2016年ショウ雑感(その9)
「判断しよう」、さらには「判断してやろう」という耳には、
気づきがない、と、私は思っている。
気づきがなければ、楽しくもないはずだ。
別項「瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その9)」でも書いているが、
気づき、発見、再発見は大切にしなければならないことだ。
これらがあるから楽しい、ともいえる。
楽しむ耳にこそ、気づきがある。
けれど残念なことに、いまのオーディオショウには「判断してやろう」という耳が多いのかもしれない。
そんな雰囲気を感じてしまうことがある。
私だけが感じているのだったら、どうでもいいことだ。
けれど、なんとなくそう感じている人が、私の他にもいるような気がする。
「判断してやろう」という耳の人ばかりになった会場の雰囲気を想像してもらいたい。
そんなところに私は行きたいとは思わない。
ましてオーディオに興味を持ち始めたばかりの人だったら、
よけいに及び腰になっても不思議ではない。
中野で行われるヘッドフォン祭に、あれだけの若い人たちが集まる。
インターナショナルオーディオショウでは、どうだろうか。
若い人が集まらない理由は、決してひとつではない。
それでも楽しむ耳を忘れてしまった人たちが増えてきていることと、
無関係ではないはずだ。
若い人たちに迎合する必要はない、と考えているが、
若い人たちを遠ざけてしまうような雰囲気をつくってしまうことだけは避けるべきだ。