Date: 9月 28th, 2018
Cate: 変化・進化・純化
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変化・進化・純化(その9)

facebookに、
聴きたい音楽、好みの鳴り方を求めれば、
結果として同じような音になってしまうのではないか……、
というコメントをいただいた。

それは、私もそう思っている。
聴きたい音楽がまずあって、
それをいい音(好きな音といいかえてもいい)で聴きたいからこそ、
オーディオに夢中になってきたのであれば、そうであろう。

そう思いながらも、私は「五味オーディオ教室」からオーディオの世界に入った。
そして「五味オーディオ教室」の少しあとに出た「コンポーネントステレオの世界 ’77」、
その巻頭の黒田先生の「風見鶏の示す道を」で出逢った黒田先生の文章。

このふたつのこと(二人の文章)は、
音楽の聴き手としてつよくありたい、と私に思わせた。

だからといって、聴きたい音楽を聴いている聴き手が、よわい、と思っているわけではない。
ただただ、聴き手としてつよくありたい、と思っている。
そうでなければ……、とおもうところもある。

同時に、少し違うことも考えているから、この項を書いている。
聴きたい音楽は、ほんとうに聴きたい音楽なのか、
そして、好みの鳴り方もそうだ。
それはほんとうに求めている好みの鳴り方なのか。

別項「戻っていく感覚(風見鶏の示す道を)」の(その12)に、
単純接触効果のことに触れた。

これがあるから、その人の好みは、ほんとうのところでの好みなのか、
単純接触効果によって形成された好みなのか、と疑いたくなるからだ。

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