Archive for 2月, 2015

Date: 2月 2nd, 2015
Cate: 同軸型ウーファー

同軸型ウーファー(その3)

次に考えたのは、小口径ウーファーの周囲を大口径ウーファーで取り囲むように配置する、だった。
4インチ口径のウーファーのまわりに、8インチ口径もしくは10インチ口径のウーファーを複数配置する。

10インチならば、4インチの上下左右に、計四発配置する。
8インチならば六発くらい周囲に配置する。
いわば仮想同軸的配置である。

これも10インチと4インチの組合せだと、かなりおおがかりになる。
8インチと4インチでは、口径差がそれほどない。
なにかバカげている気がしてくる。
うまくいきそうにもない。
でも実際にやってみないと結果はなんともいえないのはわかっているのだが……。

もう一度考えたのは、最初の案である。
昔、ワトソン・オーディオのModel 10というスピーカーシステムがあった。
このモデルの最大の特徴は、ウーファーのエンクロージュア内にヘリウムガスを充填していることだった。

ヘリウムガスの音速は、空気の1/3程度。
ということはエンクロージュアの容積はヘリウムガスを充填することで27倍に相当する、というものだった。

そんなにうまくいくのかどうかは、私は音を聴いたことがない(実物も見てない)ためなんともいえないが、
確かにメーカーのいうように、驚くような低音が鳴っていた、らしい。
ただし新品の時だけであり、次第にヘリウムガスが抜けていき、ふつうのスピーカー並の低音になるそうだ。

どんなにエンクロージュアの密閉度を高めても、スピーカーユニット側から抜けていく。
振動板のところ、エッジから少しずつガスは抜けていくわけだ。

だが同軸型ウーファーの実験には必要な時間くらいはおそらくもつであろう。
そうであれば大口径ウーファーの前に小口径ウーファーを配置する。
小口径ウーファーのバックキャビティは200mlぐらいしか確保できないとしても、
ヘリウムガスを充填することで、計算上は5.4literになる。
これならば、なんとか工夫することで実験できるのではないか。

Date: 2月 2nd, 2015
Cate: 同軸型ウーファー

同軸型ウーファー(その2)

まず考えたのは小口径ウーファーと大口径ウーファーを組み合わせた同軸型ウーファーである。
それならば何も同軸型にすることなく、
大口径ウーファーと小口径ウーファーに同じ帯域を受け持たせればいいのではないか。
そう思われるかもしれない。

それでもなんらかの効果は得られるだろうが、
私が、わざわざ複雑な構造の同軸型にしてまで欲しているものは、
どうもそれでは得られないような気がしている。

技術的な根拠が特にあるわけではない。
あくまでも直感にすぎないのだが、
小口径と大口径のウーファーを組み合わせるのは、
大口径ウーファーのもつ、特有の欠点をなくしたいと考えるからである。

15インチ口径のウーファーがある。
そのセンターに4インチ口径ほどのウーファーを同軸上にもってくる。
これが最初に考えた構造である。

それならば15インチ口径ウーファーの前面にフレームをわたして、
そこに4インチ口径のウーファーを取り付ければ、簡易的ではあったも実験できるのでは? となる。

けれどこの構造では4インチ口径のウーファーの背面の音をどう処理するかが問題になる。
バックキャビティを持たせてしまうと、15インチ口径ウーファーの前面を覆い隠してしまう。
これでは無理である。

Date: 2月 2nd, 2015
Cate: 広告

広告の変遷(ARの広告)

1970年ごろのアコースティックリサーチ(AR)の広告には、演奏家が登場している。
マイルス・デイヴィスジュディ・コリンズ、それにヘルベルト・フォン・カラヤンが、
ARのスピーカーシステムを自宅で使っている、と広告にはある。

この手の広告のやり方は昔からあり、ほかの会社もやっている。
同時期、アルテックの輸入元であったエレクトリは、渡辺貞夫の自宅の写真を掲載、
そこにはアルテックのMalagaが置かれていた。

以前は、この手の広告は、あくまでも広告だから、という感じでしかみてなかった。
真剣に受けとめることはしていなかった。

けれど、カラヤンにしてもマイルスにしても、ジュディ・コリンズ、渡辺貞夫にしても、
すでに著名な演奏家である。
つまりARが、彼らの知名度を広告として利用しているわけで、
そこにはなんからの謝礼が生じているのであろうが、
それでもマイルスにしてもカラヤンにしても、
ARのスピーカーシステムに良さを見出していたからこそ、ではないのか。

そう思いはじめると、
一度はカラヤンのこのころのアナログディスクは、ARのスピーカーシステムで聴いてみたい、
そう思うようになってきた。

カラヤンが、このころどういうシステムを使っていたのかはわからない。
ARの、シンプルなフロントパネルのプリメインアンプとアナログプレーヤーだった可能性もある。
トーンアームはSMEの3009で、カートリッジはシュアーだったのだろうか。

少なくともカラヤンはARのスピーカーで、発売されている自分のレコードを聴いていた、と考えられる。
そして、どれだけ満足していたのかはわからないものの、
決して大きな不満はなかったからこそ、ARの広告に登場したのだろう。

ARのシステムで聴くカラヤンが最上のカラヤンの再生ではないけれども、
少なくとも標準となるカラヤンの再生といえるのかもしれない。

Date: 2月 1st, 2015
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その3)

付加価値の付加とは、付け加えられる、付け加えられたという意味である。
ある製品が完成した後に付け加えられた価値が、付加価値ということになるのか。

さらには付け加えられた価値であるのならば、
その価値を不要とする使い手が取り除くことができる価値なのだろうか。

私にとって、(その2)で挙げたJBLのHarkness、トーレンスのTD224、そのほかの機種から、
岩崎先生が使われていたモノということは取り除くことはできない。

傍から見れば、岩崎先生が使われていたスピーカー、アナログプレーヤー、カートリッジといったことは、
付加価値であると思っていたとしても、私にとっては付加価値ではない、という気持が強いのはそのためである。
取り除けない価値は、付加価値ではないはずだ。

では、タンノイのオートグラフにとって、五味先生が鳴らされていたということは付加価値になるのか。
私には、ここがやや微妙になってくる。

毎月第一水曜日に行っているaudio sharing例会をはじめたばかりのころ、
来られた方がいわれた。
オートグラフは五味康祐氏が鳴らしていたから特別なスピーカーではない。
そういうこととは関係なしに特別なスピーカーなのだ、と。

これは至極まっとうな意見である。
そうわかっていても、私にとってタンノイ・オートグラフは、
どこまでいっても五味先生がもっとも愛用されたスピーカーということで、特別な存在なのである。

つまり私にそう言われた人にとって、
五味先生が鳴らされていたいたことはオートグラフにとっての付加価値ではない、ということであり、
私にとっては付加価値以上の意味をもつことになる。

そしてその人と私のあいだに、五味先生が愛用されていた、ということが付加価値となって、
オートグラフを見ている人もいるはずだ。

Date: 2月 1st, 2015
Cate: アクセサリー

オーディオ・アクセサリーとデザイン(その1)

デザインとデコレーション。
デコレーションとは装飾である。
装飾品はアクセサリーである。

オーディオにもいくつものアクセサリーが存在する。
ケーブルもそのひとつだし、インシュレーター、スタビライザー、クリーナー、その他多くのジャンルのモノが、
いまオーディオ・アクセサリーとして流通している。

オーディオアクセサリーは音元出版の季刊誌の誌名なので、
ここではオーディオ・アクセサリーと表記する。

以前はオーディオ・アクセサリーは地味な存在だった。
いわば陰の存在のようでもあった。
価格もそれほど高価なモノはほとんど存在しなかった。

スピーカーケーブルにしても、ほとんどのケーブルが1mあたり数百円だった。
そこにマークレビンソンのHF10Cが登場した。
1mあたり4000円だった。

ステレオサウンド 53号に瀬川先生が「1mあたり4千円という驚異的な価格」と書かれているくらい、
当時としては非常に高価なスピーカーケーブルであった。
いまでは安価なスピーカーケーブルということになってしまうけれども。
これが1979年だった。

1980年代の後半になって、朝沼予史宏さんがステレオサウンドの試聴室に、
マークボーランドという、初めてきくブランドのスピーカーケーブルを持ち込まれた。
長さは3mくらいだった。
朝沼さんによると、ペアで30万円ほどだということだった。

3mだとしよう。
HF10Cだと片チャンネル12000円、ペアで24000円。
マークボーランドのスピーカーケーブルはHF10Cの十倍ほどの価格である。

Date: 2月 1st, 2015
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その2)

オーディオ機器にとっての付加価値とはどういものがあるのだろうか。

いま私のところにはJBLのHarknessがある。
トーレンスのTD224、パイオニアのExclusive F3、EMTのTSD15、デッカのMarkVなどがある。
これらはすでに書いてきたように、岩崎先生がお使いだったモノだ。

その意味では付加価値があるオーディオ機器といえるわけだが、
ここでの付加価値はあくまでも私にとって、ということに限られるし、
付加価値とはいいたくない気持も強い。

岩崎先生の文章を読んできた読み手の一部にとっても、それは意味のあることで、
そういう人にも、岩崎先生のモノだったオーディオ機器ということは付加価値となるだろうが、
それを一般的な付加価値とは呼べない。

これに関することでいえば、このモデルは以前○○さんが使われていた、といわれるモノが市場に出ることがある。
仮に本当だとしても、すでに誰かの手にわたり、その人からまた別の人に、ということもある。

こういう場合にも、私にとって付加価値と同じ意味での付加価値があるといえるだろうか。
これは人によって違ってくることだろう。

あいだに何人かの人がいようと、そこに付加価値を認める人もいれば、
直接本人から譲ってもらったものでなければ、付加価値は認められない、という人もいる。

誰かが使っている(いた)ということは、付加価値になり得るのだろうか。
タンノイのオートグラフは五味先生が鳴らされていたスピーカーシステムである。
JBLの4343は瀬川先生、マッキントッシュのXRT20は菅野先生、
JBLのパラゴンは岩崎先生、ジェンセンのG610Bは長島先生、ボザークは井上先生……、
スピーカーシステムに限らず、アンプ、プレーヤーを含めるといくつもあげていける。

これは付加価値になるのか。
つまりはタンノイのオートグラフにとって、五味先生が鳴らされていた、ということは付加価値となるのか。