オーディオの罠(その6)
以前別項で書いたことを思い出している。
こんなことを書いた。
己の知識から曖昧さを、できるだけなくしていきたい。
誰もが、そう思っているだろうが、罠も待ち受けている。
曖昧さの排除の、いちぱん楽な方法は、思いこみ、だからだ。
思いこんでしまえれば、もうあとは楽である。
この罠に堕ちてしまえば、楽である……。
このこともオーディオの罠といえるし、
オーディオに限ったことではない。
以前別項で書いたことを思い出している。
こんなことを書いた。
己の知識から曖昧さを、できるだけなくしていきたい。
誰もが、そう思っているだろうが、罠も待ち受けている。
曖昧さの排除の、いちぱん楽な方法は、思いこみ、だからだ。
思いこんでしまえれば、もうあとは楽である。
この罠に堕ちてしまえば、楽である……。
このこともオーディオの罠といえるし、
オーディオに限ったことではない。
(その15)に関連することで思い出すのは、スタートレックの映画である。
2009年からのリブートのスタートレックではなく、
1979年の「スタートレック」から続く映画のことだ。
四作目の「スタートレックIV 故郷への長い道」の監督は、
スポック役のレナード・ニモイだった。
五作目の「スタートレックV 新たなる未知へ」の監督は、
カーク役のウィリアム・シャトナーだった。
「スタートレックIV 故郷への長い道」はいい映画だった。
最後のシーンに、スタートレックのファンならば、うるっとくるものがあったはずだ。
「スタートレックV 新たなる未知へ」、だから期待していた。
がっかりしたことだけ憶えている。
当時は、四作目と五作目の違いについて、あれこれ考えることは特にしなかったが、
このテーマで書いていて、四作目は確かに映画だった。
五作目は映画だっただろうか。
テレビドラマの枠にとらわれてしまっていたのではないだろうか。
それゆえ映画館のスクリーンで観ていて、つらいと感じたものだった。
耳の記憶の集積こそが、オーディオである──、
なのだから、過去を物語として語れない時点で、
その人はオーディオを語れない、ともいえる。
二年前の(その5)を思い出したのは、
audio wednesdayで音を鳴らすようになったからだ。
(その5)で引用した伊藤先生の文章をもう一度。
*
孤独とは、喧噪からの逃避のことです。
孤独とは、他人からの干渉を拒絶するための手段のことです。
孤独とは、自己陶酔の極地をいいます。
孤独とは、酔心地絶妙の美酒に似て、醒心地の快さも、また格別なものです。
ですから、孤独とは極めて贅沢な趣味のことです。
*
一行目の《孤独とは、喧噪からの逃避のことです》、
喧噪からの逃避、そういえる音は出している、と自負している。
レスポンスのいい人というのはいる。
知人も、その一人といっていい。
共通の知人も、その知人のことを「彼はレスポンスがいいからな」と高く評価していた。
そのレスポンスのよさは、とくに同じ分野の先輩からは可愛がられるようだ。
だから、けっこうなことだ。
けれど、知人との長いつきあいで感じていたことは、
レスポンスのよさだけでは、あたりまえすぎることなのだが、
深みにも高みにも達することはできない。
レスポンスのよさで、あちこちに行けたであろう。
これもけっこうなことだと思っている。
あくまでもそれは平面での移動でしかなかった──、
そんな印象が残ってしまっている。
どういう訳か、近ごろオーディオを少しばかり難しく考えたり言ったりしすぎはしないか。これはむろん私自身への反省を含めた言い方だが、ほんらい、オーディオは難しいものでもしかつめらしいものでもなく、もっと楽しいものの筈である。旨いものを食べれば、それはただ旨くて嬉しくて何とも幸せな気分に浸ることができるのと同じに、いい音楽を聴くことは理屈ぬきで楽しく、ましてそれが良い音で鳴ってくれればなおさら楽しい。
(虚構世界の狩人・「素朴で本ものの良い音質を」より)
*
四年前の(その2)も、十年ほど前の(その1)も、同じ書き出しだ。
今年からaudio wednesdayは音を鳴らすようになった。
まだ二回だけだが、上に引用した瀬川先生が書かれていることの実践である。
まだまだだよ、といわれるかもしれないが、
このことはとても大切なことで、絶対に忘れてはならないことだ。
今日(2月12日)は、アリス・アデールのコンサートだった。
プログラムは、バッハの「フーガの技法」。
アリス・アデールの初来日が発表になってから今日まで、
ほんとうに待ち遠しかった。
アリス・アデールは今年79歳。
二時間弱の演奏を休憩無しだった。
途中、数回コップから水を一口含むだけ。
「フーガの技法」は未完なので、そこでぴたっと演奏は止った。
アリス・アデールの動きも止る。
だから拍手もすぐには起らなかった。
いい演奏会だった。
「フーガの技法」のあとだから、アンコールはない、と最初から思っていた。
なくていいと思っていたけれど、二曲のアンコール演奏。
バッハのゴールドベルグ変奏曲から第25変奏曲が聴けた。
アリス・アデールのバッハを、もっと聴きたい。
新たな録音は登場しないのか。
17日にも、また聴ける。
チケットはすべて売り切れている。
ここに書いていることを読んで、
コンデンサー型スピーカーへの電源供給を、
モバイルバッテリーが作り出すAC電源で、という人がいるのかはなんともいえない。
数人くらいはいるかもしれない。
その中には、PowerHouse 90一台で好結果が得られたのならば、
左右のスピーカーにPowerHouse 90を一台ずつ用意すれば、
バッテリー自体も長持ちするし、音もさらに良くなるのではないか。
そんなうふに考える人もいるかもしれない。
けれど、ほんとうにPowerHouse 90一台よりも二台のほうが好結果が得られるだろうか。
PowerHouse 90は60Hzの交流を供給できるが、
複数台使用にあたって、その60Hzを同期させることはできない。
それぞれ独立した60Hzが供給されるわけで、
そのことによる影響がないとは考えにくい。
仮になかったとしても、複数台使用であれば同期していたほうが精神的には好ましい。
なので3月6日のaudio wednesdayでは、一台のPowerHouse 90からの供給のままだ。
コンデンサー型スピーカーの動作原理を知ると、
この方式こそが、理想のスピーカーのありかたでもあるし、実現なのだ、という気がしてくる。
薄い振動膜は同容積の空気よりも軽かったりする。
その振動膜全面に駆動力が加わり、ピストニックモーションをしているわけだから、
一枚の振動膜で、ほぼ全帯域の再生が可能になる。
ウーファー、スコーカー、トゥイーターとユニットを帯域ごとに分割する必要性がない。
これまで素晴らしい変換方式は、他にないのではないか。
コンデンサー型スピーカーを知ったばかりのころ、そう受けとめていた。
それにマーク・レヴィンソンがHQDシステムの中核に、
QUADのESLをダブルスタックで採用したことも、このことに大きく影響を与えている。
やはりコンデンサー型スピーカーなのか──。
とはいえQUADのESLは3ウェイだった。
そこにハートレーのウーファーとデッカのトゥイーターを足しているのだから、
全体としては5ウェイという、そうとうに大がかりなシステムでもあった。
コンデンサー型スピーカーならばフルレンジ。
そんなふうにも考えていたところに、アクースタットのモデルが登場した。
ステレオサウンド 43号にAcoustat X、49号にMonitorが、
新製品紹介記事に登場している。
どちらも駆動アンプ搭載(管球式のOTL方式)で、
Acoustat Xは振動パネルが三枚、Monitorは四枚のモデルだった。
どちらもモデルも聴いてみたかったけれど、聴く機会はなかった。
アクースタットのコンデンサー型スピーカーを聴いたのは、
別項で何度も書いているように、
ステレオサウンド別冊「サウンドコニサー(Sound Connoisseur)」で取材だった。
1982年の初夏だった。
43号から五年経っていた。
《過去を大きな物語として語れる》人ばかりになりつつあるように感じるオーディオの世界。
過去への無知、怠慢、そして忘却が根底にあるのだろう。
でも過去への無知、忘却があるからこそ、仕事してではなく商売として成り立つのだろう。
「音で遊ぶ」オーディオマニアなのか、
「音と遊ぶ」オーディオマニアなのか。
そんなことを、別項にて以前書いた。
世間一般では「音で遊ぶ」人がオーディオマニアという認識かもしれないが、
私は「音と遊ぶ」人こそがオーディオマニアだと確信しているが、
だからといって、世の中のオーディオマニアのすべてが「音と遊ぶ」人ではないし、
なんとなくの感じでしかないが、「音で遊ぶ」人のほうが、
世間一般の認識と同じように、多いのではないのか。
他人の楽しみ方なんて、どうでもいいことだ。
「音で遊ぶ」人は、まわりにいなくていい。
「音で遊ぶ」人は、音の姿勢、音の姿静はどうでもいいことなのだろう。
2月7日のaudio wednesday (next decade) では、
1月では横長で使ったけれど、スピーカーの性質が大きく違うこともあって、
縦長でのセッティングとなった。
聴いていて、ふと気づいたことがある。
この部屋のプロポーションは、どこか列車(電車)の車輌のようだ、と。
そして私を含めて、その場で聴いている人は、同じ車輌に乗り合わせた乗客だ、と。
現実の電車がそうであるように、乗っている人たちはほぼ見知らぬ人ばかりである。
偶然、その電車(車輌)に乗り合わせた人たちといえる。
そんなことを考えていた。
そして、その行き先は鳴らしている音楽が示していることも。
そんなふうに感じてしまうのは、黒田先生の「風見鶏の示す道を」を読んでいるからだ。
2月7日のaudio wednesday (next decade) – 第一夜では、サウンドラボ 735を鳴らした。
735はコンデンサー型スピーカーだから電源を必要とする。
一台あたり2W程度の消費電力である。
このくらいならばモバイルバッテリーからでも数時間ならば、十分実用になるはず。
アンカーのPowerHouse 90から、AC110V、60HzのAC電源を735へと供給した。
音は変化するのは、試す前からわかっていたことだし、
いい方向への変化なのも予想はついていた。
問題は、どのくらいの時間、使えるのかだ。
audio wednesdayは三時間である。
その前から鳴らしているわけだから、2月7日はほぼ五時間、
PowerHouse 90から735へと電源を供給していた。
終了してPowerHouse 90のインジケーターをみると、六割程度の残量だった。
ということは2W+2W程度の消費電力であれば、十時間以上は使えるはずだ。
サウンドラボはアメリカの会社だから、
サウンドラボのコンデンサー型スピーカーにとっては60Hzが標準といえる。
東日本は残念ながら50Hz。
PowerHouse 90を使えば60Hzを供給できる。
このメリットは小さくない。
昨年の5月28日に開催された野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会が、今年も開催される。
5月26日(日曜日)の予定だ。
詳しいことが決定次第、お知らせする。
昨夜のaudio wednesday (next decade) – 第一夜は、
サウンドラボのコンデンサー型スピーカーシステム、735を、
クレルのパワーアンプ、KMA200、
アキュフェーズのSACDプレーヤー、DP100 + DC330で鳴らした三時間だった。
サウンドラボのスピーカーは、ステレオサウンドにいたころに聴いている。
A1、A3時代のサウンドラボである。
現在のラインナップでは、745がA1、645がA3の後継機に位置づけられているようだ。
今回、聴いたのは735である。
最初、745か645になる予定ときかされていたが、735になった。
サウンドラボのウェブサイトをみても、735というモデルはない。
735は、745をスリムにしたプロポーションで、ひと目見て、
アクースタットのModel 3のことを思い浮べていた。
アクースタットのModel 3よりも背は高い。
だからよけいにスリムに見える。
いい感じだな、と思いながら眺めていた。
17時をこえたあたりから、おもいつくままCDをかけていた。
すでに書いているように、一曲目は決めていた。
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”のSACDである。
開始時間は19時。
ディスクをかけかえながら、早く始まらないか、と待ち遠しかった。
自分ひとりのためにかけてもよかったのだが、
一曲目と決めていたから、やはりそこまでとっておきたかった。