変化・進化・純化(その10)
音でなくてもいい、味、匂いのほうがいいかもしれない。
好みの味、匂いが形成されるより前に、
嫌いな(苦手な)味、匂いが形成されているのではないだろうか。
「これ、好き」よりも「これ、嫌い」が先に立つのではないのか。
音もそうだ、と思っている。
ここでの音は、スピーカーから鳴ってくる音だけに限らない。
耳に入ってくるすべての音、
オーディオに関心のない人であっても、嫌いな(苦手な)音はある。
嫌いな音がどうやって形成されるのかは、知らない。
嫌いな音がある、ということが、ここでは重要なのだ。
古い知人は、嫌いな音がはっきりしていた。
それは古い知人と一緒に音を聴いたことのある人ならば、
ほとんどの人が、そう感じていたことでもある。
古い知人の嫌いな音は一貫していた。
その嫌いな音を徹底的に排除していくのが、彼の鳴らし方でもある。
それは少なくとも私の知る限り、ずっとそうだった。
古い知人は、嫌いな音に対して、人一倍敏感だったのかもしれない。
だから人一倍努力して、嫌いな音を排除していく。
その結果、バランスを大きく欠いたいびつな音を出すことになっても、
古い知人にとっては、嫌いな音が排除(抑えられた)ということで、いい音に聴こえていた。
古い知人が、そんな音をいい音と思うのは、しかたないことだし、
古い知人にとっては、いい音なのだから、周囲は黙っているしかない。
それでも、その音は、古い知人のほんとうに好きな音なのか、という疑問はずっとある。
嫌いな音を排除した音に、若いころからずっと聴いてきたことによる単純接触効果なのではないか、と。
古い知人の、ほんとうに好きな音は、
嫌いな音を排除してしまった音の陰に埋もれてしまっているのか、
それともまだ形成されていないのかもしれない。