってくるのはあくまでもピアノの音であり、
このピアノの音には近接している弦が共鳴する音、
ピアノのボディの音などがいっしょに鳴ってくる音であり、
強く弾かれたときと弱く弾かれたときとでは、これらの要素が変ってきて、
そのことにより、たとえ音量に違いがなくとも、ピアニッシモで本来鳴っている音と、
フォルテッシモで鳴っている音との区別はつく。

もちろんこれは音を聴いてきた時間(経験)があるからで、
まったくピアノの音も、その他の楽器の音も聴いたことがない人にとっては、
再生音量が同じであれば、ピアニッシモのピアノの音とフォルテッシモのピアノの音は、
どちらがどうかとはわからないかもしれない。

われわれはどんなに小音量で聴いていても、
フォルテッシモで鳴っている音はそうであることがわかるし、
反対に大音量で聴いていても、ピアニッシモで鳴っている音はそうだとわかる。

だからこそオーディオにおいて音量の自由が存在している、といえる。