Archive for 12月, 2021

Date: 12月 22nd, 2021
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その15)

《私が聴きたいのはいい音楽である。そしていい音楽とは、倫理を貫いて来るものだ、こちらの胸まで。》

「音楽に在る死」のなかで、五味先生がそう書かれている。
ステレオサウンド 51号掲載の「続オーディオ巡礼」では、こう書かれている。
     *
下品で、たいへん卑しい音を出すスピーカー、アンプがあるのは事実で、倫理観念に欠けるリスナーほどその辺の音のちがいを聴きわけられずに平然としている。そんな音痴を何人か見ているので、オーディオサウンドには、厳密には物理特性の中に測定の不可能な音楽の倫理的要素も含まれ、音色とは、そういう両者がまざり合って醸し出すものであること、二流の装置やそれを使っているリスナーほどこの点に無関心で、周波数特性の伸び、歪の有無などばかり気にしている。それを指摘したくて、冒頭のマーラーの言葉をかりたのである。
     *
区別をつけるに求められるのは、倫理だと思っている。
倫理を無視したところで差別が生じていくとも思っている。

倫理を曖昧にすれば、区別も曖昧になる。

時代の軽量化とは、こういうことでもあるのだろう。

Date: 12月 22nd, 2021
Cate: 五味康祐

続・無題(その15)

五味先生の、音楽、音、オーディオについて書かれた文章には、
祈り(もしくは祈りに通じる)が感じられるからこそ、
「五味オーディオ教室」と出逢ってすでに四十年以上が経ちながらも、
いまも飽きずに、ということにとどまらず、新たな気持で読み続けている。

Date: 12月 22nd, 2021
Cate: 世代

世代とオーディオ(五味オーディオ教室)

《常々観じていることとか、抱いている疑問の大半は五味オーディオ教室にすでに書いてあった》
今日、ソーシャルメディアを眺めていたら、そう書いてあった。

私より若い人である。
聴く音楽も違う。

そういう人が、いま「五味オーディオ教室」を読んでいる。
そして、そう感じているわけだ。

嬉しいことだし、頼もしいとも思っている。

Date: 12月 21st, 2021
Cate: 真空管アンプ

Western Electric 300-B(その30)

ようやくウェスターン・エレクトリックの300Bが発売になったので、
(その28)と(その29)は少し脱線してしまった。
ここからが内容的には(その27)の続きである。

アンプ一台の重量は、どこまでが上限なのか。
音さえよければ上限などない、という人もいるはず。
私も若いころは、そんなふうに考えていた。

年がら年中、設置場所をあっちに持っていったり、こっちに戻したり、
そんなふうに移動するわけではないのだから、重くてもかまわない──、
そんな考えだった。

それでもできれば一人で持てる重さ、
どんなに重くても大の男、二人で持てる重さが、上限かな……、ぐらいではあった。

となると一人だと40kgあたりが上限となるし、
二人だと80kgあたりが上限となろう。

もっとも、これは私の場合であって、人によっては上限の値は上下してくる。
しかも、ここでの重量は、ある程度重量バランスがとれている場合であって、
極端にアンバランスな重量の偏りがあったり、持ちにくい場合にはもっと軽くなってしまう。

いま、オーディオ機器の価格の上限は、なくなってしまったかのようである。
パワーアンプで、一千万円(ペア)を超える機種がぽつぽつ登場してきている。

ブルメスターのフラッグシップモデルは、四千万円を超える。
こういうアンプの存在を否定したいわけでなく、
こういう存在のアンプのみが出せる音の世界が、
十年後、早ければ数年後には、
ここまでの価格の製品でなくとも出せるようになるようになることだってある。

これだけの製品が開発されることで得られることがあるわけで、
それらが活かされてくる時代が、いずれやってくるわけで、
その意味でも、ある種のプロトタイプのようでもあり、
こういうモデルの登場を、私は期待しているところがある。

ブルメスターのフラッグシップのパワーアンプで私が驚いたのは、
実は価格ではなく、その重量だった。
モノーラルアンプで、一台180kgである。
二台で360kg。

JBLのパラゴンよりも重いのか──、とまず思ってしまった。

Date: 12月 20th, 2021
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(2021年・その3)

1921年12月20日が、五味先生の誕生日なのだから、
今日(2021年12月20日)で、生誕100年となる。

いくつか五味先生の文章を引用したい気持がつよくあるが、
あえて、ひとつだけとなると、やはりこの文章がすぐに浮ぶ。
     *
さいわい、われわれはレコードで世界的にもっともすぐれた福音史家の声で、聖書の言葉を今は聞くことが出来、キリストの神性を敬虔な指揮と演奏で享受することができる。その意味では、世界のあらゆる——神を異にする——民族がキリスト教に近づき、死んだどころか、神は甦りの時代に入ったともいえる。リルケをフルトヴェングラーが評した言葉に、リルケは高度に詩的な人間で、いくつかのすばらしい詩を書いた、しかし真の芸術家であれば意識せず、また意識してはならぬ数多のことを知りすぎてしまったというのがある。真意は、これだけの言葉からは窺い得ないが、どうでもいいことを現代人は知りすぎてしまった、キリスト教的神について言葉を費しすぎてしまった、そんな意味にとれないだろうか。もしそうなら、今は西欧人よりわれわれの方が神性を素直に享受しやすい時代になっている、ともいえるだろう。宣教師の言葉ではなく純度の最も高い──それこそ至高の──音楽で、ぼくらは洗礼されるのだから。私の叔父は牧師で、娘はカトリックの学校で成長した。だが讃美歌も碌に知らぬこちらの方が、マタイやヨハネの受難曲を聴こうともしないでいる叔父や娘より、断言する、神を視ている。カール・バルトは、信仰は誰もが持てるものではない、聖霊の働きかけに与った人のみが神をではなく信仰を持てるのだと教えているが、同時に、いかに多くの神学者が神を語ってその神性を喪ってきたかも、テオロギーの歴史を繙いて私は知っている。今、われわれは神をもつことができる。レコードの普及のおかげで。そうでなくて、どうして『マタイ受難曲』を人を聴いたといえるのか。
     *
「マタイ受難曲」からの引用だ。
最初に読んだ時から、ほぼ四十年が過ぎた。

《神を視ている》、
このことばほど、強烈なものは、私にはない。

フルトヴェングラーは、マタイ受難曲について、
「空間としての教会が今日では拘束となっている。マタイ受難曲が演奏されるすべての場所に教会が存在するのだ。」
と1934年に書いている。

《神を視ている》も、同じことのはずだ。

Date: 12月 20th, 2021
Cate:

音の種類(その5)

徹底して、個人の音といえる音がある。
その一方で、個人と個人をつなぐ音もある。

Date: 12月 19th, 2021
Cate:

色づけ(colorationとcolorization・その8)

マスターテープの音そのままの再生(再現)ということであれば、
音量も聴き手が勝手に調整してはいけない、ということで、本来あるはずだ。

なのにマスターテープの音そのままの再生(再現)を目指している、
大きな目標としていると広言している人も、音量は調整している。

自分の、その行動をおかしいと思わない人が、
マスターテープの音そのままの再生(再現)を謳う。

ここで難しいのは、音量の一致である。
マイクロフォンが拾った音の音圧そのままをスピーカーから再生すればいいのか。

けれど、その音圧にしても、スピーカーの正面からどの程度の距離での音圧なのか。
録音時に楽器とマイクロフォンの距離が1mあったとしよう。
ならばスピーカーの正面から1mの距離のところでの音圧が、
マイクロフォンが拾った音圧とイコールになればいいのか。

それとも録音している最中の、
その録音スタジオにおけるモニタースピーカーと同じ音量に設定すればいいのか。

たとえば生演奏(生音)とのすり替え実験では、
同じ空間での録音と再生であるだけに、音量の設定に難しいことを言う必要はない。
けれど録音と再生の場が一致しない場合は、そうはいかない。

Date: 12月 19th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その18)

別項でもなんどか書いている「心に近い(遠い)」。
このことを今年は、改めていろんな機会に考えていた。

心に近い音、心に近い音楽、そして心に近い人。

Date: 12月 18th, 2021
Cate: 老い

老いとオーディオ(ジュリーニのブラームスの四番)

今月はブラームスをよく聴いている。
別項で書いているようにブラームスの交響曲第一番を、
バーンスタイン/ウィーンフィルハーモニーの演奏を中心として、
いろんな指揮者、オーケストラで聴いていた。

一番を集中して聴きながらも、四番の交響曲も聴いていた。
ブラームスの四つの交響曲で、私がよく聴くのは一番と四番だ。
二番と三番は、あまり聴かない。

四番がもっともブラームスらしいと感じるだけでなく、
四つの交響曲のなかで、いちばん好きでもある。

今日はジュリーニの四番を聴いていた。
シカゴ交響楽団によるEMI録音と、
ウィーンフィルハーモニーによるドイツ・グラモフォン録音である。

録音には約二十年の隔たりがある。
どちらがブラームスの四番として優れた演奏なのか。
どちらも私は好きだし、いい演奏だと感じている。

それでもずいぶん違う演奏だ。
シカゴとの四番は、推進力がある、とでもいおうか、
録音にキズのあるところが何箇所があるものの、
そんなことはほとんど気にならないほどの演奏だ。

シカゴとの四番を聴いた直後に、ウィーンとの四番を聴くと、
ちょっとものたりない、と感じなくもない。
でも、それはすぐに消えてしまう。

しなやかで、歌うかのようなブラームスの音楽を聴いていると、
ただただ聴き惚れてしまう。

ウィーンとの四番は発売されてすぐに買って聴いた時から、
素晴らしいと感じていたし、ブラームスをよく聴く知人にもすすめたことがある。

知人は、ピンとこなかったようだ。
一緒に聴いていて、「これをいい演奏というんですか」というような顔で、
私の方を見ていた。

そういうものかもしれない。
二人とも、その時から三十以上齢を重ねている。
知人とは疎遠になったが、彼はやっぱり、
三十年以上前と同じように感じるのだろうか。

私は、というと、こういうふうにしなやかにブラームスの交響曲を歌えるのであれば、
老いてゆく、ということの素晴らしさを感じている次第。

Date: 12月 17th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その17)

ソーシャルメディア、ほぼ毎日眺めていて、
オーディオのことだけでいえば、着弾と出音という単語が、
よく使われるようになったと感じた。

着弾と出音。
私は、どちらも使わない。これからも使うつもりはないが、
使う使わないは、その人が選ぶことであって、とやかくいうことではない──、
とわかっていても、なんだか違和感のようなものをおぼえてしまう。

手に入れたいモノが届く──、
その嬉しさを着弾という単語で表現しているのはわかっている。
でも、もう少しマシないい方はないのか、とも思う。

出音。
こちらは、語感が悪いと感じる。
出音。もうこれだけで私は悪い印象を受けてしまう。

なのに「いい出音だった」みたいな使われかたを見かけると、
へぇ……、という印象しか残らない。

世代の違いなのか、とも思うこともあったけれど、
ソーシャルメディアでは投稿している人の年齢がはっきりとわからないこともあるが、
意外にも若い世代の人だけでなく、けっこう上の世代の人も使っているようだ。

来年以降は、オーディオ雑誌でも、着弾、出音が使われ始めるようになるのか。
それとも、もう使われ始めているのか。

Date: 12月 17th, 2021
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その24)

二十年ほど前には、
ベートーヴェンの交響曲もブラームスの交響曲も立派に演奏できる指揮者が大勢いた──、
そんなことを1980年代の後半に、
福永陽一郎氏がレコード芸術に書かれていたと記憶している。

全面的に賛同するわけではないが、
福永陽一郎氏がいわんとされているところには共感するだけでなく、
スピーカーにおいても、いえることのような気がする。

スピーカーの進歩は確かにある。
その進歩によって、ベートーヴェンの交響曲、ブラームスの交響曲が、
立派に鳴ってくれるようになったとはいえない。

昔のスピーカーには、
ベートーヴェン、ブラームスの交響曲を立派に鳴らしてくれるモノが、
ひしめていた──とはいえないものの、
立派に鳴らしてくれるスピーカーが確かにあったことは、はっきりといえる。

いまはどうだろうか。
ここでも、耳に近く(遠く)、心に近く(遠く)がいえる。

心に近い音のスピーカーがあってこそ、
ベートーヴェンの交響曲、ブラームスの交響曲が立派に鳴ってくれる、ともいえるし、
ベートーヴェンの交響曲、ブラームスの交響曲が立派に鳴ってくれるからこそ、
心に近い音のスピーカーといえる。

福永陽一郎氏は、確かに「立派」とされていた(はず)。
この「立派」をどう解釈するかでも、心に近い(遠い)が変ってこよう。

Date: 12月 16th, 2021
Cate: 表現する

オーディオ背景論(その5)

最近の、というか、もう少し前からなのだが、
人気マンガの連載期間が、
私が中学生、高校生だったころとくらべると、かなり長くなってきている。

あのころは単行本も十巻までいかない作品がけっこうあった。
二十巻をこえる作品は、そうとうに長い、という感覚であった。

ところがいまでは五十巻超えの作品はけっこうあるし、
百巻超えの作品も珍しくなってきている。

その理由は、一つではなくて、いろんなことが絡み合ってのことなのだろう。
でも、ここでテーマとしていることと関連していえることは、
背景の描写が緻密になるとともに、
作品の連載期間の長期化があたりまえのこととなってきた──、と。

背景描写が緻密でない作品でも、
たとえば「サザエさん」のように長期の連載、五十巻をこえる単行本という作品はあった。
「サザエさん」は四コマ・マンガなので、同列には比較できないところもあるのはわかっている。

それでも、背景の描写の緻密化と連載の長期化は、無関係とは思えない。

Date: 12月 16th, 2021
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その23)

トロフィーオーディオとして選ばれたスピーカーは、
いかなるモノであったとしても、
そして、そのスピーカー(トロフィースピーカー)で聴く人がどういう人であったところで、
心に近い音は、絶対に聴くことはできない。

Date: 12月 15th, 2021
Cate: ディスク/ブック

バーンスタインのブラームス第一番

TIDALで音楽を聴くようになってから、
クラシックに関しては、同じ曲を、別の演奏家で聴くことがものすごく増えた。

いままでもこういった聴き較べはしていたといえばそうなのだが、
それほど積極的ではなかった。

なのにTIDALでは、そうとうにやっている。
12月はブラームスの交響曲第一番を、ほぼ毎日聴いていた。

バーンスタイン/ウィーンフィルハーモニーを聴いたのがきっかけだった。
この録音を、発売当時に聴いて、バーンスタインに夢中になった。

ドイツ・グラモフォンではブラームスの前に、
同じウィーンフィルハーモニーとによるベートーヴェンの交響曲全集があった。

高く評価されているのは、知っていた。
聴いてみたい、という気持はったけれど、すぐには手を出すことはなかった。

なのにブラームスに関しては、発売されてすぐに買って聴いた。
いまも聴いているわけだから、その時も、素晴らしい演奏だ、と感じていた。

特に四楽章を聴いて、バーンスタインって、こんなに素晴らしい指揮者だったのか──、
お前の認識不足だよ、といわれようが、そう感じたことを、いまもはっきりと憶えている。

素晴らしいだけではなく、美しいのだ。
オーケストラがウィーンだから、ということもあるのはわかっている。

今回久しぶりにバーンスタインのブラームスを聴いて、あらためてそう感じて、
それがきっかけで、他の指揮者のブラームスの一番を次々と聴いていくことになった。

いままで聴いてきた指揮者だけでなく、初めての演奏(録音)もけっこうあった。
いいな、と感じた演奏を聴き終ったあとには、
バーンスタインをまた聴いていた。

そんなことを飽きもせず、12月の半分を過ごしていた。
結論は、やっぱりバーンスタインのブラームスはいい、ということ。
それも四楽章の美しさは、私にとって格別だ、ということ。

三十数年前に感じたことを確認しただけ、ともいえる。

Date: 12月 15th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その16)

Kindle Unlimitedで読めるようになるまで待つつもりだったけれど、
ステレオサウンド 221号のベストバイで、JBLの4309がどう扱われているのか、
それだけが気になって、このところだけを立読みしてきた。

4309の評価はまずまず高かった。
黛 健司氏が、220号での新製品紹介記事に続いて、コメントを担当されている。
まぁ、そうだろうな、と思う。

その文章には、八城一夫、ベーゼンドルファーと出てくる。
ベストバイの一機種あたりのコメントの文字数は少ない。
その制約のなかでの表現なのはわかっている。

それでも、八城一夫、ベーゼンドルファーが、何を意味しているのか、
すぐにわかるのは、私ぐらいがぎりぎりの世代であろう。

私より若い世代になると、何のことだろうか──、となるであろう。
いうまでもなく菅野先生録音のことである。

オーディオラボのレコード(録音物)を聴いてきた、
少しでもいい音で鳴らそうとしてきた人ならば、
八城一夫、ベーゼンドルファーが意味するところを掴める。

こういう書き方をした黛 健司氏に対して何かをいいたいわけではない。
この文章をそのまま掲載したステレオサウンド編集部に、何か言いたいわけでもない。

ただ、そのまま掲載したということが意味するところを考えてみてほしい。
それで意味がわかる人が多い、という判断なのだろう。
つまり、ステレオサウンドの現在の読者の中心年齢層がどこなのか、である。