アンチテーゼとしての「音」(iPhone+218・その5)
森永のエールチョコレレートのコマーシャルソングが、
幼いころ、テレビからよく流れていた。
山本直純氏が「大きいことはいいことだ」と歌っていた。
小学校に行けば、同級生の誰かがよく口ずさんでいた。
「大きいことはいいことだ」と洗脳されていたとはいわないけれど、
大きいことに、オーディオに関しては抵抗感をほとんど感じないのは事実だ。
だからアナログプレーヤーはEMTの927Dstまで手を出した。
この音を聴いてしまうと、「大きいことはいいことだ」と肯定的に歌いたくなる。
けれど大きすぎることは、どうなんだろう。
最近の一部のオーディオ機器を眺めていると、
「大きいことはいいことだ」と素直に思えなくなっているのは、
それらが、大きいを通り越して、大きすぎるからだ、と思う。
とはいえ、大きすぎる、と感じるのは、いったいどこからなのだろうか。
人によって違ってくるものなのか、それともあまり違わないものなのか。
同じ人であっても、生活環境が変れば、多少、そのへんの判断も変ってくるのか、
それともほとんど変らないものなのか。
音のため、ここまでやる必要があった、
ここまでのサイズ(大きすぎるサイズ)が必要だった、というセリフに、
オーディオマニアは弱いところがある。
大きいということは無知な証しだ、という人も一方でいる。
このことについて書いていくと、また逸れてしまうので、このへんにしておく。
とにかく「大きいことはいいことだ」と素直にいえなくなった(思えなくなった)、
つまり大きすぎるオーディオが、恥ずかしげもなく堂々としている、
そしてそれを使っている人も、そんなふうに見えてしまう。