Archive for 11月, 2008

Date: 11月 15th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その2)

ドリームデザイナーと書いてあっても、川崎和男という人がどんな人なのかは、まったく知らなかった。
とにかく読んでいこう、この人の書くものは、すべて読んでいきたい、と思いながら、
毎月18日のMacPowerの発売日には、必ず書店に寄り買っていた。

読んでいくうちに、すこしずつわかってくる。
川崎先生についても、Macのこと、コンピューターのことについても。

連載1回目から読んでいたわけではない。
だから単行本になるのを待っていた。1994年に「デジタルなパサージュ」が出た。

そして、乃木坂にあるギャラリー間で、個展を開催されると、「Design Talk」に書いてあった。
しかも、草月ホールで、講演会も行なわれる。

ギャラリー間と草月ホールのあいだは歩いて移動できるので、
講演会のある日の午前中、「プラトンのオルゴール」展に行った。

ギャラリーのあるビルに着くと、ビルの大きさからしてそれほどスペースは広くないことがわかる。

エレベーターを降りて、ギャラリーの入口の前で、立ち止まってしまったことを、
いまでもはっきりと憶えている。
そのスペースに入るのに、覚悟が要るというのも、変な言い方に聞こえるだろうが、
そう思った。引き返そうかとも思っていた。

Date: 11月 15th, 2008
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その20)

スピーカーユニットに、+(プラス)の信号が加わると、
振動板が前に動こうとすると、フレームがその反発を受けとめる。

大砲から弾が発射されるとき、砲身が後ろに下がるのと同じで、
振動板が前に動く(作用)には、かならず反作用が発生する。
その反作用はフレームを振動させ、振動板が前に動き出して音を放出するよりも先に、
振動板まわりのフレームから音を出している。
その振動は、エンクロージュアにも伝わり、側板、リアバッフル、天板、底板を鳴らす。

フレームから先に音が出ることは、1980年代に、ダイヤトーンが測定で捉えている。

その反作用は、振動板のマスに比例する。
ドーム型やコーン型のダイレクトラジエーターよりも、
コンプレッションドライバーのほうが大きいだろう。

平面型のスピーカーユニットでも、日本とアメリカでは異ることを書いた。

薄いフィルム状の振動板だと、日本のメーカーが採用したハニカム振動板よりも、
磁気回路、フレームに与える反作用が相当に小さいのは、容易に想像がつく。

トランジェント特性のよさを追求していても、コンプレッションドライバーとでは、
もちろん、フィルム状振動板の方が圧倒的に小さいだろう。

フレームが受ける反作用が小さければ、
フレームを介してエンクロージュアに伝わる振動も比例して減っていく。

このことは、スピーカーシステムとしてまとめられたときに、
大きな違いとして形態に現われてくる。

Date: 11月 15th, 2008
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その19)

実は、一度、ある真空管アンプの輸入商社の担当の方に訊いたことがある。
「ノイズの多さを、設計者は気にしないのか」と。
返ってきた答えは、予想していたとおりのもので、
「彼らが使っているスピーカーは能率が低いですから、気にならないんです」と。

ひとつことわっておくが、この時代、CDはまだ登場していなくて、
アナログディスクが、メインのプログラムソースだったため、
ここで言うノイズは、フォノイコライザーアンプとラインアンプのノイズの加算されたものである。

その答えも理解できなくはない。
ノイズが質や出方が同じで、SN比だけが異る(そんなことはありえないが)のならば、
スピーカーの能率次第で、気にならなくなるだろう。
しかし、前述したように、楽音に粒子の小さな砂が混じっているようなノイズの出方では、
スピーカーの能率の高低で、気にならなくなるということはない。

当時は、それ以上、訊かなかったし、自分なりの結論を出すこともできなかったが、
いまは、スピーカーの能率よりも、スピーカーの形態そのものの違いによるものだと思っている。

Date: 11月 15th, 2008
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その18)

現在のコントロールアンプだと、S/N比向上にともない、
聴感上のノイズが気になることはあまりないのかもしれない。

アメリカから新興ブランドの真空管アンプが登場したころは、トランジスターアンプでも、
能率の高いスピーカーや近接距離での試聴では、ノイズの出方に注意が行く。

レコードに針を降ろしてボリュームをあげ、音が出るまでのわずかな時間のノイズ、
音楽がピアニシモになったときのノイズの出方はさまざまで、
サーッとワイドレンジで、ホワイトノイズのように広い帯域に分布しているものもあれば、
比較的に耳につきやすい中高域にシフトしているもの、ザーッという感じのもの、
へんな言い方だが、ノイズが左右にきれいに広がり、
バックグラウンドノイズと言いたくなるものもあれば、
ふたつのスピーカーのセンター付近に定位するものもある。

測定上のSN比とは別に聴感上のSN比がいいものは、音楽が鳴り出すと、
ノイズは、楽音と混じりあわない。
けれど、なかには砂をまぶしたように、楽音に絡みつく類のノイズを出すアンプがある。

測定上は同じ値のSN比でも、後者のアンプは、ノイズが耳についてしまう。

砂をまぶしたようなノイズも、砂の粒子がいろいろで、
やはり粒子が小さくなり、しかも乾いてさらさらしているならば、
粒子が大きく湿ってジャリジャリした感じのものよりも、ずいぶんいい。

粒子が小さくて、乾いてさらさらしている感じのノイズを、
新興ブランドの真空管のコントロールアンプに共通してあるように感じていた。

Date: 11月 15th, 2008
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その17)

アメリカでも、オーディオリサーチ、ダイナコが真空管アンプをつくり続けていた。
とはいえ、アメリカの新興ブランドの真空管アンプと、
真空管アンプ全盛時代のマランツ、マッキントッシュ、QUAD、リークといったブランドのそれらとは、
あきらかに技術の断絶がある、と言いたい。

トランジスターは小信号用も含めて、基本的には電流増幅素子である。
一方、真空管は、出力管もそうだが、電圧増幅素子と考えたほうが良い。
つまり回路全体のインピーダンスが大きく異る。

それから真空管にはヒーター(フィラメント)が必要不可欠で、熱も出す。
機械的な電極から構成され、外側を被っているのは、金属もあるが、大半はガラスだ。
サイズも、トランジスターと比較するとそうとうに大きい。

回路構成も重要だが、真空管の取りつけ方法、それから向き、配線の引き回しなど、
コンストラクションに関して、トランジスターとは、また違う注意が必要になるのに、
技術の断絶からか、トランジスターと同じように扱っているという印象を、
個人的に、新興ブランドの真空管アンプに対して持っている。

もっとも、従来の真空管の使い方にとらわれないから、
従来の真空管アンプとは異る、
そして最新のトランジスターアンプとも違う魅力を持っているのは、確かにそうである。

Date: 11月 14th, 2008
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その7)

ステレオサウンドで連載されている菅野先生の「レコード演奏家訪問」、
この企画の前身にあたる「ベストオーディオファイル」の対談のまとめを担当していたときがある。
どの号に載っているのかは忘れてしまったが、交通事故に遭われた方との菅野先生の対談は、
いまオーディオの効能性を考えるにあたって、私の中では継がっている。

その方はひどい交通事故に遭われて、医者からも「そんなに長くない」と言われ、
実際、後遺症がひどくて、風で髪の毛がなびいただけでも、全身に強い痛みが走り、
ものすごい強い痛み止めの薬を(医者からは一日の量が決められていたにもかかわらず)、
家中、それこそトイレの中にまで痛み止めの薬を置いて、
制限量などまったく無視して服用しなければ、がまんできないほどの痛みに悩まされていた。

そういう日々をおくっていたら、ある日、
ある医者に「最近はCDという便利なものが出ていて、比較的簡単にいい音がきけるから」と
オーディオをすすめられて、毎日毎日モーツァルトのオペラを中心に、
CDプレーヤーのリピート機能を使って、一日中聴く生活をはじめられた。

モーツァルトを聴き続けているうちに、知らず知らずのうちに薬を飲む量が減ってきて、
菅野先生が訪問されたときには、ほとんど服用しなくてもいいくらいに回復されていた。

ステレオサウンドの80号前後に載っているはず。
手元にその号をお持ちなら、ぜひ読みなおしていただきたい。

オーディオの持つ効能性だと、私は思っている。

Date: 11月 14th, 2008
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その6)

2000年ごろの資生堂発行の「花椿」に、
資生堂の研究所が、肌に心地よい刺戟を与えると、免疫力が活発になることを発見した、
という短い記事が載っていたのをしっかりと憶えている。

肌に心地よい刺戟……。
いろいろあると思う。
肌の触れ合いやマッサージもそうだろうし、それこそ男女の営みもそう。
もちろん、いい音楽をいい音で聴くという行為(ヘッドフォンではなく、スピーカーで)も、
肌への心地よい刺戟となっているはずだ。

菅野先生が、ジャーマン・フィジックスのトロヴァドールを導入されたときの音、
何度も菅野先生の音を聴かせてもらっているが、それまでの音といちばん異っていたのは、
皮膚感覚に訴えてかけてくる感触だった。音を浴びているといってもいいかもしれない。

その日は、5月にしてはかなり暑い日で、たまたま半袖姿だったので、
肌が露出している両腕、顔が受けている刺激は、いままで体験したことのない心地よいものだった。

菅野先生の肌艶がいいのもうなずける。

音楽療養師という仕事がある。
実際に見たことがあるが、その仕事は、患者が歌をうたったり、楽器を演奏することでリハビリを行なうもの。

脳血管障碍の合併症としての、
失語症(自分の考えている言葉がスムーズに出てこない、もしくは思っている言葉と違う言葉が出てしまう)でも、
話す言葉の中枢と歌うときの中枢は異るようで、
流暢にカラオケで歌うことができ、その表情は生き生きとし、
話せないことによるストレスが、歌うことで解消されると聞いている。

またリハビリの時、痛さを少しでも紛らわせるために、BGMとして、
クラシックに関心のない人でも、耳にしたことのある曲を流しているところもある。

ただ、どちらも積極的に音楽を聴くことによる療養ではない。
病院というシステムの中で、音楽を聴かせるためだけのスペースを確保し、
そのための装置を用意して、しかも調整して……、ということは、まだまだ望めないことだろう。

けれど、いつかそういう日が来てほしいし、そうあってほしい。
そう思うのには理由がある。

Date: 11月 14th, 2008
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その5)

個々のオーディオ機器が持つ効能性、オーディオそのものが持つ効能性がある。

オーディオ機器の効能性といっても、なかなか定義し難い。
ひとつ言えるのは、効能性を語るには、機能性、性能性について語っておくべきだということ。
機能性、性能性を把握したうえで、何ができるようになったのか、ではないだろうか。

どれだけよくなったとか、これだけ素晴らしい音がするといったことから一歩踏み込んでところでの、
どんなことが可能になり、どんなことをもたらしてくれるのか。

これから先、ハードウェア、ソフトウェアとも、
デジタル技術がますます導入されるのは間違いないこと。
プログラムソースの形態も変りつつある。
コントロールアンプの形態も、必然的に変っていく。

これから機能性を語ることが重要視されるだろうし、
効能性への言及も求められると思っていいだろう。
というよりも、求められなくとも、自ら語っていくべきだと思っている。

ただ、すべてのオーディオ機器について、効能性を語れるかというと、そうでないものもある。

Date: 11月 14th, 2008
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その4)

機能性・性能性・効能性を語ることは、
オーディオそのものについてだけでなく、個々のオーディオ機器に関しても、そうしていきたい。

新しく登場したオーディオ機器が、どういう音を聴かせてくれるか、
もちろんそれがいちばん知りたいことであるが、やはりそれは性能性について語っているだけであり、
その機械のもつ特質を語るには、機能性についてもきちんと語っていく必要があると思う。

Date: 11月 14th, 2008
Cate: 情景, 言葉

情報・情景・情操(その1)

恥じらいのないその光は、素顔の隅々まであからさまにする──
かわさきひろこ氏は書かれている。

「あからさま」と「あきらか」とでは,明らかに、言葉の持つ意味合い、与える印象がはっきりと異る。

音の情報量をすこしでも精確に、すこしでも多く再生したいとのぞむとき、
恥じらいを失っていては、あからさまにしていくだけになりはしまいか。
恥じらいのない行為──、愛のない行為でもあろう。

川崎先生は、3つの言葉を掲げられる。
「いのち、きもち、かたち」もそうだし、「機能、性能、効能」もそうだ。

川崎先生に倣い、「情報」について考えるとき、あと2つの言葉を考えてみた。
ひとつは「情景」。これはすぐに出た。
もうひとつはなにか……。
しばらく考えて思いついたのは、「情操」だった。

他の言葉が、もっとぴったりはまるかもしれない。
だとしても、情報量について、これから書いていくとき、
「情報・情景・情操」をもとに考えていくつもりだ。

Date: 11月 14th, 2008
Cate: 単純(simple), 言葉

単純(シンプル)

芸術とは非大衆的な事柄である。しかも芸術は大衆に向かって語りかける。
不可思議なことは、最も単純なものは最も偉大な人によってのみ表現されるということ、
そして最も複雑なものは街路に転がっているということである。
偉大さとは魂のうちにある。
     *
フルトヴェングラーが1929年に語っている言葉である。

「単純」を、考え方が一面的であると捉えている人が少なくないように思う。
単純(シンプル)と原始的(プリミティヴ)をごっちゃにしていないだろうか。
考え方が一面的なことは、原始的(プリミティヴ)と呼ぶべきだろう。

否定的な意味合いで、単純(シンプル)という言葉を使うのは、
いつ終わりになるのだろうか。

Date: 11月 13th, 2008
Cate: 言葉

かわさきひろこ氏の言葉

石井幹子氏の言葉について書いたあと、しばらくして、そういえば、照明について、
やはり女のひとが書いている記事があったなぁ、と思い出し、
5年前、インプレス社から発行された、
2号のみの刊行で終ってしまった雑誌「desktop」をひっぱり出した。
引用しておく。
     *
真夜中、コンビニの無機質な光源むき出しの光に、私たちは虫のように集まっている。余剰すぎる明るさが、安心感すら与える。けれど、恥じらいのないその光は、素顔の隅々まであからさまにするから困ってしまう。
私たちは「明るい」、「まぶしい」には無頓着。その一方で「暗い」ことには過敏で神経質である。行為、行動を妨げる夜の暗闇は怖い、恐いとまで感じる。
(中略)
目に見えるはっきりとした明るい世界がすべてではない。
見えない、見渡せない、見通せない暗闇には、その隅っこや境界、限界をとらえることはできない奥深さや広がりがある。
     *
石井氏、かわさき氏の、光というよりも「あかり」に関する文章を読んでいると、
音の情報量について、きちんと考え直す必要があると思えてならない。

情報量は、ワイドレンジとも絡んでくるし、音量との関係も深い。
そして、もっとも大事なのは、音楽の聴き方そのものに大きく関わってくることだ。

情報量については、しばらくして書くつもりでいる。

Date: 11月 13th, 2008
Cate: Mark Levinson

Mark Levinson の日本語表記について

Mark Levinsonの日本語表記だが、
マークレビンソンとマーク・レヴィンソンと使いわけている。

Mark Levinson個人の表記は、マーク・レヴィンソンにしている。

ブランドのMark Levinsonは、R.F.エンタープライゼス時代には、ブランド表記は、マーク・レビンソンだったが、
現在の輸入元のハーマン・インターナショナルの表記に従い、マークレビンソンとしている。

これから先も何度か登場すると思うMark Levinsonだけに、ことわっておく。

Date: 11月 13th, 2008
Cate: 105, KEF, Mark Levinson, 現代スピーカー

現代スピーカー考(その19)

KEFの#105で思い出したことがある。
1979年前後、マークレビンソンが、開発予定の機種を発表した記事が
ステレオサウンドの巻末に、2ページ載っていたことがある。

スチューダーのオープンリールデッキA80のエレクトロニクス部分を
すべてマークレビンソン製に入れ換えたML5のほかに、
マランツ10 (B)の設計、セクエラのチューナーの設計で知られるリチャード・セクエラのブランド、
ピラミッドのリボントゥイーターT1をベースに改良したモノや、
JBL 4343に、おもにネットワークに改良を加えたモノのほかに、
KEFの#105をベースにしたモノもあった。

A80、T1(H)、4343といった高級機の中で、価格的には中級の#105が含まれている。
#105だけが浮いている、という見方もあるだろうが、
訝った見方をすれば、むしろ4343が含まれているのは、日本市場を鑑みてのことだろうか。

マークレビンソンからは、これと前後して、HQDシステムを発表している。
QUADのESLのダブルスタックを中心とした、大がかりなシステムだ。
このシステム、そしてマーク・レヴィンソンがチェロを興してから発表したスピーカーの傾向から思うに、
浮いているのは4343かもしれない。

結局、製品化されたのはML5だけで、他のモノは、どこまで開発が進んでいたのかすら、わからない。

なぜマーク・レヴィンソンは、#105に目をつけたのか。
もし完成していたら、どんなふうに変わり、
どれだけマークレビンソンのアンプの音の世界に近づくのか、
いまはもう想像するしかないが、おもしろいスピーカーになっただろうし、
#105の評価も、そうとうに変わってきただろう。

Date: 11月 12th, 2008
Cate: 挑発

挑発するディスク(その1)

黒田先生が、ステレオサウンドの59号に、
カラヤン指揮のワーグナーのパルジファルのレコードを聴き、
そこにおさめられている音楽・録音に挑発され、
それまでお使いだったコントロールアンプ(ソニーのTA-E88)に対して力不足を感じられ、
マークレビンソンのML7Lに買い替えられたことを書かれている。

ディスクが、聴き手を挑発する。

あるディスクに挑発され、システムの一部、もしくは全体を買い替えることになったとか、
それまでの調整(チューニング)の方向をまるっきり変えてしまうことになったとか、
そういう経験はないだろうか。

私にとっての「挑発するディスク」は、
パブロ・カザルス指揮マールボロ音楽祭管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲第7番。

1969年のマールボロ音楽祭のでのライヴ・レコーディングで、
発売はたしか1976年ごろ、
このディスクをはじめて聴いたのは、ステレオサウンドの試聴室で、1983年ごろだった。
サウンドボーイ編集長のO氏に教えてもらって、だ。

それまで使っていたスピーカーはロジャースのPM510。
とても気に入っていたし、手離したいまでも、ふと聴きたくなることもあるが、
カザルスのベートーヴェンに聴かれる、
つよい緊張感、音楽の生命力の漲る感じや尊さが、十分感じられるものの、
やはり基本的にグッド・リプロダクションのスピーカーであり、
ほんとうは、もっともっとヴァイタリティを終始持続した演奏のはずだという思いが、
拭いきれないまま聴いていた。

できれば、部屋に2組のスピーカーを置けるだけの余裕、
それと経済的な余裕があれば、PM510を手離さずにすんだのだが、
ハタチの若造には、どちらも無理なことだった。

そして選んだスピーカーは、シーメンスのコアキシャル・ユニットだ。
これを、サウンドボーイで製作した平面バッフル(縦1.8m×横0.9m)に取りつけ、
6畳弱の部屋に、聳え立たせていた。