ベートーヴェンの「第九」(その22)
別項「ベートーヴェン(動的平衡)」でも、
「挑発するディスク(余談・その4)」でも、
ベートーヴェンの音楽を、動的平衡の音の構築物とした。
私は、ベートーヴェンの音楽の最大の特徴は、ここにあると考えているし、
動的平衡の音の構築物として、ベートーヴェンの音楽のレコード演奏を目指している。
そういう捉え方、聴き方をしているわけだから、
ベートーヴェンの音楽から、何かを取りのぞくことは不可能だとも考えている。
ベートーヴェンの「第九」から歓喜の歌を取りのぞいたら──、
もしそんなことが可能になったら、
もうそれはベートーヴェンの音楽ではなくなる。
つまり動的平衡が崩壊してしまう。
もう音の構築物でもなくなってしまう。
もちろん、これは私の聴き方であって、
そんなふうには聴かない聴き手がいる。
どちらがベートーヴェンの音楽をよく理解しているとか、そういうことではなくて、
ベートーヴェンの音楽の聴き手であっても、
動的平衡の音の構築物という捉え方をまったくしていない聴き手もいる、というだけのことだ。
動的平衡の音の構築物という捉え方をまったくしていないベートーヴェンの音楽の聴き手であれば、
「第九」から……、という発想が出てきても、なんら不思議ではないし、
動的平衡が歓喜の歌を取りのぞくことで失われてしまっても、
ベートーヴェンの音楽のままなのだろう。