ジャーマン・フィジックス HRS130(とサウンドクリエイト・その5)
銀座のサウンドクリエイトに、
今年からジャーマン・フィジックスのHRS130が常設されている。
それだけのことでっても、私にとってはとても嬉しいことだ。
一人でも多くの人が、ジャーマン・フィジックスの音に触れてほしいからだ。
銀座のサウンドクリエイトに、
今年からジャーマン・フィジックスのHRS130が常設されている。
それだけのことでっても、私にとってはとても嬉しいことだ。
一人でも多くの人が、ジャーマン・フィジックスの音に触れてほしいからだ。
ステレオサウンド 45号の新製品紹介の記事で、
マークレビンソンのML2が登場した。
このころのステレオサウンドの新製品紹介は、
井上先生と山中先生の二人で担当されていただけでなく、
新製品を聴いての全体の傾向などについての対談も掲載されていた。
その対談で、こんなことが語られている。
*
山中 このパワーアンプを開発するにあたってマーク・レビンソン自身は、本当のAクラスアンプをつくりたい、そこでつくってみたところがこの大きさと出力になってしまった。出力ももっと出したいのだけれど、いまの技術ではこれ以上無理なんだといっているのですが、いかにも彼らしい製品になっていと思います。
実際にこのアンプの音を聴いてみますと、今までのAクラスパワーアンプのイメージを打ち破ったといえるような音が出てきたと思うのですがいかがでしょうか。
井上 そうなんですね。いままでのAクラスパワーアンプは、どちらかといえば素直で透明な音、やわらかい音がするといわれてますね。それに対してこのアンプではスピーカーとアンプの結合がすごく密になった感じの音といったらいいのかな……。
山中 その感じがピッタリですね。非常にタイトになったという感じ。スピーカーを締め上げてしまうくらいガッチリとドライブする、そんな印象が強烈なんです。
井上 一般的に「パワーアンプでスピーカーをドライブする」という表現が使われるときは、一方通行的にパワーアンプがスピーカーをドライブするといった意味あいだと思うのです。このマーク・レビンソンの場合は対面通行になって、アンプとスピーカーのアクションとリアクションがものすごい速さで行われている感じですね。
山中 ともかく片チャンネル25Wの出力のアンプで鳴っているとは思えない音がします。この25W出力というのは公称出力ですから、実際の出力はもう少しとれているはずですし、しかもインピーダンスが8Ω以下になった場合はリニアに反比例して出力が増えていきますから、やはり電源のしっかりしたアンプの底力といったものを感じますね。
井上 昔から真空管アンプのパワーについて、同じ公称出力のトランジスターアンプとくらべると倍とか四倍の実力があるといったことがよくいわれていますね。
山中 それに似た印象がありますね。
井上 でも真空管アンプというのはリアクションが弱いでしょ。やっぱり一方通行的な部分があって、しかも反応がそんなに速くない。アンプとの結びつきが少し弱いと思うのだけど、この場合はガッチリ結びついた感じのするところが大変な違いだと思います。
山中 とにかく実際にこのアンプを聴いた人はかなり驚かされることになると思います。
*
パワーアンプの出力インピーダンスが変動しているはず──、
なんてことは、この記事を読んだ時はまったく考えていなかった。
素直にML2はすごいアンプなんだ、
早く聴いてみたい、と思っていた。
実際に聴いたML2の音は、まさにそういう音だった。
そしていま、出力インピーダンスの変動を念頭において読むと、
そういうことか──、というふうにも読める。
そういう読み方が正しいかどうかは措くとしても、
A級アンプの出力インピーダンスの変動が小さいからこそのML2の音の特徴に結びつく。
いまJBLのS9900のサイトを見ていたら、
ブルーのエンクロージュアのS9900があった。
木目だけだと思っていた。
青もあるのか。
ただそれだけのことなのだが、それだけのことでなんだかわくわくしてくる。
自己模倣という純化の沼のこわいところは、
本人だけが気づかぬまに、
憧れがたてまえの憧れとなってしまうことだ。
そして、そうなってしまった憧れは、憧れがもつ本来の精気、輝きを失う。
高校生だった私が、いつかはリファレンスという夢を持てたのは、
リファレンスが限定生産ではなかったからだ。
あのころ、私が憧れていたオーディオ機器は、
JBLの4343、マークレビンソンのアンプ、スレッショルドのSTASIS 1、
トーレンスのリファレンスにEMTの927Dstなど、どれもそうだった。
現行製品で、限定生産品ではなかった。
このことは、とても重要だ。
高価なモノになれはなるほど、限定生産かどうかは、さらに重要なこととなってくる。
作り続けられていれば、いつかは自分のモノとすることができる──、
そういう夢を持てる。
けれど、限定数十台とか、最近の特に高価なオーディオ機器はそんなだったりする。
おいそれとは手を出せない価格というだけでなく、
すぐに決心しないと、買えなくなってしまいますよ、といわんばかりの売り方、
そんなふうに思ってしまうのは、買えない者の僻みとは思っていない。
もちろん、高価なオーディオ機器はずっとつくり続けなければならないとはいわない。
けれど、限定生産ということはやらないでほしいし、
一年や二年で製造中止にすることもやめてほしいだけである。
オーディオ機器は、一部の人にとっては投資の対象となっているようだ。
以前、この項で取り上げたナカミチのTX1000の例は、まさにそうだといえる。
2019年にヤフオク!に8,500,000円で出品した人、
8,500,000円で落札した人、
2020年に10,000,000円で出品している人がいる。
TX1000のアナログプレーヤーとしての実力を知っているならば、
この価格がいかに法外か、ということはわかる。
けれど、そんな実力とは無関係なところで、投資の対象となってしまえば、
こんなことになってしまう。
瀬川先生がステレオサウンド 56号のリファレンスの記事の最後に、
こう書かれている。
*
であるにしても、アーム2本、それに2個のカートリッジがついてくるにしても、これで〆めて358万円、と聞くと、やっぱり考え込むか、唸るか。それとも、俺には無縁、とへらへら笑うことになるのか。EMT927までは、値上げになる以前にどうやら買えたが、「リファレンス」、あるいはスレッショルドの「ステイシス1」あたりになると、近ごろの私はもう、ため息も出ない、という状態だ。おそろしいことになったものだ。
*
56号は1980年秋号である。もう四十年以上前のことではあるけれど、
オーディオ機器ひとつの価格が3,580,000円というととんでもない価格であり、
「おそろしいことになった」と私も感じながらも、
それでもいつの日か、リファレンスを買える日が来るのではないか、とも思っていたのは、
単に高校生で、アルバイトはやっていたものの、
社会人としてお金を稼ぐことがなかったためだろうか。
トーレンスのリファレンスは買えなかったけれど、
EMTの927Dst(すでに製造中止になっていたので中古だったが)は買える日が来た。
このころは3,580,000円がオーディオ機器の最高価格といえた。
いまならいくらぐらいに相当するのか。
2021年夏に、四十年のうちに、
同クラスといえる製品の価格帯は二倍から三倍あたりに移行している──、
大雑把に、そう捉えてもいいであろう、と書いた。
だいたいそのくらいだと感覚的にもそう判断している。
だとすると、リファレンスはいまでは8,000,000円前後となる。
いまでも、この価格はそうとうに高価だ。
けれど、実際には、もっと高価なアナログプレーヤーがあるし、
アンプにしても、スピーカーシステムにしても、
その数倍、もしくは十倍以上の価格のモノがある。
しかも、その非常に高価な製品が、いくつも登場してきているのは、どうしてなのだろうか。
売れるから、なのだろう。
けれど、あのころのトーレンスのリファレンスやスレッショルドのSTASIS 1と、
いまの非常に高価な製品の違いは──、と考えると、
リファレンスもSTASIS 1も、限定生産ではなかったことだ。
オーディオ評論家も、そうだ、といっていい。
スピーカーの音を好きなオーディオ評論家がいれば、
スピーカーの音を嫌いなオーディオ評論家もいる。
スピーカーの音を嫌いな、とするのが言い過ぎなら、
スピーカーの音を好きじゃない、といいかえてもよいが、
とにかく、そういうオーディオ評論家がいることは確かだ。
スピーカーの音が好きなオーディオ評論家の書くものを、
スピーカーの音が好きなオーディオマニアが読む、
スピーカーの音が好きなオーディオ評論家の書くものを、
スピーカーの音が嫌いなオーディオマニアが読む、
スピーカーの音が嫌いなオーディオ評論家の書くものを、
スピーカーの音が好きなオーディオマニアが読む、
スピーカーの音が嫌いなオーディオ評論家の書くものを、
スピーカーの音が嫌いなオーディオマニアが読む、
こんな組合せが、現実にはある。
「回想の野口晴哉 ─朴歯の下駄」がさきほど届いた。
届いたばかりだから、ほとんど読んでいない。
読みはじめたとはいえないのだが、とりあえずひらいてみた。
パッとひらいて、オーディオについてなにか書かれているところに当ったら──、
そんなふうにしてみてみたら、ちょうどそうだった。
*
先生が亡くなる年の正月のこと……。
夜、一人の見知らぬ男の人が訪ねて来た。
「スピーカーを買ってくれないか」ということだった。
全く不思議なのは、そのスピーカーこそ、ウェスタン・エレクトリック594と、ランシングの先代が作ったという戦前のもの──先生が長い長い間、欲しくて手に入らなかったものだった。
「これで欲しいものが全部揃った。もう何も欲しいものがない」
そういって、先生は微笑(みしょう)した。
それは三十年間共に暮らして、一度も見たことのない微笑だった。
*
野口晴哉氏が、どういう人だったのか。
これ以上ないくらいに伝わってくる。
ステレオサウンド 51号掲載の「オーディオ巡礼」で、
五味先生はH(原田勲)氏のリスニングルームを訪問されている。
*
H氏は、じつはまだ音が不満で、何故なら古い録音のレコードなら良いのだが、多チャンネルで収録した最新録音盤では、高域の輝きに欠けるし、測定データをとってみてもクリプッシュホーンは340ヘルツあたりで10デシベルちかく落ちこんでいる。このためチェロが玲瓏たる音をきかせてくれないので、高域にはリボン・トゥイーターを加え、340ヘルツあたりも何とか工夫したいと言う。このオーディオの道ばかりは際限のない、どうかするとドロ沼におち込む世界だ、それは私も知っているが、特性を追いすぎるとシンセサイザーになるのを危惧して、夫人に「いじらせないように」と言ったわけである。もっとも、私を送ってくれる車中で彼はこう言った。「どれほど優秀なシステムでも、今は、オリジナルにどこかユーザーが手を加えねば、マルチ・チャンネル方式で録音される現在のオーディオサウンドを十全には再生できない。どこにどう手を加えるかがリスナーの勝負どころだろうと思うんです。オリジナルをいじるというのは邪道かもしれないし、本当はたいへんむつかしいことでしょう、しかしうまくそれがなし得たとき、はじめて、その装置は自分のものになったといえるんじゃないですか」そうかも知れない、私もそれは感じていることだが、まあそういうものが完成したら又きかせてもらいましょう、と言った。内心では、家庭で音楽を鑑賞するためのオーディオなら、今の音で十分ではないか、とやっぱり思っていた。
*
《高域にはリボン・トゥイーターを加え》とある。
どこのリボン・トゥイーターなのかは書かれていないが、
私は、ピラミッドのT1だと思っている。
このころのリボン型トゥイーターは、パイオニア、デッカ、ピラミッドぐらいしかなかった。
だとしたら、ピラミッドのはずだ。
H氏の、このころのスピーカーはヴァイタヴォックスのCN191である。
ヴァイタヴォックスのスピーカーは、終のスピーカーを手に入れたいまでも、
いつかは自分の手で鳴らしてみたい、と思い続けている。
現実には置き場所もないし、復刻されたヴァイタヴォックスはそうとうに高価だし、
導入できるだけの経済的余裕はないけれど、
それでもいつかは、一度は──、というおもいは持ち続けている。
もしヴァイタヴォックスを鳴らせる日がおとずれたら、
私もやっぱりトゥイーターを加えたい。
そうなると過去の製品を含めても、エラックの4PI PLUS.2を選ぶ。
私にとって4PI PLUS.2は、そういう存在のトゥイーターだ。
(その4)で、ゴトウユニットと表記した。
私がオーディオに興味を持ち始めた頃は、後藤ユニットだったような記憶がある。
それがいつのころからか、ゴトーユニットになっていた。
そしてゴトウユニットである。
おぼろげだが、GOTOユニットという表記もあったはずだ。
時代によって違ってきたのか、
いまはゴトウユニットのようである。
友人の倉庫で預ってもらっているSG505TTの木箱には、ゴトウユニットとある。
なのでゴトウユニットと表記している。
スピーカーの音が好きな人のスピーカーの鳴らし方、
スピーカーの音が嫌いな人のスピーカーの鳴らし方、
この二つが同じということは、まずありえない。
スピーカーの音が好きな人もスピーカーの音が嫌いな人も、
求めるのはいい音であって、そのための鳴らし方であっても、
同じになることはないはずだ。
オーディオとは、結局のところ、スピーカーの音の魅力といえる。
スピーカーというメカニズムが発する音の魅力である。
だからこそ、あるスピーカーの音を好きになるし、
そのスピーカーも好きになるのではないのか。
もちろん、そればかりではない。
それでも「スピーカーの存在感がなくなる」というフレーズを、
このことを目標する人もいるし、
そんなスピーカーを求める人もいる。
この人たちは、スピーカーの音が嫌いなのだろう。
オーディオマニアには、スピーカーの音を嫌う人がいる、
惚れ込む人もいる。
これまでサウンドトラック盤はあまり熱心に聴いてこなかったけれど、
TIDALを使うようになってからは、わりと聴くようになってきている。
MQAで聴けるサウンドトラック盤も多い、といえる。
MQAでサウンドトラック盤を聴いていて思うことがある。
映画館の音もMQAになってほしい、ということだ。
映画館の音といえばドルビーである。
そのドルビーとどう折り合いをつけていくのか(いけるのか)。
そのことは大変なことなのだろうが、
MQAとドルビーの融合は、技術的に難しいことがあるのだろうか。
映画館の音が、より生々しく臨場感溢れることを期待してしまう。
五味先生の「五味オーディオ巡礼」の一回目(ステレオサウンド 15号)、
野口晴哉氏と岡鹿之介氏が登場されている。
*
野口邸へは安岡章太郎が案内してくれた。門をはいると、玄関わきのギャレージに愛車のロールス・ロイス。野口さんに会うのはコーナー・リボン以来だから、十七年ぶりになる。しばらく当時の想い出ばなしをした。
リスニング・ルームは四十畳に余る広さ。じつに天井が高い。これだけの広さに音を響かせるには当然、ふつうの家屋では考えられぬ高い天井を必要とする。そのため別棟で防音と遮音と室内残響を考慮した大屋根の御殿みたいなホールが建てられ、まだそれが工築中で写真に撮れないのが残念である。
装置は、ジョボのプレヤーにマランツ#7に接続し、ビクターのCF200のチャンネルフィルターを経てマッキントッシュMC275二台で、ホーンにおさめられたウェスターン・エレクトリックのスピーカー群を駆動するようになっている。EMT(930st)のプレヤーをイコライザーからマランツ8Bに直結してウェストレックスを鳴らすものもある。ほかに、もう一つ、ウェスターン・エレクトリック594Aでモノーラルを聴けるようにもなっていた。このウェスターン594Aは今では古い映画館でトーキー用に使用していたのを、見つけ出す以外に入手の方法はない。この入手にどれほど腐心したかを野口さんは語られた。またEMTのプレヤーはこの三月渡欧のおりに、私も一台購めてみたが、すでに各オーディオ誌で紹介済みのそのカートリッジの優秀性は、プレヤーに内蔵されたイコライザーとの併用によりNAB、RIAAカーブへの偏差、ともにゼロという驚嘆すべきものである。
でも、そんなことはどうでもいいのだ。私ははじめにペーター・リバーのヴァイオリンでヴィオッティの協奏曲を、ついでルビンシュタインのショパンを、ブリッテンのカルュー・リバー(?)を聴いた。
ちっとも変らなかった。十七年前、ジーメンスやコーナーリボンできかせてもらった音色とクォリティそのものはかわっていない。私はそのことに感動した。高域がどうの、低音がどうのと言うのは些細なことだ。鳴っているのは野口晴哉というひとりの人の、強烈な個性が選択し抽き出している音である。つまり野口さんの個性が音楽に鳴っている。この十七年、われわれとは比較にならぬ装置への検討と改良と、尨大な出費をついやしてけっきょく、ただ一つの音色しか鳴らされないというこれは、考えれば驚くべきことだ。でもそれが芸術というものだろう。画家は、どんな絵具を使っても自分の色でしか絵は描くまい。同じピアノを弾きながらピアニストがかわれば別の音がひびく。演奏とはそういうものである。わかりきったことを、一番うとんじているのがオーディオ界ではなかろうか。アンプをかえて音が変ると騒ぎすぎはしないか。
*
野口晴哉氏がオーディオマニアだったこと、
それもほんとうにすごいオーディオマニアだったことを知っている人は、
いまではどのくらいいるのだろうか。
ちくま文庫から「回想の野口晴哉 ─朴歯の下駄」が出ている。
この本のことを、今日初めて会った人から教えてもらった。
野口整体のことだけではなく、オーディオのことも出てくる、と聞いた。
ウェスターン・エレクトリックのスピーカーを手に入れられた時のことも描写されている、とのこと。
さっそく注文した。
明日、届く。
(その17)で書いたことは、
別項『オーディオマニアの「役目」、そして「役割」』と、
私のなかでは深く関係していることだ。