Archive for category 正しいもの

Date: 11月 17th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その5)

シャルランのことば、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は、
あくまでも、この本「音楽 オーディオ 人々」の著者、中野氏が書かれたことばである。

つまりシャルランが直接言ったことそのままではない。
シャルランはフランス人だし、とうぜんそこではフランス語で話したであろうし、
中野氏はその現場にはおられず、若林氏から伝え聞かれたことを、中野氏のことばで日本語にされているわけだから、
この「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」という表現を、
細部にとりあげて論じることは、逆にシャルランの意図を曲解してしまうことにもなると思う。

「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」

このことばが伝えたがっていることは、直感で受けとめるしかない、と思う。
そしてこのことばは、ききてにとっても、そのまま投げかけられることだとも思っている。

シャルランが、レコードを再生することをどう捉えていたのかは、はっきりとはわからない。
レコード演奏という観念は、シャルランにあったのかなかったのかは、わからない。
それは、まあどうでもいい。

オーディオを介して音楽を聴く行為を、レコード演奏として捉えている人にとっては、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は
重いことばとなってのしかかってくる。

レコード演奏という観念をもたずに、
オーディオにも関心をもたずにレコードから流れてくる音楽を鑑賞するという立場にとどまっている分には、
シャルランのことばは、関係がない、といえる。

けれど、より積極的に、能動的にレコードにおさめられている音楽を聴く行為を臨むのであれば、
シャルランの真意をはっきりと感じとる必要がある。

Date: 10月 15th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その4)

中野英男氏の著書「音楽 オーディオ 人々」に「日本人の作るレコード」という章がある。
     *
シャルランから筆が逸れたが、彼と最も強烈な出会いを経験した人として若林駿介さんを挙げないわけにはいかない。十数年前だったと思うが、若林さんが岩城宏之──N響のコンビで〝第五・未完成〟のレコードを作られたことがあった。戦後初めての試みで、日本のオーケストラの到達したひとつの水準を見事に録音した素晴しいレコードであった。若くて美しい奥様と渡欧の計画を練っておられた氏は、シャルラン訪問をそのスケジュールに加え、私の紹介状を携えてパリのシャンゼリゼ劇場のうしろにあるシャルランのスタジオを訪れたのである。両氏の話題は当然のことながら録音、特に若林さんのお持ちになったレコードに集中した。シャルランは、東の国から来た若いミキサーがひどく気に入ったらしく、半日がかりでこのレコードのミキシング技術の批評と指導を試みたという。当時シャルラン六十歳、若林さんはまだ三十四、五歳だったと思う。SP時代より数えて、制作レコードでディスク大賞に輝くもの一〇〇を超える西欧の老巨匠と東洋の新鋭エンジニアのパリでの語らいは、正に一幅の画を思わせる風景であったと想像される。
事件はその後に起こった。語らいを終えて礼を言う若林さんに、シャルランは「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と尋ねたのである。録音の技術上の問題は別として、シャルランはあのレコードの存在価値を全く認めていなかったのである。若林さんが受けた衝撃は大きかった。それを伝え聞いた私の衝撃もまた大きかった。
     *
この中野氏の文章を引用したのは、若林氏、それに若林氏の録音についてあれこれ書きたいからではない。
シャルランの「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」という言葉に、
若林氏も中野氏も大きな衝撃を受けられている。

なぜシャルランは、若林氏(日本から来た若いミキサー)のことを気に入って、
若林氏が持参したベートーヴェンとシューベルトのレコードのミキシング技術の批評と指導を試みながらも、
最後に、このレコードの存在価値をまったく認めていないということを、
あえて「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と尋ねたのか。

このレコードを私は聴いたことがない。
でも、おそらく、このレコードには、
ベートーヴェンの音楽がベートーヴェンの音楽として収録されていなかった、のではないだろうか。

ベートーヴェンの音楽をベートーヴェンの音楽として録音することは、
適切な位置にマイクロフォンを設置して、適切なバランスでミキシングし、
録音器材にも良質なものを使い、つねに細部まで注意をはらえば、
それでベートーヴェンの音楽がベートーヴェンの音楽として収録されるわけではない。

ベートーヴェンの音楽をベートーヴェンの音楽として収録するには何が求められるのか。
シャルランが録音を担当したイヴ・ナットのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集に答がある。
けれど、まだ私はそこから読み解けて(聴き解けて)いない。
それでも、イヴ・ナットのベートーヴェンの録音には、
ベートーヴェンの音楽がベートーヴェンの音楽として鳴っている。

そんなシャルランだからこそ、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と問えるのである。

Date: 10月 13th, 2011
Cate: 正しいもの

正しいもの(その3)

「正確な音」ではなく「正しい音」とは、
ベートーヴェンの音楽がベートーヴェンの音楽として鳴る音である。

この項の(その1)に書いているフルトヴェングラーの1945年の言葉──、
「思考する人間がつねに傾向や趨勢のみを『思考する』だけで、
平衡状態を考えることができないのは、まさに思考の悲劇である。
平衡状態はただ感知されるだけである。
言い換えれば、正しいものは──それはつねに平衡状態である──ただ感知され、体験されるだけであって、
およそ認識され、思考されうるものではない。」

つまり、正しいものとはつねに平衡状態である、のならば、
音、音楽、そしてオーディオにおいて正しいものは動的平衡である、といえるはず。

別項の「ベートーヴェン(動的平衡)(その3)」を書いているように、
私はベートーヴェンを、そう聴いている。
だからベートーヴェンの音楽がベートーヴェンの音楽として鳴らなければ、
そのオーディオからどんなに情報量の音が非常に精確に音として出てこようと、
それがどんなに磨き込まれた音であろうと、それは「正しい音」ではない。

Date: 8月 8th, 2010
Cate: 正しいもの

正しいもの(その2)

別項で、「間違っている音」について書いた。

「正しい音」もある、と私は考えている。
そう考えない人もいるだろうが、正確な音とは違う意味の「正しい音」がある。
そして「間違っている音」に対して、「正しい音」がある、とは考えていない。

つまり間違っていなければ、それだけで正しい音だとは思っていないということだ。
「正しい音」は、「間違っている音」は無関係のところにあるような気がしてならない。

Date: 12月 1st, 2008
Cate: 正しいもの

正しいもの(その1)

正しいデザインとは、なんだろうと、ふと思ってしまった。

美しいデザイン、カッコいいデザインと言ったりする。
オーディオにおける音、これも、美しい音と言う。そして正しい音という言葉も使う。
録音と再生の、ふたつのプロセスがあるため、
元との比較の意味合いで「正しい」という単語が自然と使われるのだろうが、
正しいデザインと同じ意味での正しい音、そんなものがあるのか、そういうことが言えるのか。

正しいもの、とは、いったいどんなことなのか。

フルトヴェングラーの「音楽ノート」を開く。
1945年の言葉。
「肝要なことは、精神の豊かさでもなければ、深い感情でもない。
ひとえに正しいもの、真実なものである(私は六十歳にしてこのことを記す)。」とある。

ここでフルトヴェングラーが言っている「正しいもの」とは、
同じ1945年の次の言葉が語っている。
「思考する人間がつねに傾向や趨勢のみを『思考する』だけで、
平衡状態を考えることができないのは、まさに思考の悲劇である。
平衡状態はただ感知されるだけである。
言い換えれば、正しいものは──それはつねに平衡状態である──ただ感知され、体験されるだけであって、
およそ認識され、思考されうるものではない。」

フルトヴェングラーが言う、正しいものとは、つねに平衡状態であること。
平衡状態に関する言葉で、「静力学的」という言葉も使っている。

やはり、これも1945年の言葉である。
「芸術家の立場から言えば、過度の感情と、たんに『思考された』観念とは本質的に同じものである。
両者ともに『静力学的(シュターティッシュ)』には重要でない。
私はこのことをつねに感じていたが、それを認識するまでに残念ながらほぼ六十年を費やした。」と語り、
さらに「正しい均衡を保ち、『静力学的』に安定している楽曲は、決して法外な長さを必要としない。」という。

「楽曲」をデザインに置き換えてみる。
「正しい均衡を保ち、『静力学的』に安定しているデザイン」は、なにを必要としないのだろうか。
楽曲における法外な長さは、デザインにおけるなんなのだろうか。法外な冗長さだろうか……。

音に置き換えてみるとどうだろうか。
「正しい均衡を保ち、『静力学的』に安定している音」、
なんとなくイメージできそうな気がするようなしないような。

正しい音が必要としないのは、やはり法外な冗長さだろうか……、法外な情報量かもしれない。