Archive for category 音楽家

Date: 5月 19th, 2009
Cate: Wilhelm Backhaus, 五味康祐

ケンプだったのかバックハウスだったのか(補足・2)

イーヴ・ナットの、EMIから出ているベートーヴェンのピアノ・ソナタを録音したのは、
アンドレ・シャルランのはずだ。

ワンポイント録音で知られるシャルラン・レコードの、シャルラン氏だ。
彼はシャルラン・レコードをつくる前に、
EMIで、あとリリー・クラウスの、モノーラル録音のピアノ・ソナタも行なっていたはず。

ナットのベートーヴェンもおそらくワンポイントかそれに近い録音だろう。

「天の聲」所収の「ステレオ感」に五味先生は、シャルランについて書かれている。
     ※
録音を、音をとるとは奇しくも言ったものだと思うが、確かにステレオ感を出すために多元マイク・セッティングで、あらゆる楽器音を如実に収録する方法は、どれほどそれがステレオ効果をもたらすにせよ、本質的に、”神の声”を聴く方向からは逸脱すること、レコード音楽の本当の鑑賞の仕方ではないことを、たとえばシャルラン・レコードが教えていはしないだろうか。周知の通り、シャルラン氏はワンポイント・マイクセッティングで録音するが、マイクを多く使えば音が活々ととれるぐらいは、今なら子供だって知っている。だがシャルラン氏は頑固にワンポイントを固守する。何かそこに、真に音楽への敬虔な叡知がひそんでいはしないか。
     ※
「神の声を聴く方向から逸脱」しない、
「真に音楽への敬虔な叡知がひそんでいる」であろうシャルラン氏のワンポイント録音によって、
ナットのベートーヴェンの作品111は録られている。

五味先生が、ナットの作品111をどう聴かれていたのか。
「西方の音」のページをくる。

Date: 5月 19th, 2009
Cate: Wilhelm Backhaus, 五味康祐

ケンプだったのかバックハウスだったのか(補足・1)

ケンプの演奏によるベートーヴェンのピアノソナタ第32番が、
五味先生が病室にて最期に聴かれたレコードなのは、すでに書いているが、
タンノイ・オートグラフで愛聴されていたのは、バックハウスの演奏である。

それもスタジオ録音のモノーラル盤、ステレオ盤ではなく、
1954年、アメリカへの入国禁止が解かれ、3月30日、カーネギーホールでのライヴ盤を愛聴されていた。

バックハウスは、このあと来日している。
五味先生は聴きに行かれている。日比谷公会堂での演奏だ。

前年、「喪神」で芥川賞を受賞されていたものの、新潮社の社外校正の仕事を続けられていたときで、
2階席しかとれず、「難聴でない人にこの無念の涙はわからないだろう」と、
「ウィルヘルム・バックハウス 最後の演奏会」の解説に書かれている。

日本でも、バックハウスは、作品111を演奏している。

カーネギーホールでの演奏と、五味先生が聴かれたコンサートがいつなのかはわからないが、
そのあいだは約1ヵ月ほどだろう。
1954年のカーネギーホールのライヴ盤を愛聴されていたのは、単なる偶然なのか。

このレコードについて、「ステレオのすべて No.3」(朝日新聞社)に書かれている。
     ※
作品111のピアノ・ソナタ第32番ハ短調もそんな後期の傑作の1つである。バックハウスのカーネギー・ホールにおける演奏盤(米ロンドLL-1108/9)を今に私は秘蔵し愛聴している。作品111はベートーヴェンの全ピアノ曲中の白眉と私は信じ、入手し得るかぎりのレコードを聴いてきた。印象に残る盤だけを挙げても、ラタイナー、イヴ・ナット、ケンプ、ミケランジェリー、グレン・グールド、シュナーベル、モノーラル及びステレオ盤でのバックハウスと数多くあるが、愛聴するのはカーネギー・ホールに於ける演奏である。
(中略)
ベートーヴェンの〝あえた〟としか表現しようのない諦観、まさに幽玄ともいうべきその心境に綴られる極美の曲趣は、ミケランジェリーの第2楽章が辛うじて私の好む優婉さを聴かせてくれるくらいで、他は、同じバックハウスでも(とりわけモノーラルの演奏は)カーネギーでさり気なく弾いた味わいに及ばない。
     ※
私はCDで愛聴している。

五味先生が書かれていることは、私なりにではあるが、わかる(気がする)。

とはいえ、いま私が聴くのは、作品111よりも、作品110のほうだ。
第30番、31番とつづけて聴くことが多い。作品111の前でとめる。
だからケンプだったり、グールド、内田光子の演奏を聴くことのほうが多くなる。

Date: 4月 11th, 2009
Cate: Friedrich Gulda

eとhのあいだにあるもの(その1)

音楽を感じるのは心(heart)なのは、art(芸術)が含まれているから。

モーツァルト(Mozart)にも、artが含まれている。

始まり(start)は、artから。

地球(earth)の中心には、artがある。
eとhのあいだにartがある。
eとhのあいだは、アルファベット順だと、fg(FG) 。
つまりは、fg = art。

FGといえば、Fridrich Gulda(フリードリヒ・グルダ)。
だからグルダの音楽は素晴らしい、とは言わないけれども、
ここ数年、グルダのCDを、頻繁に聴くようになった。

バッハの平均律クラヴィーア曲集も、以前は、グールドを聴く機会がもっとも多かったのが、
いまではグルダのディスクに手が伸びることが多くなってきた。

1993年のモンペリエのライヴ録音も、大好きなCDだし、
the GULDA MOZART tapes もひどい録音状態だけど、もう何度聴いたことだろうか。

グルダの音楽は、いい。

Date: 1月 16th, 2009
Cate: Wilhelm Backhaus, 五味康祐

ケンプだったのかバックハウスだったのか

文藝春秋 2月号を読んだ。
五味先生が最期に聴かれたレコードは、バックハウスのベートーヴェンの作品111、とある。

五味先生の追悼記事が載ったステレオサウンド 55号の編集後記に、原田氏は、
「最後にお聴きになったレコードは、ケンプの弾くベートーヴェンの111番だった」と書かれている。

新潮社から出た「音楽巡礼」に、五味先生と親しくお付き合いされていた南口氏も、
ケンプのベートーヴェンがお好きだった、と書かれていたので、
今日までずっとケンプのベートーヴェンを最期に聴かれたものだと思ってきた。

ケンプは病室で最期に聴かれたのかもしれない、バックハウスは通夜でかけられたものかもしれない。

まぁ、でも、どちらでもいいような気持ちも、正直にいえば、ある。
ケンプのベートーヴェンも、バックハウスのベートーヴェンも、代わりなんて思い浮かばない。
音楽とは、本来そういうものだということを想い起こさせてくれる。

どちらにも、自恃がはっきりとある。

Date: 1月 1st, 2009
Cate: Kathleen Ferrier, 快感か幸福か

快感か幸福か(その5)

カスリーン・フェリアーのバッハ/ヘンデル集が録音されたのは、1952年。
モノーラル録音で、使われている器材はすべて真空管式である。

モノーラル録音ということに、いちども不満を感じたことはない。
デッカは、のちにオーケストラ・パートだけをステレオで録りなおして、
モノーラルのフェリアーの歌唱とミキシングしたディスクも出している。
指揮者は同じ、サー・エイドリアン・ボールトだ。

人は、生れる時代も性別も選べない。
だが、かりに選べたとして、選べることができるのだろうか。どうやって選ぶというのだろうか。

フェリアーの歌声と真空管器材による録音は、うまくいっている、合っている。
これが、もしトランジスター初期の、冷たく硬い音で録られていたら、どうなる。

時代の音というのが、儼然たる事実として、人にも器材にもある。
もうこの先、フェリアーのような歌手は登場しないだろう。

Date: 12月 31st, 2008
Cate: Kathleen Ferrier, 快感か幸福か

快感か幸福か(その4)

1年の最後に聴くディスクは、決めている。
カスリーン・フェリアーのバッハ/ヘンデル集である。
1985年に復刻されたCDを、いまでもずっと持ちつづけて聴いている。

このディスクだけは手離さなかった。
オーディオ機器も処分して、アナログディスクもCDも処分したときでも、
このディスクだけは手もとに残しておいた。

持っていたからどうなるものでもなかった。
聴くための装置もないし、ただもっているだけにすぎないのはわかっていても、
このディスクを手放したら、終わりだ、そんな気持ちがどこかにあったのかもしれない。

人の声に、神々しい、という表現は使わないものだろう。
でも、このディスクで聴けるフェリアーの声は、どこか神々しい。
いつ聴いても神々しく感じる。

厳かな時間がゆっくりと流れていく、とは、このことをいうのかと聴いていて思う。

23年間所有しているディスクだけに、ケースはキズがつきすこし曇っている。
けれど、ディスクにキズはひとつもない。

フェリアーのバッハとヘンデルを聴く時は、これから先もこのディスクで聴いていく。
いくら音が格段によくなろうと、PCオーディオにリッピングして聴くことは、
フェリアーの、この歌に関しては、ない。

愛聴盤を聴き続けていく行為とは、そういうものである。
だからこそ、愛聴盤になっていく。

いろいろあったし、これからもいろいろあるだろう。
でも、1年の終わりに、フェリアーをじっくり聴けるだけで、幸福というしかない。

Date: 11月 10th, 2008
Cate: Glenn Gould

グールドの椅子

グレン・グールドが、終生愛用した、父親製作の折畳み式の椅子。
2年前、そのレプリカが、フランスで作られ、現在購入できる。
990ユーロ+送料で、世界中に配送してくれる。
The Glenn Gould Chair

1991年だったか、カナダ大使館で開催された「グレン・グールド1988」展。

グールドが亡くなった翌年(1983年)に、カナダ国立図書館に寄贈された遺品は、
25万点以上あり、その整理に時間がかかり、カナダで最初に開かれたのが1988年。

日本での公開は3年後で、約200点が展示されていた。
平日とはいえ、会場はガラガラだった。
日本でのグールドの人気を考えると、信じられないくらいの人の少なさ。

椅子も展示されていた。

グールドの晩年、椅子の状態は相当にボロボロの状態だったと話はきいていたが、
実物は想像以上にひどかった。
「こんなのに座っていたの?」というぐらいに。

その椅子のレプリカ──。

グールドがその椅子に座り、ピアノ(音楽)と向き合ったように、
この椅子に坐ったからといって、グールド的リスナーになれるわけでもないけれど、
グールドの演奏を聴くときには、この椅子で、と思う。

Date: 11月 1st, 2008
Cate: Wilhelm Furtwängler

1932年

フルトヴェングラーの「音楽ノート」の所収の「カレンダーより」の1932年に、
ラジオの聴衆が音楽会から受けとる、あの栄養素のない、ひからびて生気のぬけた煎じ出しを
心底から音楽会の完全な代用物とみなすことができるのは、
もはや生の音楽会が何であるかを知らない人たちだけである。
と書いている。

フルトヴェングラーはレコードを信用していなかったことは有名な話である。
だから、この記述に驚きはしないが、この1932年9月25日にグレン・グールドは生を受けている。

単なる偶然、そう、たぶんそのとおりだろう。
けれど、ごっちゃにしすぎと言われそうだが、
菅野沖彦、長島達夫、山中敬三の三氏の誕生月も、1932年の9月である。

レコードの可能性、オーディオの可能性を信じてきた人たちが、ここに集中しているのは、
ほんとうに偶然なのだろうか。

Date: 10月 14th, 2008
Cate: Jacqueline du Pré

Jacqueline du Pré(その1)

1987年10月19日、ジャクリーヌ・デュプレは亡くなっている。

デュプレが亡くなって、数年後に、音楽評論家の三浦淳史氏の文章で、
イギリスで「Jacqueline du Pré」という薔薇が生れたということを知った。
残念なことに写真はなかった。

1997年にインターネットに接続したときに、検索した言葉のひとつが「Jacqueline du Pré」だった。
ネットならば、Jacqueline du Pré がどういう花なのかがわかるはずという期待からだったが、
まったくヒットせず。

1年後くらいか、やっとイギリスの個人サイトで、写真を見ることができた。
小さな、不鮮明な写真だった。
英文の説明には、入手が非常に難しい、と書かれていた。
栽培が難しいらしい。

日本で見ることは無理だなと思いながらも、数年に一回、ふと思い出しては検索してみると、
日本の薔薇の愛好家のサイトでも見ることができるようになっていた。
薔薇の世界の技術も進歩しているらしい。

Jacqueline du Pré は、
イギリスの薔薇交配家のピーター・ハークネス氏の育てた品種の中から
多発性硬化症で入院していた彼女の視力はかなり衰えていたので、
嗅覚だけで、彼女自身が力強い香りのものを選んだときいている。

1989年、Jacqueline du Pré が世に出ている。

デュプレの命日が近い。日本での入手はそう難しくない。

Date: 9月 6th, 2008
Cate: Wilhelm Furtwängler, 言葉

「比較ではなく没頭を」

「比較ではなく没頭を」──フルトヴェングラーの言葉である。 
「音楽現代」7月号から連載がはじまった「フルトヴェングラーの遺言」(野口剛夫)で、
最初に取りあげられたのが、この言葉である。

1954年11月にフルトヴェングラーは亡くなっているから、残されている彼の録音はモノーラルであり、
夥しいライヴ録音には、けしていい録音とは言えないものも多い。 
にも関わらず、スタジオ録音、ライヴ録音に関係なく、
CD時代になり、リマスター盤が多く出ている。SACDまで出ている。 
マスターテープからの復刻、テープの劣化を嫌って、オリジナルLPからの復刻、
その方法も20ビットハイサンプリングでデジタル化などもある。 
それらすべてを聴いたわけでは、勿論ない。聴くつもりもない。

それでも、いくつかを聴くと、たしかに音は異なる。 
もっともアナログディスクもなんども復刻されている。 

グールドも、リマスターの種類は多い。 

オリジナルLPを含めて、どれがいいのか、どう違うのか、比較するのは楽しいといえば楽しい。 
情報もモノもあふれているいまは、比較をしようと思えばいくらでもできる。
そして、自分なりに感じたその違いを、簡単に公表できる。
これが、比較することをあおっているような気もする。 

レコードに限らない、よりよいモノを求めるために比較する、そんな声がきこえてくる。 
けれど、それは比較することに没頭してしまう罠に嵌ってしまうかもしれない。 

いうまでもなく没頭したいのは、
フルトヴェングラーの演奏であり、グールドの演奏であるのはいうまでもない。 
そして、よりよいモノ、最上のモノを選んだとしたも、
結局、あたえられたものを聴いているのだということに気づいてほしい。