変化・進化・純化(その4)
瀬川先生が書かれていることをおもっている。
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「天の聲」になると、この人のオーディオ観はもはや一種の諦観の調子を帯びてくる。おそらく五味氏は、オーディオの行きつく渕を覗き込んでしまったに違いない。前半にほぼそのことは述べ尽されているが、さらに後半に読み進むにつれて、オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる。しかもこの音楽は何と思いつめた表情で鳴るのだろう。
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ステレオサウンド 39号に掲載された「天の聲」の書評である。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる。》
これが(これも)純化なのだろう……。
《オーディオの行きつく渕を覗き込んでしまった》から鳴りはじめる音楽なのか。
私はオーディオの行きつく渕を覗き込めるのか。
その渕までたどり着けるのか。
瀬川先生が最後に書かれている。
《「天の聲」の後半にも、行間のところどころに一瞬息のつまるような表現があって、私は何度も立ちどまり、考え込まされた。》と。