ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その13)
今度の月曜日(6月24日)に引っ越す。
新しい部屋で最初に鳴らすのは、
ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲かな、とおもっている。
それに7月3日のaudio wednesdayでも、かけようとおもっている。
今度の月曜日(6月24日)に引っ越す。
新しい部屋で最初に鳴らすのは、
ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲かな、とおもっている。
それに7月3日のaudio wednesdayでも、かけようとおもっている。
「神を視ている」
五味先生の「マタイ受難曲」に、「神を視ている」は出てくる。
行間を読む前に、まずは活字になっているところをきちんと読む。
そのことがとても大事なことのはずなのに、
世の中は、行間を読むことが、
書いてある文字を読むことより高尚なことみたいに思われがちのようだし、
そう言われているように感じることがある。
行間を読んでいるから──、
なんと都合のよい言い訳だろう。
そういってしまえば、マウントがとれるとでも思っているのだろうか。
五味先生の「オーディオ愛好家の五条件」を読んで、
「真空管を愛すること」を「マッキントッシュを愛すること」に変換してしまった人は、
マッキントッシュ信者ともいえる人だった。
それはそれでいいのだが、怖いのは思い込みである。
思い込みの激しさである。
その人は、マッキントッシュというブランドを信じている(いた)。
おそらくマッキントッシュの製品ならば、どれも素晴らしいと思っていたに違いない。
信じることは、悪いことではない。
スピーカーの使いこなしにおいて、目の前にあるスピーカーを信じないことには、
何も始まらないといえるし、信じずにはじめたところで、中途半端な鳴らし方しかできない。
そして、そのスピーカーとながいつきあいもできない。
ゆえに、信じることは大事であっても、その人の場合は、何が違っていた。
五味先生は、「メーカー・ブランドを信用しないこと」を第一に挙げられている。
音の毒、そんなものまったく不要だし、
そんなもの求めていないし、害だけだろ! という意見もあるだろう。
音の毒といっても、そこに美がなければ、何の意味もない。
よく「毒にも薬にもならない」という。
音でも、そういえることがある。
毒にも薬にもならない音。そんな音があるのも事実だし、
そういう音を好む人、それをいい音と感じる人も、またいる。
毒にも薬にもならない音について、以前、別項でも書いている。
毒にも薬にもならない音もあれば、毒にも薬にもならない音楽(演奏)も、
やはり世の中にはある。ゴマンとあるといってもいいだろう。
結局、どちらにしても大事なのは、美がそこにあるかどうかのはずだ。
毒にも薬にもならない音であっても、
むしろ、そういう音だからこそ、美を感じる人もいることだろうし、
音の毒を求める私でも、ただ単に毒だけの音、美が存在しない毒まみれの音は、
聴くに耐えない音でしかないし、おどろおどろしいだけにしかすぎない。
ここまで書いてきて、ふとポリーニのことを思い出した。
ポリーニの演奏とは、いったいなんだったのか、と最近、ふと考えることがある。
五味先生は、ポリーニのベートーヴェン(旧録音)に激怒されていた。
*
ポリーニは売れっ子のショパン弾きで、ショパンはまずまずだったし、来日リサイタルで彼の弾いたベートーヴェンをどこかの新聞批評で褒めていたのを読んだ記憶があり、それで買ったものらしいが、聴いて怒髪天を衝くイキドオリを覚えたねえ。近ごろこんなに腹の立った演奏はない。作品一一一は、いうまでもなくベートーヴェン最後のピアノ・ソナタで、もうピアノで語るべきことは語りつくした。ベートーヴェンはそういわんばかりに以後、バガテルのような小品や変奏曲しか書いていない。作品一〇六からこの一一一にいたるソナタ四曲を、バッハの平均律クラヴィーア曲が旧約聖書なら、これはまさに新約聖書だと絶賛した人がいるほどの名品。それをポリーニはまことに気障っぽく、いやらしいソナタにしている。たいがい下手くそな日本人ピアニストの作品一一一も私は聴いてきたが、このポリーニほど精神の堕落した演奏には出合ったことがない。ショパンをいかに無難に弾きこなそうと、断言する、ベートーヴェンをこんなに汚してしまうようではマウリッツォ・ポリーニは、駄目だ。こんなベートーヴェンを褒める批評家がよくいたものだ。
(「いい音いい音楽」より)
*
私には、五味先生がそこまで激怒される理由が、はっきりとは聴きとれなかった。
それでも十数年前に、ポリーニのバッハの平均律クラヴィーア曲集を聴いて、
音が濁っている、と感じた。
音が濁っている、といっても、オーディオ的な意味、録音が濁っているではない。
ポリーニの平均律クラヴィーア曲集の録音は、2008年9月、2009年2月である。
優秀な録音といえる。
なのにひどく濁っているように感じてしまった。
五味先生の《汚してしまう》とは違うのかもしれないが、
五味先生の激怒の理由は、こういうことなのかもしれない、とも感じていたわけだが、
それではオイロダインでポリーニの弾くベートーヴェンやバッハを聴いてみたら、
いまの私は、どう感じるのだろうか。
五味先生の「オーディオ愛好家の五条件」。
①メーカー・ブランドを信用しないこと。
②ヒゲのこわさを知ること。
③ヒアリング・テストは、それ以上に測定器が羅列する数字は、いっさい信じるに足らぬことを肝に銘じて知っていること。
④真空管を愛すること。
⑤金のない口惜しさを痛感していること。
ここでは④の「真空管を愛すること」について書きたい。
もう三十年ちょっと前の話になるが、あるオーディオマニアと話していた。
その人は私よりも五つぐらい上の人で、有名私大を出ている。
なのに、この人は、唐突に「五味先生もマッキントッシュを愛すること」と、
「オーディオ愛好家の五条件」で書かれているでしょ、と言ってきた。
この人のいうマッキントッシュとは管球式アンプのマッキントッシュではなく、
トランジスター化されたマッキントッシュなのである。
開いた口がふさがらない、とはこういう時のためのものなのか。
ほんとうにそう思ってしまった。
言った本人は大真面目である。
「オーディオ愛好家の五条件」のなかに、マッキントッシュのMC275のことが出てくる。
けれど、だからといって、「真空管を愛すること」がどうすれば、その人のなかでは、
「マッキントッシュを愛すること」に変換されていくのか。
あまりにもアホすぎて、何も言わなかったが、
仮にそうしたら、その人はどう返してきただろうか。
行間を、私は読んでいる──、おそらくそう言ってきただろう。
どんなに何度も読み返しても、
行間から「マッキントッシュを愛すること」を読みとるのは無理である。
7月24日で、TIDALはMQAでの配信を終える。
それほど驚きはなかった。
4月にTIDALは値下げしている。
その時から、MQAをやめるのではないのか──、
そういうコメントをソーシャルメディアで目にしていたし、
ここ三ヵ月ほどのTIDALでの新譜のMQAの割合がかなり低くなってもいたからだ。
なんとなく終りが近づいている、そんな感じが漂っていた。
それでも四日前に書いているように、
MQAを買収したLenbrookとHDtracksが協同で、 あらたなストリーミングサービスを始める。
このニュースがなかったら、かなりの衝撃だったはず。
それでもしばらくはTIDALは使っていく。
別項のテーマである純度と熟度。
ここでも、純度の高い音と熟度の高い音、
そして、純度の高い音と熟度の高い音のバランスということを考える。
今年の1月20日、21日、川崎市にあるオーディオ・ノートの試聴室で、
「オイロダインを楽しむ会」が開催された。
私も行ってきた。
私が行った回は、天気が悪かったせいもあってか、六人だけだった。
クラシックだけでなく、いろんな音楽(レコード)がかけられた。
それらを聴いていて、ある人が、
「オイロダインでこういう音楽を聴けるなんて!!」と興奮気味に語っていた。
どうも、この人はオイロダインは、
クラシックを主に聴くスピーカーという印象を持たれているのだろう。
よく考えてみなくても、オイロダインは劇場用スピーカーであるから、
いろんな音源を鳴らすことを前提としたスピーカーともいえる。
音楽も鳴らせば、それ以外のものを鳴らすわけだ。
映画であれば、セリフや効果音などがある。
むしろ、そこでは音楽は背景になってしまうこともある。
にもかかわらず日本では、オイロダインはクラシックのためのスピーカー、
そんなふうに思い込まれている感じすらある。
このことはオイロダインにとっても、聴き手側にとっても損なことだな、とは思う。
その意味で、オーディオ・ノートの試聴室で、
クラシックに限定することなく、ジャズもロックも、というのはよかった。
それでも別項で、「オイロダインを楽しむ会」について書いているが、
そこではオーディオ・ノートの社屋についての感想だけしか書かなかったのは、
当日のオイロダインの音がひどかったからではなく、でもよかったわけでもなく、
「音の毒」が抜かれてしまっていたように感じたからだ。
オーディオ・ノートの製品は、ずっと以前にカートリッジと昇圧トランスは聴いているが、
アンプに関しては「オイロダインを楽しむ会」で初めてだった。
そのくらい縁がなかったわけで、オーディオ・ノートのアンプがどういう音なのかは、
まったく把握していない、といっていいぐらいだ。
なので毒気を抜かれた音になってしまった原因がどこにあるのかは、
なんともいえない。
それに毒気を抜かれたと感じたのは、私ぐらいだったのかもしれない。
トーンアームのパイプの形状は、
私がオーディオに興味を持ち始めた1976年は、S字型かJ字型が大半だった。
ストレート型もいくつかあったけれど、少数派だった。
ストレートパイプが増えてきたのは、1980年代に入ってからだろう。
しばらくしてピュアストレート型が提唱されるようになってきた。
オフセット角は不必要というもので、
それまでのストレート型はヘッドシェル部に角度がついていたが、
ピュアストレート型はヘッドシェルまで直線になっている。
ピュアストレート型の優位性を、理論的に説明する人もいる。
それはそれで納得できるところも多い。
それでも、でもね……、と思うの私だ。
トーンアームは、ピュアストレート型でないほうがいい。
いい、というのは、好きだ、という意味、
さらには美しいという意味で書いている。
SMEの3012-R Specialが盤面をトレースする姿をみていると、
この長さ、そして形があってこそ、と思う。
レコードを聴いているとき、盤面をじーっと眺めているわけではない。
目に入るのは、カートリッジを盤面に降ろすときとあげるときぐらいであっても、
美しいと感じられる形であってほしい。
そんなことよりも、音のほうが重要だろう、といわれるのはわかっている。
それでも──、である。
7月3日のaudio wednesdayで、メリディアンのDSP3200をふたたび鳴らす理由のひとつが、
このエーリッヒ・クライバーによる「フィガロの結婚」を、
MQAで一人でも多くの人に聴いてもらいたいから、である。
ワンポイント録音だといわれる、この「フィガロの結婚」は、
「フィガロの結婚」という作品の美しさを、演奏(録音)された時代を背景に、
見事に聴き手に提示(展開)してくれる。
すでに書いているように、MQAで聴くといっそう、その感を強くする。
とはいえ、TIDALにエーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」はあるが、
残念なことにMQAではないし、e-onkyoでもすでにMQAでの購入はできない。
もしかするとHDtracksで今年後半には聴けるようになる可能性はあるが、
それもはっきりといえるわけではない。
とにかくいまエーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」をMQAで聴く機会は、
ひじょうに限られている。
だからこそDSP3200での「フィガロの結婚」である。
2023年4月にMQAの経営破綻のニュース。
9月にようやく回避された、というニュース。
それからは特にこれといったニュースはなかったけれど、
今日、MQAを買収したLenbrookとHDtracksが協同で、 あらたなストリーミングサービスを始める、というニュースが発表になった。
年内にはサービス開始とのこと。
日本からアクセスできるようになるのか、いまのところ不明だけれども、
MQAでの配信もあるわけで、期待は膨らんでいく一方だ。
処女作には──、ということが昔からいわれ続けている。
たとえばクレル。
クレルのPAM2とKSA100のペアを最初に聴いた時、ほんとうに驚いた。
この時のクレルはごく初期のモノで、フロントパネルの仕上がりが独自のものだった。
トランジスターアンプで、こういう音が出るようになったのか、と驚いた。
そのフロントパネルの仕上げに通ずるところもある質感に、
瀬川先生が、この音を聴かれたなんといわれただろうか、と妄想もしていた。
そのくらいクレルのPAM2とKSA100の音は、
マークレビンソンのLNP2とML2のペアが鳴らす音の世界とは対極にあり、
続いて登場したKSA50、KMA200の音にも魅了された。
クレルのフロントパネルは、金属加工を受け持っていた職人が亡くなったため、
その後、どのように試行錯誤しても同じ質感のパネルは出来上ってこなかった、らしい。
そして、このころからクレルの音は変化していったように記憶している。
KRSシリーズからは、はっきりと変っていった。
どちらが優秀なアンプなのかどうかではなく、あんなにも魅力的だった初期のクレルの音は、
もう聴けないのか──、そんなふうに感じさせる変化でもあった。
クレルを例に挙げたが、クレルだけに限らない。
マークレビンソンのアンプもそうだし、この時代に登場した新興メーカーのアンプの多くに、
そのことはあてはまった。
デビュー作が市場で高い評価を得る。同時にフィードバックもかえってくる。
それまでのフィードバックといえば、自分の周りにいるオーディオ仲間だけだったのが、
国中から、そして世界中から返ってくるようになることで、
ある種の「純度」は失われていくようにも、いまも感じている。
ジャクリーヌ・デュ=プレのバッハもかける、と5月28日に書いている。
6月5日当日、もちろんかけるつもりだった、というよりも、絶対かける、と決めていた。
なのにすべてが終って片づけをしているときに、
ジャクリーヌ・デュ=プレのバッハをかけていなかったことに気づいた。
ステレオサウンド 32号掲載の伊藤先生の連載「音響本道」。
「孤独・感傷・連想」というタイトルの下に、こう書いてあった。
*
孤独とは、喧噪からの逃避のことです。
孤独とは、他人からの干渉を拒絶するための手段のことです。
孤独とは、自己陶酔の極地をいいます。
孤独とは、酔心地絶妙の美酒に似て、醒心地の快さも、また格別なものです。
ですから、孤独とは極めて贅沢な趣味のことです。
*
1月の序夜から始まった今年のaudio wednesday。
6月の会で半分を終えた。
5月には、野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会もあった。
これら七回の音をふりかえって、《喧噪からの逃避》といえる音は出ていた(出していた)。
タイトルには、「トーキー用スピーカーとは」とつけている。
トーキー用は劇場用とも置き換えられる。
たとえばアルテックのスピーカー。
同軸型ユニット604を搭載したシステムは、モニター用であり、
一人で聴くためのモノ。
一方、A7、A5、さらにその上のA4などになると、はっきりと劇場用スピーカーであり、
あくまでも個人的ではあるが、
これらのスピーカーで一人ひっそりと好きな音楽を楽しみたいとは思わない。
アルテックの劇場用スピーカーの音の特質は私なりにわかっているつもりだし、
その良さに惹かれるところもあるが、
その良さを、私が聴きたい音楽を、一人ひっそりと聴くためためならば、
アルテックではなくイギリスのヴァイタヴォックスを選ぶ。
──そんな認識が私にはあった。いまも残っているといえる。
アルテックの劇場用スピーカーは、多くの人で聴く音なのだ、という。
けれどシーメンスのオイロダインも劇場用スピーカーである。
私にとってオイロダインは、一人ひっそりと聴くためのスピーカーである。
このことは二十代のころ初めて聴いた時から、その印象は変っていない。
ヴァイタヴォックスもCN191、Bitone Majorは家庭用スピーカーだが、
Bass Binはその規模からして、劇場用スピーカーであり、
ヴァイタヴォックスの成り立ちからして、ユニットそのものは劇場用といえる。
同じ劇場用スピーカーなのに、そういう違いを感じとってしまうのは、
ただ単に思い込みからくるものなのか──、そんなことを自問することもあるが、
実際にその音にふれると、思い込みでは片づけられないことも実感できる。