直向き(その1)
前向きであるべきだ、とか、自分はつねに前向きである、とか、
後向きではだめだ、とか──。
だが、誰が前か後なのかをわかっているのか。
そういっている本人が前だと思い込んでいるのが前なのであって、
その反対側が後だけなのかもしれないのに……、と思うことがある。
そんな前向き、そんな後向きなんかどうでもいい。
直向きであれば。
音楽に直向きであれば、音楽が示すのが前だと信じていい。
音楽が示す道が見えないのであれば、後向きなのかもしれない。
前向きであるべきだ、とか、自分はつねに前向きである、とか、
後向きではだめだ、とか──。
だが、誰が前か後なのかをわかっているのか。
そういっている本人が前だと思い込んでいるのが前なのであって、
その反対側が後だけなのかもしれないのに……、と思うことがある。
そんな前向き、そんな後向きなんかどうでもいい。
直向きであれば。
音楽に直向きであれば、音楽が示すのが前だと信じていい。
音楽が示す道が見えないのであれば、後向きなのかもしれない。
13のときに「五味オーディオ教室」で出逢って、これまでがある。
いまふりかえって思うのは、ひたむきだったのか、ということ。
ひたむきの意味は、ひとつのことに集中する様、ひとつのことに一生懸命になる様、と辞書にはある。
この意味では、ひたむきであった、ともいえるけれど、
それでも、ひたむきとは、これだけの意味だけだろうかと思うと、
やはりひたむきであっただろうか、と自問することになる。
昨年秋から「ちやはふる」というテレビ番組の放送がはじまった。
どういう内容の番組かはリンク先を見てもらえばすぐにわかる。
リンク先に表示されるものをみて、こういうものなんだぁ、とか、こんなもの、とか思われる人もいるだろうし、
あいつはこんなものを見て、それをわざわざブログに書くのか、と思われる方もいてもいい。
それでも、この「ちはやふる」を見ていると、自問せずにはいられない。
作り事の主人公のひたむきさはしょせん作り事、とは思えない。
テレビは持っていないから、GayO!での配信で見ている。
毎週見ているし、先週から昨日まで1話から7話まで、
今日からおそらく12日まで8話から12話まで配信されている。
すでに一度見たものをまた見て、ひたむきだったのか、とまた自問していた。
同じ話を2度見れば、答えらしきものは出てくる。
「ちはやふる」の主人公は、「ちはやふる」というタイトルからわかるように小倉百人一首に向き合っている。
それだからひたむきなのではない、「ちやはふる」の主人公には仲間がいる。
仲間とも向き合っているから、
仲間とともに小倉百人一首と向き合っているから、ひたむきなのだと感じたのだと思う。
「ちはやふる」の主人公と同じ年齢のとき、私にはオーディオの仲間はいなかった。
ひたむきは、直向き、と書く。
はじめてきいたときは、まだステレオサウンドにいた。
昼休みにほぼ習慣となっていたWAVE通い。
CDの置かれている棚には、まったく予想していなかったケイト・ブッシュのシングルCDが並んでいた。
「THIS WOMAN’S WORK」だった。
すぐに会社に戻りヘッドフォンで聴く。涙が出た。
今朝(といっても昼近くに)、ふと聴きたくなった。
また涙が出た。
最初に聴いたときの涙とは違う涙が出た。
「THIS WOMAN’S WORK」の歌詞が、あのときと「いま」とでは心に響いてくる意味が違っているからだ。
20数年を経て、心にしみこんでくる。
20数年前とは違う、心の別のところにしみこんでくる。
こういう音楽こそ、(使い古されたことばだけど)名曲ではないか。
こまかい説明はしたくない。
「THIS WOMAN’S WORK」のwomanをほかの単語に置き換えてみても、この歌詞は通用する、とだけいっておく。
[THIS WOMAN’S WORK]
Pray God you can cope
I stand outside this woman’s work,
This woman’s world.
Ooh, it’s hard on the man
Now his part it over
Now starts the craft of the father.
I know you have little life in you yet
I know you have a lot of strength left
I know you have a little life in you yet
I know you have a lot of strength left
I should be crying but I just can’t let it show
I should be hoping but I can’t stop thinking
Of all the things I should’ve said
That I never said,
All the things we should’ve done
That we never did,
All the things we should’ve given
But I didn’t
Oh, daring, make it go,
Make it go away.
Give me these moments back
Give them back to me
Give me that like kiss
Give me your hand.
I know you have little life in you yet
I know you have a lot of strength left
I know you have a little life in you yet
I know you have a lot of strength left
I should be crying but I just can’t let it show
I should be hoping but I can’t stop thinking
Of all the things we should’ve said
That we never said.
All the things we should’ve done
That we never did
All the things that you needed from me
All the things that you wanted fro me
All the things we should’ve given
But I didn’t
Oh, daring, make it go away
Just make it go away now.
(内田久美子氏による和訳)
うまくやっていけるように神に祈りなさい
私はこの女の務めを
この女の世界を外側から眺める
そう 男にとってはつらいこと
いま 彼の役割は終わり
父親としての仕事が始まる
あなたの中にはまだ小さな命がある
あなたにはたくさんの力が残っている
あなたの中にはまだ小さな命がある
あなたにはたくさんの力が残っている
泣けばいいのにそれを顔に出せない
望みをかけるべきときに私は考え続けている
言うべきだったのに
私が言わなかったいろんなこと
するべきだったのに
私たちがしなかったいろんなこと
あなたが私に求めたいろんなこと
あなたが私に欲したいろんなこと
与えるべきだったのに
私がそうしなかったいろんなもの
ダーリン 忘れさせて
みんな忘れさせて
あの時間を取り戻して
私に返して
あのささやかなキスをちょうだい
あなたの手を貸して
あなたの中にはまだ小さな命がある
あなたにはたくさんの力が残っている
あなたの中にはまだ小さな命がある
あなたにはたくさんの力が残っている
泣けばいいのにそれを顔に出せない
望みをかけるべきときに私は考え続けている
言うべきだったのに
私が言わなかったいろんなこと
するべきだったのに
私たちがしなかったいろんなこと
あなたが私に求めたいろんなこと
あなたが私に欲したいろんなこと
与えるべきだったのに
私がそうしなかったいろんなもの
ダーリン 忘れさせて
みんな忘れさせて
情報量を増やしていく、しかも忠実に伝達していこうとする。
そのための手段として、デジタルでは、CDの44.1kHz/16ビットよりも、
もっと高いサンプリング周波数、
18ビット、24ビット、32ビット……とハイサンプリング・ハイビットの方向がある。
SACDという方向もある。
こういった情報量の増大に対応するために、再生側のオーディオ機器では、より高いSN比、
より広いダイナミックレンジ、周波数特性など、基本特性の拡大が要求されていく。
この方向の追求に限界はないのだろうか。
少なくとも現在の2チャンネルという制約の中でやっていくのであれば、
どこかで大きな壁にぶちあたることになるかもしれない。
もうひとつ、拡大する情報量に対応する手段として昔からあるのが、伝送系を増やすことである。
モノーラルよりステレオ(2チャンネル)、2チャンネル・ステレオよりは4チャンネル・ステレオと、
伝送系の数が増えていくことで、ひとつひとつの伝送系をとおる情報量は、それまでと同じであったとしても、
システム全体としての伝達できる情報量は確実に増していく。
これから先、デジタルの記録密度がもっと高まっていく。
そうすれば、いままで以上のハイサンプリング、ハイビットで、
12チャンネル、16チャンネル再生のための情報量もなんなく聴き手のものに届けられることになるだろう。
これは音楽の聴き手にとって、理想に近づいていくことなのだろうか。
結局、造詣の深さとは、どれだけ多くのことを知っている、ではなくて、悟っていることなんだろう。
今月9日に上杉先生が亡くなられていることが、ニュースになっていた。
兵庫にお住まいだったから、他の評論家の方ほどお会いする機会はなかった。
それでもいくつかの想い出はある。それを書くこともできるが、
それよりも書いて置きたいことは上杉先生の不在により、
ステレオサウンドの筆者から真空管に造詣の深い人がいなくなってしまったということ。
以前は長島先生の存在もあった。長島先生と上杉先生、おふたりとも真空管への造詣は深かった。
おふたりの違いは、造詣の深さの違いではなく、もうすこしべつのところにあった。
いまはインターネットに接続できれば、手軽に真空管に関する情報は厖大な量を手にすることができる。
以前はネットに接続するにはパソコンからだったけど、
いまやiPadやiPhoneからでも、外出先からでも簡単に高速に接続できる。
もしかすると、真空管に関しても、長島、上杉先生よりもくわしい人、それも若いひとがいてもふしぎではない。
そういう時代をインターネットは可能にしている。
だがそういう人が、真空管に関して、造詣が深い、かとなると必ずしもそうではない。
造詣の深さには、もちろんある量の知識は必要である。だが知識の量だけでは、造詣は得られない。
こういう時代だからこそ「造詣」とはなにかを、もういちどはっきり見直しておきたい。
そして真空管に関してだけではない。
私個人としては、アナログディスク再生に造詣の深い人が、
いまのステレオサウンドの筆者のなかには、いない……、そう感じている。
真空管、アナログディスク──、これらのことはオーディオにつながる、ある項目である。
その項目に関して造詣の深い人の不在。これが意味することはなんであるのか。
先週末から、試してみたいことがあって、ある本を電子書籍にする作業にかかっきりになっていた。
スキャナーに附属していたOCRソフトを使えば、どのくらい作業時間を短縮できるのか、がひとつ。
それから、こまかい作り込みをおこなうために、
瀬川先生の「本」では、Sigil(このソフトで作成している)のBook View で行なっていたのを、
今回は Code View も使いながら、タグの編集もやってみた。
約15万字あった本を、瀬川先生の「本」よりもこまかいところまで作り込んで、
入力からすべての作業の終了まで3日で了えた。今回の本に関しては公開の予定はないが、
作業の最後のほうで感じていたのは、既存の本をこうやって電子書籍化することは、
リマスター作業なのではないか、ということ。
これまで「電子書籍化」という言葉を使っていたけれど、なにかしっくりこないものを感じていたし、
「電子書籍化」という言葉だけでは、はっきりしない何かを感じていた。
デジタル化、という言葉も使いたくない。
本のリマスタリング、リマスターブック、とか表現することで、
目ざそうとしているところが、すこしはっきりしてきた感がある。
「音は人なり」となんども書いてきた。
「人は音なり」ということも書いた。
いまふと思ったのは、「音は人なり」にはすこし違う側面もある、ということ。
「音は人なり」は説明は要らないだろうが、その人が出す音には、その人となりが出てくる。
「音は人なり」を否定している人の音であろうと、それははっきりと出ている。
今日思ったのは、その「音」ではなく、その人が出会う「音」について、である。
オーディオの音、つまりスピーカーが鳴らす音だけに限定しても、自分の音だけでなく、
他の人の音を聴く機会は、積極的に機会をつくらなくても自然と訪れる。
自分の音以外の「音」──、
どういった音とめぐり会えるのかも「音は人なり」だと思う。そして「人は音なり」だともおもう。
オーディオの魔力にとりつかれるような音とめぐり会えたのかどうか、という面においてそうである。
そういう音に出会えなかったのは不幸なのか、は人によってちがってくるだろう。
出会わなかったことによって、オーディオなんて……、という気持がどこかに残ったまま、
オーディオを介して音を聴いている、オーディオを調整しているほうが、
じつは、オーディオに対しては気楽に生きられるのかもしれない。
だけど、なぜ、そういう魔力を持った音とめぐり会えないのか、その理由は「音は人なり」にある。
“straight wire with gain”──、
アンプの理想は、増幅度を持ったワイアー(導線)だ、というこの表現は、
アメリカのオーディオ評論家、ジュリアン・ハーシュによるもの。
1970年代の後半ごろステレオ・レヴューに登場した、この言いまわしはなかなか巧みだと思う。
そのころも、ケーブルによる音の違いはすでに認識されていたけれど、いまほどではなかった。
いまでは、ケーブルでも音が変化するのだから……、と反論めいたことを言う人もいるかもしれないし、
そんな揚げ足とり的な反論ではなく、正面から、この表現には賛同できないという人もいるだろうけど、
でも、そういう人でも、この表現のうまさは認めるところだろう。
では、スピーカーについて、どうだろうか。
“straight wire with gain” 的な表現はあっただろうか。
あなたのめざしているスピーカー(音)は? という問いに、ほぼすべてのスピーカーエンジニアは、
「non coloration(色づけのない)」という答えがかえってくると、瀬川先生が以前書かれていた。
non coloration は理想にちがいない。ただ、それはスピーカーにかぎらない。
“straight wire with gain” のように、アンプのありかたを的確に表現した言葉とは、ニュアンスが異る。
スピーカーのありかたを、同じくらい、できればそれ以上に的確に表現したことばがうまれたら、
スピーカーの理想とはいったいどういうものなのか、スピーカーとはいったいどういうものなのか、
そういったことがらが明確になってくるはず。
前回、「決着点も、きっとある」と書いた。
決着点とするならば、到達点は到着点、終点は終着点になるのだろうか、と思いながらも、
結論は、まだ私の中でははっきりとしない。
「死」は終点であり到達点である……のか?、という返信を、川崎先生からTwitterでもらっている。
漠然とではあるが、最終目的地が終点であるならば、「死」は終点ではなく、
だからといって到達点とも違う気もする。
「死」は決着点なのか……とも思う。
いずれ、はっきりすることだろう、はっきりさせることなのだろうかも、まだはっきりとはしない。
そして、起点、基点、始点について、このとき考えなかったことを、いま不思議に思う。
情報量が多いことが「善」だとして、情報量の追求をしていく行為で、
注意してほしいのは、その過程において「あからさま」にしていくことに快感をおぼえてしまうことだ。
「あからさま」な音は、すべての音が主張をしはじめる。
大げさな表現では、すべての音が自己顕示欲をむき出しにしてくる。
そこには慎みも恥らいは、ない。
そんな音に、品位は存在しない。
音と音楽のあきらかな違いが、このへんにありそうな気がする。
決着点も、きっとある。
到達点と終点は、ちがう。
オーディオも、こうやって毎日書いていっている行為も、
振り返ってみて、いくつかの到達点を通過していたことがわかる。
そこが終点ではないから、そのときには気がつかない。
その瞬間、「ここが到達点だ」と感じたときこそ、終点かもしれない。
オーディオの罠が、そうみせる幻覚なのかもしれない。
毎日書いていて、ふと想うのは、オーディオについて語り尽くすことはできるのだろうか。
「音は人なり」という五味先生のことばは真実であり、そこだけにとどまっていないと思う。
「人は音なり」も、また真実のような気がする。
「音は人なり」が示すように、その人の生き様が、音に反映される。
だがそれだけ終ってしまうわけではなく、その人となりが顕在化した音に、
聴き手は知らず知らずに影響を受けている。
使っているオーディオ機器、そこで鳴っている音に、聴く音楽が左右される。
オーディオ機器を使っているつもりで、油断しているとオーディオ機器に使われている。
鳴っている音に、影響されていないと断言できる人が、はたしているだろうか。
生き様が音にあらわれ、その生き様が音として、もどってくる。
ぬるい生き方ならば、ぬるい音がもどってくる。
いびつな生き方をしていたら、いびつな音がもどってくる。
そして音に影響され、またそのことが音に反映される。悪循環ではないか。
真剣な生き様であれば、真剣な音が鳴ってくる。
熱い生き様であれば、熱い音が鳴ってくる。
そういう音が戻ってくる、影響される。そしてまた音に反映される。
「オーディオは趣味だから」という逃げを口にしたら、そのことが音としてあらわれる。