Archive for 10月, 2015

Date: 10月 4th, 2015
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(語りたいモノがある)

ヤマハの新しいスピーカーシステムNS5000を書いている。
ジェームズ・ボンジョルノのアンプのことも書いている。
──こんなふうに語りたくなるオーディオ機器が、これだけではなく他にもいくつもある。

優秀なオーディオ機器だから、ではない。
語りたいと思うオーディオ機器は、必ずしも世評の高いモノではない。

そこに、何か共通した理由を私自身が見いだすのはできないことかもしれない。
とにかく語りたいオーディオ機器がある、ということだ。

この語りたいオーディオ機器を心の裡に持つ者がオーディオマニアである。
語りたいオーディオ機器を持たぬ者は、どれだけオーディオにお金を投じていようとオーディオマニアとは呼べない。

Date: 10月 3rd, 2015
Cate: audio wednesday

第57回audio sharing例会のお知らせ(ヤマハ NS5000をどう評価するか)

今月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。

ヤマハのNS5000の、ネット上での評価は芳しくないもののほうが多いようである。
facebookでも、ヤマハの音づくりはおかしいのではないか、という意見ももらった。

インターナショナルオーディオショウの二日目、NS5000の音を聴いて私は昂奮していた。
けれど他の人たちはどう感じているのかについては、
どちらかといえば悪い評価の方が多いはずだとも思っていた。

ネットで見る限りは、やはりそうであるようだ。

私が危惧しているのは、そういう意見によって軌道修正され、
今回のインターナショナルオーディオショウで私が感じたNS5000の良さがなくなってしまわないか、である。

リヒテルはヤマハのピアノについて語っている。
     *
なぜ私がヤマハを選んだか、それはヤマハがパッシヴな楽器だからだ。私の考えるとおりの音を出してくれる。普通、ピアニストはフォルテを重視して響くピアノが良いと思っているけれど、そうじゃなくて大事なのはピアニッシモだ。ヤマハは受動的だから私の欲する音を出してくれる。
     *
NS5000も、その意味では受動的な、パッシヴなスピーカーシステムである。
アクティヴなスピーカーシステムを求めている人にとっては、
NS5000の音は箸にも棒にもかからない音であっても不思議ではない。

パッシヴなスピーカーだからといって、音が死んでいるとか生気がないとかではないのはもちろんだ。
ネガティヴな意味でのパッシヴなスピーカーではなく、ポジティヴな意味でのパッシヴなスピーカーである。

その意味で、ヤマハの音づくりは、果たしておかしいのか間違っているのだろうか。
音づくりとは、音作りなのか、音創りなのか。
たいていの場合は、音作りである。

けれど私はヤマハのNS5000には音創りを目指しているところがあるように感じた。

時間はこれまでと同じ、夜7時です。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 10月 3rd, 2015
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(その6その後)

手塚治虫による「雨のコンダクター」、
つまり手塚治虫によって描かれたバーンスタインは、音楽を演る男のかっこよさをがあった。

バーンスタインは指揮者であり、作曲家でもあり、またピアニストでもある。
音楽家として才能に恵まれ、自信に満ちていたかのように思われた……。

河出書房新社の「フルトヴェングラー 最大最高の指揮者」に、
作曲家・伊東乾氏による「作曲家フルトヴェングラー」についての文章がある。

バーンスタインの話から始まる。
     *
 生前のレナード・バーンスタイン(1918-1990)と初めて会ったときの事だ。たまたま学生として参加していた彼の音楽祭で、当時僕がスタッフをしていた武満徹監修の雑誌の企画で「作曲家としてのバーンスタイン」に話を聴くことになった。
 ところが、話が始まって20分位だったか、マエストロ・レニーは突然、何か感極まったような表情になってしまった。
 思いつめたような声で、半ば涙すら浮かべながら
「コープランドには第三交響曲がある。アイヴズには第四交響曲がある。でも自分には何もない」
 と訴え始めたのだ。大変に驚いた。
 反射的に彼の『ウエストサイド・ストーリー』(『シンフォニック・ダンス』)の名を挙げてみたのだが
「ああ、あんなものは……」
 と更に意気消沈してしまった。確かに「シンフォニック・ダンス」はよく知られた作品だが、実はオーケストレーションも他の人間が担当しており、ミュージカル映画の付帯音楽に過ぎないのは否めない。
「誰も僕を、作曲家としてなんか認めていない……」
「いいえ、あなたが一九八五年、原爆40年平和祈念コンサートで演奏された第三交響曲『カディッシュ』は素晴らしかっただから今、僕たちはここに来て、作曲家としてのあなたにお話を伺っているのです。
 自分の信じる通りを誠実に話して、どうにか気持ちを立て直して貰った。
     *
意外だった、驚きだった。
「自分には何もない」、
「ああ、あんなものは……」、
「誰も僕を、作曲家としてなんか認めていない……」、
こんなことがバーンスタインから語られていたとは知らなかった。

そういえばグルダが、
バーンスタインはジャズがまったくわかっていない、批判していたのは知っていたけれど、
それでも大きな驚きだ。

とはいえ、指揮者バーンスタインが残したものの聴き方が、このことを知って変るかといえば、
まったく変らないであろう。
ただ「雨のコンダクター」の読み方は、多少変るかもしれない。

バーンスタインに、こんなコンプレックスがあったことを手塚治虫が知っていたのかどうかはわからない。
手塚治虫が、そういうものを感じとっていたのかどうかもわからない。
それでも知った後と知る前とでは何かが変っていくはずだ。

Date: 10月 2nd, 2015
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その4)

続きを書くにあたって、迷っていた。
確認しておきたいことがあったけれど、
それが何に、いつごろ載っていたのかうろおぼえで、どうやってその本をさがしたらいいのか。
しかも、それは購入していた本ではない。
どこかで目にしたことのある本だった。

国会図書館に行き、じっくり腰を据えてさがしていけばいつかはみつかるだろうが、
それでは時間がどのくらいかかるのかわからない。

うろおぼえの記憶に頼って書くしかない……、と思っていたところに、
その本そのものではないが、
私が確認しておきたかった(読みたかった)記事が再掲されたムックが出ていた。

河出書房新社の「フルトヴェングラー 最大最高の指揮者」に載っていた。
7月に出たこの本の最後のほうに、「対談 フルトヴェングラーを再評価する」がある。
音楽評論家の宇野功芳氏と指揮者の福永陽一郎氏による、1975年の対談である。

この対談の福永氏の発言を、どうしても引用しておきたかったのだ。
     *
福永 ぼくがこのごろ思っていることは、フルトヴェングラーはいわゆる過去の大家ではないということです。つまりほかの大家、大指揮者というのは、みんな自分たちの大きな仕事を終わって、レコードにも録音して死んじゃったんですけれども、フルトヴェングラーというのは、そうではなくて、いまレコードで演奏している。つまり生物的には存在しない人間なんだけれども、いまなお、そのレコードを通して演奏している演奏家で、だから新しいレコードが発見されれば、ちょうどいま生きている演奏家の新しい演奏会を聴きに行くように聴きたくなる。そういう意味で、つまり死んでいないという考え方なんです。
 過去の演奏会ではない、いまだに生き続けている。あのレコードによって毎日、毎日鳴り続けている指揮者であると、そういう指揮者はほかにいないというふうに、ぼくは考えるわけです。だから、ほかの指揮者は過去の業績であり、あの人は立派だった、こういうのを残したという形で評価されているけれども、フルトヴェングラーの場合は、レコードが鳴るたびに、もう一ぺんそこで生きて鳴っているという、そういうものがあの人の演奏の中にあると思うんです。それがいまの若い人でも初めて聴いたときにびっくりさせる。
 つまり、過去の大家の名演奏だと教えられて、はあそんなものかなと聴くんじゃなくて、直接自分のこころに何か訴えてくるものがあって、自分の心がそれで動いちゃうということが起こって、それでびっくりしちゃって、これは並みのレコードとは違うというふうに感じるんじゃないか。そうするともう一枚聴きたくなるという現象が起きるんじゃないかという気がするわけですね。
     *
福永氏が語られていることをいま読み返していると、
フルトヴェングラーは、演奏家側のレコード演奏家だということをつよく感じる。

Date: 10月 1st, 2015
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その7)

「音は人なり」。
確かにそうだと思っている。

思っているけれど、「音は人なり」が根本的なこと、根源的なことであれば、
いかなる環境においても「音は人なり」であるはずである。

音のために専用の空間とシステムを用意する。
その環境の中で音を良くしていこうとやっていく。

そうやって音は良くなっていく。
その意味で「音は人なり」である。

ではそうやって積み重ねてきた環境を捨てて、
まったくゼロから、しかもまるで違う環境におかれたとして、
その音は「音は人なり」となるのだろうか。

いいや、これは自分の音ではない、という考えもできるし、
いかなる環境においても出せる音こそが「音は人なり」であるとも考えられる。

出てくる音と出せる音との違いがある。

Date: 10月 1st, 2015
Cate: James Bongiorno

THE GOLDなワケ(THE NINEの場合)

SUMOのTHE POWERには半分の出力のTHE HALFがあった。
THE GOLDにも半分の出力のTHE NINEがある。

THE GOLDの中古を見つけて買ったことを山中先生に話したことがある。
THE NINEもいいアンプだよ、と教えてくださった。

THE NINEはTHE GOLDのハーフモデルだからA級動作である。
電圧増幅部はTHE GOLDがディスクリート構成なのに対し、THE NINEはOPアンプを使っている。
出力段はTHE GOLDとほぼ同じ構成である。

フロントパネルはTHE HALFが黒なのに対し、THE NINEはゴールドである。

こんなことを書いているけれど、THE NINEの実物を見ることはなかった。
山中先生が聴かれているのだから日本に輸入されているはず。
けれどステレオサウンドの新製品紹介のページには載ることはなかった。

そんなTHE NINEであっても、インターネットのオークションをみていると、
ときどき出品されていることがある。
並行輸入かもしれないし、正規品かもしれない。
とにかく、さほど数は多くないにしても日本にTHE NINEはある。

このTHE NINE、なぜNINEなのだろうか。
THE HALFはわかりやすい。半分だからだ。

NINEは9。
なぜ9なのか。あれこれ考えてみた。

THE GOLDの半分で9ということは、つまりはTHE GOLDは18になる。
18Kなのか、THE NINEは9Kということなのか。

これが正しいのかどうかはいまとなってはわからない。
仮に正しかったとしたら、THE GOLDは18Kであって、24Kではないのか、ということになる。
24Kがいわゆる純金なのだから。

ここまで考えてくると妄想はふくらむ。
THE GOLDのスペシャルもデルの構想がボンジョルノの頭の中にあったのかもしれない。
18Kではなく24KとしてのTHE GOLDの構想が。