Archive for 6月, 2018

Date: 6月 3rd, 2018
Cate: ディスク/ブック

Here’s To My Lady(その2)

ビリー・ホリディの名前だけは十代のころから知っていた。
けれどレコードを自分で買って聴いたのはハタチになっていた。

ロジャースのPM510を鳴らしているころだった。
ビリー・ホリディがどういう歌手なのかは、なんとなくぐらいしか知らなかった。
どのディスクを買って聴いたのかも、いまでは正確に思い出せない。

それまで聴いてきた、どんな女性歌手とも違うことだけは聴いていて感じた。
でも、それ以上のこととなると、そこで鳴っていた音では、
ビリー・ホリディがものすごく遠く感じたものだった。

だから愛聴盤となることもなかったし、
それ以上ビリー・ホリディのレコードを買うこともしなかった。

岩崎先生が書かれていたことを体験していたわけだ。
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 いくら音のよいといわれるスピーカーで鳴らしても、彼女の、切々とうったえるようなひたむきな恋心は、仲々出てきてはくれないのだった。一九三〇年代の中頃の、やっと不況を脱しようという米国の社会の流れの中で、精一ばい生活する人々に愛されたビリーの歌は、おそらく、その切々たる歌い方で多くの人々の心に人間性を取り戻したのだろう。
 打ちひしがれた社会のあとをおそった深い暗い不安の日々だからこそ、多くの人々が人間としての自身を取り戻そうと切実に願ったのだろう。つまりブルースはこの時に多くの人々に愛されるようになったわけだ。
 音のよい装置は、高い音から低い音までをスムーズに出さなければならないが一九三〇年代の旧い録音のこのアルバムの貧しい音では、仲々肝心の音の良さが生きてこないどころか、スクラッチノイズをあからさまに出してしまって歌を遠のける。
 スピーカーが、いわゆる優れていればいるほど、アンプが新型であればあるほど、このレコードの場合には音の良さとは結びつくことがないようであった。
(「仄かに輝く思いでの一瞬」より)
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「私とJBLの物語」でも、
ビリー・ホリディと音については書かれている。
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ビリー・ホリディの最初のアルバムを中心とした「レディ・ディ」はSP特有の極端なナロウ・レンジだが、その歌の間近に迫る点で、JBL以外では例え英国製品でもまったく歌にならなかったといえる。
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《まったく歌にならなかった》、
ほんとうにそうだった。
だから聴いていてしんどかった。

でもビリー・ホリディのレコードのためだけにJBLを手に入れるだけの余裕は、
ハタチの若造にはなかった。

ステレオサウンドの試聴室にはJBLのスピーカーがある。
でも4344では、それに試聴室という場所でビリー・ホリディを聴きたいとも思わなかった。

ビリー・ホリディを素晴らしいといっている人すべてが、
JBLのスピーカーで聴いているわけではないことはわかっている。

JBL以外のスピーカーで聴いても、ビリー・ホリディの歌の素晴らしさはわかる(はずだ)。
わからないのは、お前がオーディオマニアだからだろう、といわれそうだが、
それでもいい。

ビリー・ホリディは、JBLの高能率のスピーカーでなければ、
私にはその良さが伝わってこない。

「仄かに輝く思いでの一瞬」で、岩崎先生はこうも書かれている。
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「ビリー・ホリディが何年か前に、アンティックばやりの最中、急に流行したりしてその名が誰かれの口に登るようになった時は、少々うとましいほどであった。もっともその底にはビリーの本当の良さが私ほど判ってたまるものか、という一人占めの気持が働いていたのだろうか。なんとうぬぼれの強いことと今は恥ずかしいくらいだ。
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《今は恥ずかしいくらいだ》とあるが、
《ビリーの本当の良さが私ほど判ってたまるものか》は本音だと思う。

Date: 6月 2nd, 2018
Cate: ディスク/ブック

Here’s To My Lady(その1)

Here’s To My Lady。
1979年のローズマリー・クルーニーの「ビリー・ホリディに捧ぐ」である。

ステレオサウンド 51号掲載の「わがジャズ・レコード評」で、
安原顕氏が取り上げられている。
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ホリディの愛唱曲ばかりを歌ったレコードはこれまでにも数多く出ているが、結局はメロディやテンポをくずした、一種鬼気迫るようなエモーションを表出した、ホリディ独自のあのにがい歌の印象があまりにも強烈なために、聴き手であるわれわれは、たとえそれがホリディとは対極の歌唱だとしても、他の歌手の表現ではどうしてもあきたりないものを感じてしまうケースが多かったが、今度のこのクルーニーの歌唱は、表面的にはホリディとは正反対のアプローチのようにみえながら、深部ではホリディの歌心と通底しているという不思議な魅力をもっている。
 とくに「Lover Man」や「Don’t Explain」等でみせる彼女の歌唱は、ポップス・シンガーとかジャズ・シンガーといったようなジャンルを超えた、まさに今年51歳のクルーニーでしか表現し得ないような、強くて深い説得力でわれわれに迫ってくる(しつこいようだが先の村上君とこのレコードについて話した折、ホリディきちがいの彼は、断じてこのクルーニー盤は認められないといっていたけれど、ぼくはそれほどホリディきちがいではないし、なんのかんのといってみても最終的にヴォーカルの行き着くところは、こうした一見単純で素直な歌唱法だろうとぼく自身は思っている)。
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「先の村上君」とは、村上春樹氏のこと。
51号のころ、「風の歌を聴け」で、第22回群像新人賞受賞している。

村上春樹氏と安原顕氏、ふたりの「ビリー・ホリディに捧ぐ」の評価の大きな違い。
ことばをかえれば、ホリディきちがいかそうでないかの違い。

51号を読んだ当時は、それがどこからくるものなのか、まったくわからなかった。
村上春樹という名前も、私は51号で初めて知ったくらいで、
どういう人なのか、どんなスピーカーで聴いてきた人なのか、まったく知らなかった。

安原顕氏についても、ステレオサウンドの筆者の一人、ということ以上は知らなかった。

いまなら、村上春樹氏はJBLで、ビリー・ホリディを聴かれていたからではないのか──、
そうおもう。

Date: 6月 2nd, 2018
Cate: BBCモニター

BBCモニター、復権か(音の品位・その5)

(その4)までで引用してきたステレオサウンド 60号での試聴は、
個別の試聴ではなく全員での試聴である。
瀬川先生も菅野先生も、同席されての試聴である。

音の品位は、なにもスピーカーについてのみいえるのではなく、
アンプについても、カートリッジに関しても、他のオーディオ機器であってもいえる。
けれど、もっとも感覚的に捉えられるのは、やはりスピーカーである。

60号の一年半前にステレオサウンドは、スピーカーの試聴を行っている。
54号である。
この時の試聴は、黒田恭一、菅野沖彦、瀬川冬樹の三氏によるものだが、
個別試聴である。
試聴レコードも三氏で違うし、
スピーカーを鳴らすオーディオ機器(プレーヤー、カートリッジ、アンプ)も三氏皆違う。

それに試聴方法も違っている。
スピーカーだから、そのセッティングが重要になるわけだが、
ここも微妙に違っている。

そのうえで、特集の鼎談を読むわけだが、
ここでも音の品位について、菅野先生と瀬川先生とでは、
完全に一致しているわけではない。

たとえばグルンディッヒのProfessional BOX 2500。
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菅野 私は、瀬川さんがこのスピーカーに、まあ9点はびっくりしましたが、8点くらいつけるのはよくわかる気がします。瀬川さんは、あるところ非常にハードに厳しいけれど、あるところすごく甘いところがあるように思う。徹底してどちらかにいってしまう。
瀬川 ……(苦笑)。
菅野 引っかかると徹底的にハードを追求し、引っかからないと徹底的にハードを無視してソフトに行くという、そういう性癖がある(笑い)。
 このグルンディッヒはひっかかってきたひとつだと想うのです。まず音が非常に電蓄的ですね。先ほど古いとおっしゃったが、まさにその通りでノスタルジーは感じます。しかし、今日の水準で聴くと、クォリティ面で、特にユニット自体の品位があまり高くないことが露呈してくる。
瀬川 そうですか? 品位は高いと思いますけれど……
菅野 それは全体としてでしょう。バランスはそれなりにとれていると思いますが、たとえば低域は、なかなか重厚といえば重厚だが、よく聴くとボコボコですよ。
瀬川 私が鳴らすとボコボコいわないんてすよ。
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編集部によると、Professional BOX 2500での三氏が鳴らす音に、
それほど大きな違いはなかった、とあるが、
三氏がそれぞれに指摘している長所、短所は、同席していて納得がいくともある。

Professional BOX 2500は、60号でのマッキントッシュのXRT20とは反対に、
菅野先生は品位がない、と感じ、瀬川先生は品位があると感じられた例である。

Date: 6月 1st, 2018
Cate: 数字

300(その8)

ステレオサウンド 44号の音楽欄、
「東芝EMIの〈プロ・ユース〉シリーズとTBMの〈プロフェッショナル・サウンド〉シリーズを試聴記」
という記事を、井上先生が書かれている。

プロ・ユースシリーズ五枚、
プロフェッショナル・サウンドシリーズ三枚のレコードについて、
それぞれ紹介されていて、
TBMの「MARI」についての文章のなかに、
テープスピードの違いによる音について書かれている。
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一般的に、38センチを剛とすれば、76センチは、むしろ柔である。テープらしいガッチリとして引締まり、パワフルな音が2トラック38センチの音の特長だが、76センチとなると、低域は豊かに伸びやかであり、中域以上も滑らかで、より細やかでナチュラルになるのが普通である。
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これはかなり意外だった。
44号は1977年に出ている。
このころの私は38cm/secの音も、まだ聴いていない。

76cm/secは、38cm/secの倍である。
つまり剛の二倍である。

剛(ごう→五)の二倍は柔(十)、
たしかにそうだな、と高校生だったにも関らずオヤジギャグ的なことも思っていた。

マッキントッシュの一連のシリーズもそうではないか。
300WのMC2300が、ちょうど38cm/secのテープスピードの音にあたる。
600WのMC2600が、76cm/secの音である。

井上先生が76cm/secの音について書かれていることは、
そのままMC2600の音にあてはまる。
《低域は豊かに伸びやかであり、中域以上も滑らかで、より細やかでナチュラル》、
MC2300からMC2500を経てのMC2600への音の変化も、まさにこれである。

Date: 6月 1st, 2018
Cate: 数字

300(その7)

300WのMC2300は、500WのMC2500になり、
MC2500のブラックパネル(内部も改良されている)、
さらに600WのMC2600にまで発展していった。

パワーアンプとしても、MC2300よりもMC2500、
MC2500のシルバーパネルよりもブラックパネル、
そしてMC2600と優秀になっていっている。

MC2600はMC2500の系譜にあたる音(アンプ)である。
MC2300とMC2500(シルバー)、
MC2500(シルバー)とMC2500(ブラック)、
MC2500(ブラック)とMC2600の比較試聴はしているが、
MC2300とMC2600とは比較試聴したことはない。

その機会があったとしても、印象は大きくは変ってこない、と思う。
MC2300から始まった、このシリーズはパワーを増すごとにしなやかさに身につけている。
柔軟になってきた、ともいえる。

こんなふうに書いてきて気づくのは、オープンリールデッキのテープスピードのことである。
一般的に19cm/sec、38cm/sec、76cm/secがある。
76cm/secの音を聴いたことがある人は、ごくわずかだろう。
私もない。

19cm/secと38cm/secは何度も聴いているし、
このふたつのテープスピードによる音の違いも、まったく知らないわけではない。

19cm/secから38cm/secになったときの音から、
38cm/secから76cm/secになった音を想像すると、見当はずれになるようだ。

井上先生は、38cm/secの音を剛とすれば、
76cm/secの音は柔である、と表現されている。

Date: 6月 1st, 2018
Cate:

オーディオと青の関係(名曲喫茶・その4)

新宿珈琲屋を始めるあたって、
店主のMさんは、友人のOさんにオーディオをまかせている。

QUADのシステムを選びセットアップしたのはOさんである。
Oさんとは、このブログに度々登場するOさんである。

ステレオサウンドの編集に50号あたりから携わり、
サウンドボーイの創刊、HiViの創刊、両誌の編集長でもあった。

サウンドボーイの記事中にもあったが、あのあたりの当時の電源事情はかなりひどくて、
ノイズカットトランスが必要になった、とのこと。

二基のESLは、客の後側に置かれていた。
ESLの音をきちんと聴きたければカウンターの中に入るしかない。

客は背後から鳴ってくる音を聴くことになる。
もっともほとんどの客は、すぐ後にあるパネルヒーターのようなモノが、
スピーカーとは思っていなかったようだ。

なんとなく、どこかから音楽が鳴っている──、
そんな感じで受けとっていたように思う。

私は新宿珈琲屋によく通っていた。
日曜日は必ず行っていた。
仕事の後も、週に二度は通っていたから、週三は最低でも、
新宿で映画を観たあとも、ここでコーヒーを、という感じだったから、
週四というときもあった。

それだけ通っていて、一度だけ、
ある客が、「どこから音、鳴っているんですか」と訊ねていたのを見ている。
そういう音の鳴らし方だったし、新宿珈琲屋は名曲喫茶ではない。

私はここで本格的なコーヒーの味を初めて知った。