Archive for 5月, 2015

Date: 5月 13th, 2015
Cate: オプティマムレンジ

オプティマムレンジ考(その9)

アンプにもテープデッキにもカートリッジにもセパレーション特性という項目がある。
アンプは完全なモノーラル仕様であればセパレーション特性は関係なくなるが、
ステレオ仕様であるかぎり、どんなオーディオ機器であれセパレーション特性が関係してくる。

どんなに優秀なセパレーション特性のアンプやデッキなどであっても、
高域になればセパレーション特性は悪くなっていく。
20kHzまではセパレーション特性がフラットにできたとしても、
それ以上の高域、40kHz、80kHz……周波数が高くなればセパレーション特性はどんどん悪くなっていく。

20kHzまでであれは十分なセパレーション特性であっても、
高域レンジが拡大していくことで、それでは十分とはいえなくなる。
再生周波数レンジを高域方向にのばしていこうとすれば、
十分なセパレーション特性をどう確保していくのかが問題となってくる。

しかもデジタル機器では高域のレンジをのばしていくためには動作周波数を高くしていくことになる。
そのためSACDプレーヤーが登場したばかりのころ、
あるSACDプレーヤーはアンプとケーブルで接続しなくとも、
PLAYボタンをおしてSACDを再生すると、スピーカーから音が鳴ってきた。

CDプレーヤーでは起り得なかった現象が、
より高い周波数で動作しているSACDプレーヤーでは、輻射ノイズに音楽信号がのり、
そのノイズをアンプが検波してしまい結果としてケーブルによる接続がなくとも音が鳴ったわけである。

Date: 5月 13th, 2015
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その2)

瀬川先生の文章を読んでヤマハのCIとテクニクスのSU-A2を、まっさきに思い浮べたのは、
そこに書かれていたことから遠い存在として、であった。

その後に、瀬川先生の文章のような存在といえるコントロールアンプいくつか思い浮べていた。
そしてこれらのコントロールアンプのデザインに 短歌的なものを見いだせるとしたら、
CIとSU-A2は、技術者がやりたいことをやったという性格のアンプだから、
文字数の制約のない小説ということになるのか。
そんなことを考えた。

そんなことを考えながら思い出していたのは、
瀬川先生がステレオサウンド 52号の特集の巻頭に書かれた「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」だった。
マッキントッシュのC29とMC2205のことを書かれている。
     *
 ずっと以前の本誌、たしか9号あたりであったか、読者の質問にこたえて、マッキントッシュとQUADについて、一方を百万語を費やして語り尽くそうという大河小説の手法に、他方をあるギリギリの枠の中で表現する短詩に例えて説明したことがあった。
 けれどこんにちのマッキントッシュは、決して大河小説のアンプではなくなっている。その点ではいまならむしろ、マーク・レビンソンであり、GASのゴジラであろう。そうした物量投入型のアンプにくらべると、マッキントッシュC29+MC2205は、これほどの機能と出力を持ったアンプとしては、なんとコンパクトに、凝縮したまとまりをみせていることだろう。決してマッキントッシュ自体が変ったのではなく、周囲の状況のほうがむしろ変化したのには違いないにしても、C29+MC2205は、その音もデザインも寸法その他も含めて、むしろQUADの作る簡潔、かつ完結した世界に近くなっているのではないか。というよりも、QUADをもしもアメリカ人が企画すれば、ちょうどイギリスという国の広さをそのまま、アメリカの広さにスケールを拡大したような形で、マッキントッシュのサイズと機能になってしまうのではないだろうか。そう思わせるほど近ごろ大がかりな大きなアンプに馴らされはじめた目に、新しいマッキントッシュは、近ごろのアメリカのしゃれたコンパクトカーのように小じんまりと映ってみえる。
     *
大河小説というキーワードで思い出したにすぎないのだが、
これがCIとSU-A2はほんとうに文字数の制約のない小説なのだろうか、と考え直すきっかけとなった。

ヤマハのCIは実際に触ったことはある。
とはいえ自分のモノとしてしばらく使ったわけではないし、触ったという程度に留まる。
SU-A2は実物を見た記憶がはっきりとない。
もしかすると学生時代に、どこかでちらっと見たような気もしないではないが、もうおぼろげだ。

これだけ多機能のコントロールアンプは短い期間でも自分の使ってみるしかない。
そのうえでないと、きちんと評価することはできない、といっていいだろう。

なのでCIとSU-A2に関しては、あくまでも写真を見ただけの判断になってしまうのだが、
このふたつのコントロールアンプに未消化と感じるところは、私にはない。

Date: 5月 12th, 2015
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(その2)

伊藤先生が晩年、無線と実験に6V6のシングルアンプを発表された。
手持ちのアンプがなくなったため、手持ちの部品で作られたアンプを記事にされていた。

このアンプ、最初はハムが出た、とある。
伊藤先生ほどの真空管アンプのベテランでも、ハムが出てしまう。
しかもあれこれハムを止めるためにやってみたけれどおさまらない。
結局チョークコイルを後付けして止った、とあった。

このくらいのアンプならばチョークなしでも大丈夫だろうと横着した結果がこれである、
そんなことを書かれていたと記憶している。

シングルアンプはハムが出やすい、というよりも、チョークコイルなしではほぼ出ると考えた方がいい。
プッシュプルアンプであればチョークコイルなしでもハムが出ることは、
よっぽどまずい設計か、よっぽどまずい配線の引き回しでもないかぎりハムに悩まされることはほとんどない。

シングルアンプもチョークコイルを使えばハムに悩まされることはないわけだが、
チョークコイルを使うのは初心者向きなのかどうかと考える。

チョークコイルを使うと、ステレオアンプだと鉄芯をもつ部品が、
出力トランス(二個)、電源トランス、チョークコイルと四つ使うことになる。
この四つを、どう配置するのか。

左チャンネルと右チャンネルのそれぞれのトランスを、どう配置するのがいいのか。
シャーシの左右両端に離すのか、それとも見映えも考慮して二個並べて配置するのか。
その場合に、トランスの向きはどうするのか。

初心者向きのアンプでは、コアが露出しているタイプのトランスが使われることが多い。
だからこそトランスの配置、向きは最初に押えておかねばならぬポイントであるにもかかわらず、
まったく触れていない記事の多いこと。

Date: 5月 12th, 2015
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(NIRO Nakamichiの復活・その1)

先ほどfacebookを見て知ったばかり、
NIRO NakamichiがHE1000というスピーカーシステムを発表している。
まだNIRO Nakamichiのウェブサイトはあることにはあるが今日現在何も公開されておらず、
岡山のオーディオ店AC2のサイトでの公開である。

Nakamichiブランドでもない、NIROブランドでもない、
NIRO Nakamichiブランドである。

Date: 5月 11th, 2015
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(その1)

ときおりみかけるのが、五極管シングルアンプ製作は、
真空管アンプを製作したことのない人にいちばんすすめられる、というのがある。
(ここでの五極管とはビーム管をふくめての意味で、便宜上三極管以外の出力管を五極管と書く)

その場合6L6系列の球をすすめられることが多いようだ。
こういうのをみかけると、時代がかわったのかなぁ、と思う。

誰だって最初は初心者だし、初心者向きのモノ・コトがあれば、
そこから始めれば失敗のリスクも低くなる。

私がそういった意味で初心者だったころ、
初心者向きの真空管アンプ製作といえば、プッシュプルアンプだった。

EL84(6BQ5)、6F6、6V6などの出力管のプッシュプルで、
電圧増幅管には五極管と三極管をひとつにまとめた複合管、
ECC82(12AU7)、ECC83(12AX7)などの双三極管を使い、
初段で増幅したあとにP-K分割の位相反転段という構成だった。
いわゆるアルテック回路、ダイナコ回路と呼ばれたものだった。

これだと片チャンネルあたり使用真空管は三本。
出力もそれほど大きくないから出力トランスも大型のモノを必要とはしないから、
アンプ全体もそれほど大きくならずに製作出来る。

真空管もポピュラーなモノだし、電源トランスも容量の大きなモノは必要としないから、
製作コストも高価になることはなかった。

私はいまでも初心者向きの真空管アンプ製作といえば、こういったアンプをすすめる。
私は少なくとも当時、シングルアンプは腕が上達してから挑戦するモノという感覚だった。

それはシングルアンプ・イコール・直熱三極管のシングルアンプというイメージがあったためでもあるが、
そういうイメージを抜きにしても、シングルアンプは初心者向きとは思えない。

いま五極管シングルアンプが初心者向きというのは、
どのあたりからどう変ってきて、そういわれるようになったのだろうか。

Date: 5月 11th, 2015
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その1)

それは日本古来の短歌という形式にも似ている。三十一文字の中ですべての意味が完了しているという、そのような、ある形の中で最大限の力を発揮するという作業は、まことに日本人に向いているのだ、と思う。
     *
これは瀬川先生がラジオ技術 1961年1月号に書かれた文章である。
瀬川先生は1935年1月生れで、1961年1月号は1960年12月に出ているし、
原稿はその前に書かれているのだから、瀬川先生25歳の時の文章となる。

この文章はコントロールアンプのデザインについて書かれたもの。
短歌は、五・七・五・七・七の五句体からなる和歌であるから、
31文字であれば、六・六・五・五・九や四・五・六・八・八でいいわけではなく、
あくまでも31文字という制約と五・七・五・七・七の五句体という制約の中で、すべての意味が完了する。

正しく、これはコントロールアンプのデザインに求められることといえる。
これだけがコントロールアンプのデザインのあるべき姿とはいわないが、
瀬川先生がこれを書かれてから50年以上経ついま、きちんと考えてみる必要はある。

瀬川先生の、この文章を読んで、まず私が頭に思い浮べたのは、
ヤマハのCIとテクニクスのSU-A2だった。
どちらも非常に多機能なコントロールアンプである。
コントロールアンプの機能として、これ以上何が必要なのか、と考えても、
すぐには答が出ないくらいに充実した機能を備えているだけに、
それまでのコントロールアンプを見馴れた目には、
コントロールアンプという枠からはみ出しているかのようにもうつる。

ツマミの数も多いし、メーターも装備している。
そうなるとフロントパネルの面積は広くなり、それだけの機能を装備するということは、
回路もそれだけのものが必要となり、消費電力も増える。
電源はそれだけ余裕のある設計となり、筐体も大きくなり、
CIは重量17kg、消費電力55W、
SU-A2は重量38.5kg、消費電力は240Wとなっている。

このふたつのコントロールアンプは、だから短歌的デザインとはいえない、といえるだろうか。
私の知る限り、CI、SU-A2に匹敵する多機能のコントロールアンプは他にあっただろうか、
日本以外のメーカーから登場していない。

このふたつのコントロールアンプは、日本だから登場したモノといえる。
ということは、これらふたつのデザインに、短歌的といえるなにかを見いだすことができるのか。
そう考えた。

Date: 5月 10th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・「含羞」)

「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」というマンガがある。
1990年代に週刊誌モーニングに連載されていた。
曽根富美子氏が作者だった。

この「含羞」が読みたくてモーニングを購入していた、ともいえるし、
単行本になるのが待ち遠しかった。

タイトルからわかるように、中原中也、小林秀雄が、
この物語の中心人物であり、ここに長谷川泰子が加わる。

これは読み手の勝手な想像にすぎないのだが、
「含羞」を描いて、作者は燃え尽きた、というよりも、精根尽き果てたのではないか、
そんな感じを受けた。

これは文字だけでは表現できない世界であり、
同じ絵であっても、動く絵のアニメーションよりも動かぬ絵のマンガゆえの表現だとも思う。

ここで描かれているのは、少し事実とは違うところもある。
それをわかったうえで読んで、小林秀雄に対する印象が、私の場合、大きく変化した。
そうだ、このひとには「乱脈な放浪時代」があったことも思い出した。

「含羞」は残念なことに絶版のままである。

Date: 5月 10th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その4)

「音楽談義」をきいていると、どうしてもいろんなことを思い考えてしまう。

「人は大事なことから忘れてしまう。」

これは2002年7月4日、
菅野先生と川崎先生の対談の中での、川崎先生の発言である。

残念なことに、ほんとうに人は大事なことから忘れしまう。
最近のステレオサウンドを見ていても、そう思ってしまう。

そう書いている私だって大事なことから忘れてしまっているのかもしれない。
そう思うから、毎日ブログを書いているのかもしれない。
大事なことをわすれないために、である。

別項でも書いているのだが、
ステレオサウンドの現編集長は、創刊以来続く、とか、創刊以来変らぬ、がお好きなようである。

でも大事なことから忘れてしまっているからこそ、創刊以来変らぬ、といえるのだろう。
大事なことを忘れずにいようとしていたら、そんなことはとてもいえない。

「音楽談義」は、他のオーディオ雑誌に掲載されたわけではない。
ステレオサウンド 2号に載ったものだ。

「音楽談義」そのものも忘れてしまっているのだろうか。
そんなふうに思えてしまう。

Date: 5月 9th, 2015
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(続Devialetのケース)

デジタル技術が高度になればなるほど、サポートは、輸入元にとって無視出来ない問題となってくるはず。

いま家電量販店のスマートフォン売場をみていると、
設定サービスの料金表が大きく、目につくように貼り出されているところがほとんどということに気づく。

アドレス帳移行、メール設定、twitter設定、Gmail設定、パソコン同期設定、OSのヴァージョンアップ……、
まだまだこまかくいろいろとある。
それぞれに当然だけれど、価格が設定されている。
大半が1000円で、その上が1500円くらいである。
すべての設定をまかせてしまうと、けっこうな金額になってしまう。

それでもいろんな家電量販店がこれらのサービス(といえるのか)をやっているのは、
それだけの需要があり儲けとなるからなのだろう。

こんなのを見ていると、
これからのオーディオも似たようにものになっていくのであろうか、と想像してしまう。

パソコンとの接続サービス、OSのヴァージョンアップ・サービス、
アプリケーションのヴァージョンアップなどをはじめ、
あらゆることでこまかく料金が設定されていくのだろうか。

そんな輸入元も出てくるであろう。
そうはなってほしくない、と思っている。
けれど、これからますますパソコン、タブレットなどとの連携が深まっていくデジタルオーディオ機器、
それも自社開発ではなく海外製品の輸入であった場合、
輸入元の負担は製品によって違ってくるとはいえ、たいへんになっていくのは間違いない。

それでも輸入元なのだから、すべてをしっかりサポートしなければならない、というのは、
無理を押し通すようなものではないのか。

輸入元が、大手の家電メーカーのように全国にセービスセンターをもてる規模であるならば、
要求もできようが、実際にはそうではないし、
大手の家電メーカーですらサービスセンターを閉鎖して縮小している。

これはオーディオ販売店との密接な協力関係を築いていくしかないのではないか。
特約店の数を絞ってでも、きちんとサポート出来る販売店スタッフを増やしていく。
輸入元がたんなる輸入代理店ではなく輸入商社であるためには、
オーディオ販売店をふくめたシステムをつくっていくことではないのか。

Date: 5月 9th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その3)

「音楽談義」には小林秀雄氏と五味先生の「対談」(あえて対談としたい)だけでなく、
五曲のSP盤復刻による音楽もふくまれている。

R.シュトラウス指揮ベルリン・フィルハーモニーによるモーツァルトの交響曲第40番の第一楽章の一部、
エルマンによるフンメルのワルツ イ長調、
ハイフェッツ、チョツィノフによるサラサーテのチゴイネルワイゼン、
クライスラー、ブレッヒ指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団とによるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、
フーベルマンとシュルツェによるメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ピアノ伴奏、第三楽章縮小版)、
フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニーによるワーグナー「ジークフリートの葬送行進曲」、
これらが聴ける。

最初にかかるのはモーツァルトのト短調である。
「音楽談義」を最初に聴いた1987年では確信がもてなかったことがある。
あまり気にもしていなかったということもある。
けれど、ステレオサウンド 100号の特集「究極のオーディオを語る」、
ここで岡先生の文章を読んで、やっと気がついた。

《僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。》
小林秀雄氏の「モオツァルト」である。

このとき小林秀雄氏が聴いていたレコードが、
リヒャルト・シュトラウスがベルリン・フィルハーモニーを振ったものである。

岡先生は、なぜかという理由について、こう書かれている。
     *
「道頓堀を歩いていたら、突然『ト短調のシンフォニー』の終楽章の出だしのテーマが頭の中で鳴った……」という、あの有名な書出しで、彼の聴いたレコードはリヒャルト・シュトラウスがベルリンフィルを振ったものらしいことがわかる。なぜかといえば、昭和22年に入手出来たこの曲のレコードはシュトラウス盤とワルター盤で、ワルターとベルリンシュターツカペレによる日本コロムビア盤は出だしの1小節めで始まるヴァイオリンのテーマが全然聴こえない。2小節めから、まずチェロとコントラバスが2分音符を、1拍遅れて第2ヴァイオリンとヴィオラが3連4分音符を奏するが、2小節目後半でいきなりヴァイオリンが聴こえてくる。
 もし、小林がワルターの演奏で聴いていたら、『ト短調シンフォニー』終楽章の出だしのテーマの冒頭は聴くこともできなかったし、頭の中で鳴ることもなかっただろう。
     *
小林秀雄氏は「終楽章の出だしのテーマ」とは書かれていない。
「有名なテエマ」とだけあるが、新潮文庫の「モオツァルト・無情という事」を開けば、
終楽章であることがすぐにわかる。

小林秀雄氏の頭の中で鳴っていたのは、シュトラウスの演奏だったのか……、
とステレオサウンド 100号を気づかされた。

だからちょっと残念なのは、「音楽談義」では終楽章はおさめられていないことだ。

Date: 5月 9th, 2015
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(Devialetのケース)

フランスのDevialet(デビアレ)の輸入元は現在ステラだが、六月いっぱいで契約終了となる。

このニュースを見て、驚く人もいれば、私のように「またか、やっぱりな」と思う人もいよう。
なぜ「またか、やっぱりな」と思った理由についてはまだ書かないけれど、
デビアレは注目していたブランドだけに次の輸入元が早く決ってほしい、と思う一方で、
もしかするとなかなか決らないのではないか……、そうも思っている。

オーディオにデジタル技術が採り入れられるようになってきて、
輸入元の仕事は、アナログ技術だけだった時代よりも大変になってきていると想像できる。

まだCDプレーヤーだけだった時代はよかった。
いまはオーディオ機器以外との接続を要求するモノが登場してきている。
そのため輸入元の負担は確実に増えているはずである。

これまではその製品についてのサービスだけで済んでいたのが、
どういう機器とどういう接続なのか、
その機器のOSの種類、ヴァージョンなど、ユーザーによってひどく違ってくる要素が入りこんでいる。

しかもそれらを使う人の技倆も、またひとそれぞれであるから、
最新の機器を使っているから技倆が高いとはいえない。

しかも使っている人の性格もまた人それぞれである。
こんなことをこまかく書いていったらキリがない。

とにかくパソコンやタブレット、スマートフォン、および周辺機器との接続が求められるオーディオ機器の場合、
そのサポートは大変なことは明白である。
しかも以前のオーディオ機器はハードウェアだけだった。
いまは違う、ソフトウェアの問題もそこに絡んでくる。

オーディオ機器もソフトウェアのヴァージョンアップが当り前になりつつある。
そういう時代に、手のかかるブランド(オーディオ機器)を取り扱うところがすぐにあらわれるだろうか。
そう思ってしまうのだ。

早く次の輸入元が決ってほしい、と思いつつも、
もしかすると……、という不安もまたある。

Date: 5月 8th, 2015
Cate: BBCモニター, PM510

BBCモニター、復権か(LS5/8の復刻・その8)

グラハムオーディオのLS5/8は、ほぼ間違いなくロジャースのPM510ではなく、
チャートウェルのPM450に近い音を出すであろう。

でも、そのことをあれこれ考えて、というよりも、
グラハムオーディオのLS5/8の写真を見た時からわかっていたことかもしれない。

チャートウェルのLS5/8の別の型番はPM450Eであり、
そのパッシヴ型(LSネットワーク仕様)がPM450であるわけだが、
チャートウェルの、このふたつのスピーカーは、実はフロントバッフルの仕上げが違う。

LS5/8はプロフェッショナル用ということもあって、黒の塗装仕上げ、
PM450はグラハムオーディオのLS5/8と同じようにツキ板仕上げである。
PM450は、ウーファーの水平方向の指向特性を改善するために、
ウーファーをフロントバッフルの裏側から取り付け、開口部を丸ではなく矩形にしているのに対し、
グラハムオーディオは矩形ではなく丸である。

ロジャースのモノも初期の製品では矩形だったが、すぐに丸に変更になっている。
ただしいずれもウーファーはフロントバッフルの裏から取り付けている。
つまりウーファーのフレームが露出しておらず、
この部分からの輻射の影響を抑えている。

チャートウェルのPM450の写真は、ステレオサウンド 62号掲載のオーディオクラフトの広告で見れる。
当時のオーディオクラフトの社長であった花村圭晟氏は、チャートウェルのPM450を、
「完全に私の好み」と表現されている。

花村氏のPM450は本来別の人のモノだったが、無理をいって借りて鳴らされていた。
広告にはこう書いてある。
     *
私は森田さんのお宅に伺うたびに、ほれにほれ込んで……といっても絶版ではどうにもなりませんしね。ロジャースの510が登場した時はしめたとばかりに飛びついたんですけどね。しかしオーディオは面白いもんでして、作る人間が変ると同じような技術でも音が違うんですね。確かに同じ系列のスピーカーシステムなんだけど、私はほれた女が悪かった。良すぎたんですね。結局510は現在お蔵入り……。510もいいスピーカーなんですけどね。
     *
花村氏はグラハムオーディオのLS5/8を聴かれたら、なんといわれるだろうか。

Date: 5月 8th, 2015
Cate: BBCモニター, PM510

BBCモニター、復権か(LS5/8の復刻・その7)

頼りになるのは瀬川先生の文章である。
ステレオサウンド 56号でのPM510の記事、
それからステレオサウンド 54号の特集でのLS5/8の試聴記がある。
     *
 たまたま、自宅に、LS5/8とPM510を借りることができたので、2台並べて(ただし、試聴機は常に同じ位置になるように、そのたびに置き換えて)聴きくらべた。LS5/8のほうが、PM510よりもキリッと引緊って、やや細身になり、510よりも辛口の音にきこえる。それは、バイアンプ・ドライヴでLCネットワークが挿入されないせいでもあるだろうが、しかし、ドライヴ・アンプの♯405の音の性格ともいえる。それならPM510をQUAD♯405で鳴らしてみればよいのだが、残念ながら用意できなかった。手もとにあった内外のセパレートアンプ何機種かを試みているうちに、ふと、しばらく鳴らしていなかったスチューダーA68ならどうだろうか、と気づいた。これはうまくいった。アメリカ系のアンプ、あるいは国産のアンプよりも、はるかに、PM510の世界を生かして、音が立体的になり、粒立ちがよくなっている。そうしてもなお、LS5/8のほうが音が引緊ってきこえる。ただ、オーケストラのフォルティシモのところで、PM510のほうが歪感(というより音の混濁感)が少ない。これはQUAD♯405の音の限界かもしれない。
 いずれにせよ、LS5/8もPM510も、JBL系と比較するとはるかに甘口でかつ豊満美女的だ。音像の定位も、決して、飛び抜けてシャープというわけではない。たとえばKEF105/IIのようなピンポイント的にではなく、音のまわりに光芒がにじんでいるような、茫洋とした印象を与える。またそれだから逆に、音ぜんたいがふわっと溶け合うような雰囲気が生れるのかもしれない。
(ステレオサウンド 56号)

最初のモデルにくらべると、低音域を少しゆるめて音にふくらみをもたせたように感じられ、潔癖症的な印象が、多少楽天的傾向に変ったように思われる。しかし大すじでの音色やバランスのよさ、そして響きの豊かになったことによって、いわゆるモニター的な冷たさではなく、基本的にはできるかぎり入力を正確に再生しながら、鑑賞者をくつろがせ楽しませるような音の作り方に、ロジャース系の音色が加わったことが認められる。低音がふくらんでいる部分は、鳴らし方、置き方、あるいはプログラムソースによっては、多少肥大ぎみにも思えることがあり、引締った音の好きな人には嫌われるかもしれないが、が、少なくともクラシックのソースを聴くかぎり、KEF105IIの厳格な潔癖さに対して、やや麻薬的な色あいの妖しさは、相当の魅力ともいえそうだ。
(ステレオサウンド 54号)
     *
54号の試聴記で最初のモデルと書かれているのはチャートウェルのPM450E(LS5/8)のことである。
ここでチャートウェルのLS5/8には潔癖症な印象があり、
それがロジャース版では楽天的傾向になり、
さらにPM510では享楽派となっていたことが読みとれる。

チャートウェルとロジャースでは、音が違う。
とはいえLS5/8というBBCナンバーで発売するスピーカーシステムであるのだから、
ロジャース版の開発を担当したリチャード・ロスも、そこから大きく逸脱することはしなかった──、
そう思えるし、そんな縛りのないPM510では、より積極的であったようにも読める。

つまりPM510ならではの、あの音の世界はリチャード・ロスによる独自の音の世界だとわかる。
ロジャースのLS5/8は聴く機会があった。
PM510と直接比較ではなかったけれど、たしかに瀬川先生が書かれているとおりの音の違いがあった。

そうなるとグラハムオーディオのLS5/8に、PM510の音の世界は、あまり期待しない方がいいだろう。
グラハムオーディオの開発スタッフの写真は見ていると、
そこにリチャード・ロス的雰囲気の人はいない。

Date: 5月 8th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(正確な音との違い・その3)

小林秀雄講演【第六巻】 音楽について」についてくる小冊子の最後に但し書きがある。
     *
この小冊子に活字で所載した小林秀雄氏の談話要旨は、あくまでも誌の談話内容を聴き取るうえでの参考資料です。生前、氏は、自らの講演・対談・講義・スピーチ、それらの活字化を求められた際には必ず速記に全面加筆を施し、自らの加筆を経ない速記の公表は厳しく禁じていました。今回ここに所載した要旨は、編集部の手による文字化に留まるもので氏の加筆を経ておりません。したがって、この要旨を論文、エッセイ等に引用することはご遠慮下さるようお願いいたします。
     *
こう書いてあっては、引用もしづらい。
それに「小林秀雄講演【第六巻】 音楽について」は、いまも入手できるものだから、
読みたい方は買えば読めるのだから、ここでは簡単にどの箇所なのかについて簡単にふれるだけにする。

ステレオサウンドの「音楽談義」では「温泉場のショパン」とつけられている箇所、
「小林秀雄講演【第六巻】 音楽について」では二枚目のCDの11トラックである。
ステレオサウンド 2号、「直観を磨くもの」では、
ラジオからショパンのマズルカが流れてきたときのことを語られている箇所である。

ここのところに、関心をもった人は小林秀雄氏の語られているものをきいてほしい、と思う。
私はここをきいていて、「目に遠く、心に近い」を思い出していた。

Date: 5月 8th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(正確な音との違い・その2)

正しい音と正確な音の違い。
「音楽談義」をきいていて思い出したことがある。

インドネシアのことわざらしいのだが、「目に遠く、心に近い」、これを思い出していた。
オーディオではさしづめ「耳に遠く、心に近い」となる。

正しい音と正確な音──、
「耳に遠く、心に近い」音と「耳に近く、心に遠い」音となるのではないのか。