Archive for category デザイン

Date: 8月 13th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その3)

1960年代のJBLのアンプに、
プリメインアンプのSA600とコントロールアンプのSG520がある。

SG520はスライドボリュウムとボタンスイッチによるパネルデザイン、
SA600は丸ツマミとレバースイッチによるパネルデザイン、
どちらが好きかといえば、私はためらわずSA600をとる。

SG520は短い期間ではあったけれど使っていた。
SG520が登場した1960年代なかばは、まだまだ管球式ンプが現役といえた時代である。
トランジスターアンプに対する評価は、
そういった管球式アンプとの比較で欠点を指摘されることが多かった時代、ときいている。

そういう時代にJBLは、
トランジスターアンプならではの、それまでの管球式アンプでは聴けなかった新鮮な音を出したアンプとして、
そのことを視覚的に打ち出したことが、あのパネルデザインなんだろう、とは理解できる。

けれど、その後のコントロールアンプを見てきていた目には、
SG520が、もう少し薄型であったなら、もっとスマートな印象になるのではないか、といつも思っていた。

もっともシャーシーの高さは、使用されているスライドボリュウムのストロークから決ったものであろうから、
あれ以上薄くすることは無理なのも理解している。

それでも、もう少しだけ薄くあったら……、と思ってしまうのは、SA600の存在があるからだ。

Date: 8月 13th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その2)

10代、20代のころは、とにかく物量を投入したモノに強い魅力を感じていた。
QUADもいい、と感じていた。
けれどそのころの私にとってのQUADに感じる良さは、メインのシステムとして見ていたわけではなく、
物量をおしみなく投入したメインのシステムを所有していたうえでの、
別のシステムとしてのQUADの存在が魅力であった。

DBシステムズのアンプのように、コンパクトで、外観にほとんど気を使わず、
コストを抑えるよう設計されたモノにも感じながらも、
もしDBシステムズのアンプを自分のモノとしたら、
外付けの電源を物量投入のものに改造したりする自分が見えてもいた。

物量が投入されていればいい、というわけではない。
それでいて凝縮されていなければならなかった。

そのころ妄想していたことがある。
私がオーディオに関心をもち始めた1976年には、
AGIのコントロールアンプ511とQUADのパワーアンプ405の組合せが話題になっていた。
そのときは、ただそうなんだぁ、という感じで記事を読んでいた。
数年が経ち、ステレオサウンドに入り、511、405に触れ、中を見ることができるようになると、
以前相性のいいといわれた、このふたつのアンプを、ひとつの筐体にまとめることはできないものだろうか、と。

具体的にいえば、511のシャーシーの中に、405の中身を追加する、ということだ。
スペース的に、決して不可能なことではない。
基板の配置やシールドには配慮が必要になるだろうが、おさめようと思えばできる気がしてくる。

実際にやりはしなかったけど、511の中に511と405を組み込めれば、
なかなか魅力的なプリメインアンプとなるわけだが、
そこで思ったことがある。

そうやって改造した511を、私はプリメインアンプとして認識できるのだろうか、と。
511のデザインを、プリメインアンプのデザインとして認識し直すことができるのだろうか。

Date: 7月 7th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その1)

人によって、こうも感じ方が違うものか、ということをインターネットを通じて感じることがある。
オーディオ機器のデザインについても、そう感じている。

いま私の目の前にはJBLの「Harkness」とトーレンスのTD224がある。
毎日眺めている。
どちらもいいデザインだとおもう。
そして、どちらも時代を感じさせてくれる。

いいデザインとは、その時代を感じさせてくれるものではないのだろうか。

facebookやtwitterなどのSNSの普及により、
いろんな意見を目にするようになった。
このあいだも、マランツのModel 7のデザインが素晴らしい、という書き込みをみかけた。
そこにコメントがあり、「時代を感じさせないデザインで、素晴らしい」とあった。
このコメントに同意される方もいた。

そうなのか、と私などは思っていた。
Model 7のデザインもいい。
真空管のコントロールアンプで一台だけ手もとに置いておきたいとなると、
やはりマランツのModel 7を選ぶ。

20代のとき手に入れようとしたこともあった。
そのころに較べると、無理をしてでも……という気持はずいぶん薄れてしまったけれど、
縁があれば欲しい、という気持は抑えられない。

でも、私はmodel 7のデザインは「時代を感じさせない」とは思っていない。
「時代を感じさせてくれる」デザインであり、いいデザインだと思っている。

「時代を感じさせない」は、ほんとうに讚辞の言葉なのだろうか。

Date: 8月 6th, 2011
Cate: デザイン

日米ヒーローの造形(その1)

先日、ふと気づいたことがある。
オーディオとは関係のないことなのだが、アメリカン・コミックスのヒーローと
日本の代表的なヒーロー(ウルトラマン、仮面ライダー、キカイダーなどなど)との造形に違いには、
能という伝統芸が日本にあることと関係しているのではないか、ということ。

アメリカン・コミックスの代表的な、もっとも有名なヒーローはスーパーマン。
スーパーマンのように素顔のまま活躍しているヒーローは多い。
仮面を被っていたとしてもバットマンがそうであるように、口元と目はこちら側から見えていて、
そこには表情の変化がはっきりと出ている。
顔全体をすっぽり覆ってしまったヒーローもいる。アイアンマンやスパイダーマン。
映画で観るかぎり、このふたりもたびたび素顔を出すシーンが多い。

そんなアメリカン・コミックスのヒーローとは対照的に日本のヒーロー、
ウルトラマン、仮面ライダーには仮面によって表情の変化は一切ない。
だからといって無表情かというと、そうともいえない。

能では仮面をつける。目の開口部も必要最小限に抑えられていて、演じる人の表情はほとんどつかめない。
だからといって表情の変化を能では表現していないのかというと、そんなことは、もちろんない。
わずか所作、陰影によって表情を生み出している。
それを観客は暗黙の了解のうちに読みとっていく。

そういう能と、日本のヒーローを完全に同一視できないところはあるだろうが、それでも無関係とも思えない。
仮面ライダーはマンガが原作である。マンガではコマの中にあるのは静止画だ。
カラーページであることもそうあるわけではない。
ほとんどがモノクロで描かれている──、これらの制約の中でキャラクターは無表情にとどまっているわけではない。

何がいいたいかというと、そんな寡黙の中に表情をもたせてきている日本なのに、
なぜか音、とくにスピーカーシステムは、ある時期まで饒舌で陰影についても排除していたことについてである。
なぜこれほど視覚と聴覚で、その世界が極端に違ってくるのか。