終のスピーカー(求めるものは……)
岩崎先生のモノだった「Harkness」で、いまは聴いている。
だからこそ忘れてはならないと改めて心に刻むのは、
「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」である。
岩崎先生のモノだった「Harkness」で、いまは聴いている。
だからこそ忘れてはならないと改めて心に刻むのは、
「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」である。
「Aries」は、そこにちょこんといた、という感じだった。
何の知識をもたない、オーディオにも無関心の人ならば、スピーカーとは思わないだろう。
小さめの収納家具にみえてもおかしくない。
「Aries」の写真を撮ってきた。
外観だけでなく、特徴的なサランネットを外して、スピーカーユニットの写真も、
それからリアバッフルの入力端子まわりの写真も。
サランネットの中央には、小さな把手がある。
これがあるから家具に見えて、観音開きできるように思ってしまうのだが、
引いてもびくともしない。
よく見ると左右に蝶番もない。
結局、横に寝かせて底板にあるネジ4本を外さなければ、スピーカーユニットとの対面はできない。
「Aries」は3ウェイ。
使われているユニットに、これといった特徴的なところはない。
コーン型の3ウェイ構成だった。
Ariesについて、岩崎先生は「豊麗な低音」とスイングジャーナルに書かれている。
このサイズで、そういう低音が鳴り響くのか。
それゆえのフロアー型なのか。
とにかく音は聴けなかった。
でも次回訪れる時には、音が聴ける。
「Aries」の音が、豊麗な低音が、きっと聴ける。
この続きは、だからその時が来たら、書いていく。
エレクトロボイスのAriesを見たことはなかった。
いったい、このスピーカーシステムは、日本にどのくらい輸入されたんだろうか。
岩崎先生の評価が高かったことは知ってはいたから、
Ariesの音を聴きたい、と思いつづけていても、実物すらお目にかかったことがなかった。
昔は中古を扱っているオーディオ店にもよく足を運んでいたいたけれど、
最近はめったに行かなくなってしまった。
もっと行くようにしよう、とは思いはじめている……。
そういう具合だから、最近の中古を扱っているオーディオ店には、
Ariesがあったりする可能性もあるかもしれない。
でも可能性は低い、と思う。
先週末、やっとAriesを見ることができた。
「Harkness」を迎えに行った際に、ずうずうしくも「Ariesを見たい」と言って、見せていただいた。
こういうときは、もう遠慮はしない。
ここで遠慮していては、もうAriesと対面することもないかもしれないし、
なんといっても岩崎先生が使われていた「Aries」が見れる機会は、そうそうないのだから。
「Harkness」は一階にあった。
「Aries」は二階にあった。
階段をあがり、ドアのすぐ隣に左チャンネル用の「Aries」があった。
外形寸法はなんとはなく頭にはいっていたから、
だいたいのサイズは想像がついていたけれど、
それでも実物を見て、まず思ったのは「小さい」だった。
小さいけれど、このスピーカーはフロアー型なのだ。
エレクトロボイスの1828Cというコンプレッションドライバーを、
一般的なドライバーとして捉えずに、コーン型のスピーカーユニットとしてとらえれば、
このダイボール型のコンプレッションドライバーで、
岩崎先生が何をされようとされていたのか──、
もしかすると、という答が浮んでくる。
タンノイのオートグラフのような、フロントショートホーンとバックロードホーンを組み合わせた、
そういう構造のスピーカーにされることを考えられていたのではないか──、
そんな気がしてならない。
1828Cはコンプレッションドライバーだから、当然ホーンをつけて鳴らす。
前側だけでなく後側にもホーンを取り付けられる1828Cだから可能な構造といえば、
オートグラフのような複合ホーンである。
FC100と組み合わせた1828Cは250Hzから10kHzとなっている。
ワイドレンジではない、かなりのナロウレンジだが、
良質のラジオの延長としてのシステムを構築しようとするならば、
この帯域幅でも充分とはいえなくとも、不足はない、といえなくもない。
ホーン型だから能率は高い。
周波数特性からいっても、ハイパワーの最新のパワーアンプは必要としない。
真空管アンプ、それもシングルアンプあたりをもってきたい。
スピーカーの周波数特性からいって、トランスに広帯域のモノをもってくる必要もない。
真空管アンプ以外だったら、D級の小出力の小型アンプもおもしろいかもしれない。
D/Aコンバーター内蔵のヘッドフォンアンプでも、鳴るように思えてくる。
だとしたらiPodとヘッドフォンアンプ(iPodのデジタル出力を受けられるモノ)という、
ミニマムなシステムが可能になる。
しかもドライバーはエレクトロボイスのフェノール系のダイアフラムなのだから、
人の声のあたたかみは、格別ではなかろうか。
岩崎先生が実際のところ、何のために、この1828Cを購入されたのかはわからない。
誰にきいたところでわからないだろう。
それでもいい、
とにかくいま手もとに岩崎先生が所有されていたエレクトロボイスの1828Cとホーンがあり、
それを眺めては、こんな妄想を楽しんでいる。
こういうのもオーディオの楽しみのひとつなのに……、ともおもう。
エレクトロボイスの1828Cは、実はいまも現行製品としてエレクトロボイスのサイトには載っている。
トランス付きの1828Tとなしの1828Cがある。
Hi-Fi用ではなく、”Commercial Sound Compression Drivers”という括りになっている。
828HFと組み合わせされていたA8419ホーンが、
トランペットスピーカーのような構造となっていることからもわかるように、
1828CとペアとなるホーンFC100の外観はトランペットスピーカーのホーンそのものの形をしている。
こういう用途のドライバーをなぜ岩崎先生は所有されていたのだろうか。
この、正解のわからぬことを考えてみている。
誰もが思いつくのはPatrician IVの代替ドライバーとして用意されていた、
ということだろうが、これはおそらく可能性としてはかなり低いと思う。
1828Cと同じダイボール型ドライバーと呼べるモノに、848HFがあった。
828HFに少し手を加えてダイアフラムの両側にホーンを取り付けられる仕様にしている。
1828は、用途は違うものの、848HFの後継機ともいえるのかもしれない。
1828Cと組み合わせるためなのか、ホーンもいただいてきたモノの中に入っていた。
トゥイーターのT35とほぼ同サイズのホーンで、スクリューマウント式になっている金属製。
ホーンの色も1828Cと同じである。
このホーンでは低い周波数までは使えない。
1828CはFC100ホーンとでは250Hz以上を受け持つことができる、
そういうドライバーであるから、
ただ単に、金属製のホーンとの組合せで使うことを考えられていたわけでもないはずだ。
JBLの「Harkness」以外にも、いくつかのオーディオ機器をいただいてきた。
トーレンスのTD224も、それには含まれている。
キャビネットはスイングジャーナルの編集者であった藤井氏の製作によるもの。
オートチェンジャーゆえに横幅は70cmをこえる。
EMTの927Dstよりも横幅は広い。
その他にもトーンアームを数本。
エレクトロボイスのドライバー1828Cと専用と思われるホーンもあった。
このエレクトロボイスのペアは箱こそ古くなっているものの、
どうにも未使用のようだ。
1828という型番はきいても、どんなドライバーだっけ? と思われる方が大半だろう。
ただ型番の「828」に気づけば、もしかして、あのドライバーのヴァリエーションなのか、と思われるだろう。
828HFは、Patrician IVのミッドバスに採用されていたユニットで、
二回折返しホーンのA8419と組み合わせされていた。
828HFはJBLやアルテックのコンプレッションドライバーを見慣れた目には、
やや特殊な構造のドライバーとしてうつる、そういうドライバーである。
JBLやアルテックではドーム状のダイアフラムの凹面側にフェイズプラグがあり、
こちら側から音を放射する。
828HFはダイアフラムの凸面側にフェイズプラグがあるだけでなく、
音が放射されるのは、バックチェンバー側でもある凹面側であるわけだから、
フェイズプラグ側は開放状態となっている。
いわばダイボール型コンプレッションドライバーといえなくもない。
そういうドライバーが、今日いただいてきたモノの中にあった。
今回のヨッフムのマタイ受難曲もそうだが、
タワーレコードはオリジナル企画として、独自にCD復刻を行っている。
こういう企画はありがたい。
私がタワーレコードの、この企画に望むのは、
五味康祐・愛聴盤シリーズである。
ヨッフムのマタイ受難曲は今回復刻された。
次は、ミヨーの「子と母のためのカンタータ」を復刻してほしい。
ミヨー夫人が朗読をつとめたものだ。
いまナクソスのサイトでMP3では聴けるようになっているものの、
やはりCD、もしくは16ビット・44.1kHzのダウンロードで聴きたい気持がつよい。
それからアンドレ・メサジェの「二羽の鳩」。
これのLPは「子と母のためのカンタータ」とほぼ同時期に手に入れたもの、
ある事情で手もとにはない。
しかも演奏者が誰だったのかを、はっきりとおぼえていない。
まだある。ヴィヴァルディのヴィオラ・ダモーレ。
五味先生の著書を読んでも演奏者が誰なのかはっきりしないが、
どうもアッカルドによるものらしい。
まだまだあるけれど、この三枚、
無理ならばミヨーだけでも復刻してもらいたい。
一瞬の結晶化こそが、ジャズの再生の決め手だ、と、昨年の12月に書いた。
一瞬一瞬の結晶化、ひとつひとつ音の結晶化、
そうやって結晶化されたもの同士がぶつかり合い燃焼することで、多彩な色を発する。
そういうジャズの再生を目指されていたのだろうか、とおもうことがある。
そして結晶は燃焼し消え去るわけだが、
ただきれいに消え去るだけでは、いわば対岸の火事である。
燃焼し消え去る時に火の粉が生れる。
この火の粉が、聴き手のくすぶった心に飛び火する。
聴き手の心に火をつける。
それまでくすぶっていたものを燃やすことになる。
ジャズを聴くということはそういうことであり、
ジャズを再生するとは、そういうことではないのか。
クラシックばかり聴いてきた私は、憧れをもって、そうおもっている。
昨年の5月のaudio sharing例会のテーマは「岩崎千明を語る」だった。
このとき、一年後にゲストに来ていただいて、なにかやりたい、と考えていた。
それから約一年、春ごろ、昨年とまったく同じテーマでは能がないから、
今年は「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」というテーマにして、ゲストに来ていただこう。
誰に来ていただくか。
ステレオサウンドにいたころから、
そしてステレオサウンドをやめたあとも西川さん(サンスイ)との縁があった。
西川さんからは瀬川先生の話し、岩崎先生の話、それ以外にもいろいろとうかがっている。
西川さんに来ていただこう。
これは「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」をテーマに決めたと同時に決った。
西川さんに来ていただくとして、あとふたり、鼎談で語っていただこう、
とすると、誰がいいだろうか。
ステレオサウンドをはなれてもう20年以上経つし、
瀬川先生、岩崎先生と仕事をされていた方となると、実は面識がない。
西川さんから、以前「瀬川さんと岩崎さんのことなら、パイオニアの片桐さんがくわしいよ」と聞いていた。
私がfacebookで公開している岩崎先生のページ「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」に、
片桐さんが「いいね!」をしてくださっていることは、管理人であるからわかっていた。
それからビクターに勤務されていた西松さんも「いいね!」をしてくださっていた。
それでfacebookの機能を使い、片桐さんと西松さんに依頼のメッセージを出した。
まったく面識のない私からの依頼にも関わらず、快諾してくださった。
岩崎千明という「点」があった。
瀬川冬樹という「点」があった。
人を点として捉えれば、点の大きさ、重さは違ってくる。
岩崎千明という「点」が書き残してきたものも、やはり「点」である。
瀬川冬樹という「点」が書き残してきたものも、同じく「点」である。
他の人たちが書いてきたものも点であり、これまでにオーディオの世界には無数といえる点がある。
点はどれだけ無数にあろうともそのままでは点でしかない。
点と点がつながって線になる。
このときの点と点は、なにも自分が書いてきた、残してきた点でなくともよい。
誰かが残してきた点と自分の点とをつなげてもいい。
点を線にしていくことは、書き手だけに求められるのではない。
編集者にも強く求められることであり、むしろ編集者のほうに強く求められることでもある。
点を線にしていく作業、
その先には線を面へとしていく作業がある。
さらにその先には、面と面とを組み合わせていく。
面と面とをどう組み合わせていくのか。
ただ平面に並べていくだけなのか、それとも立体へと構築していくのか。
なにか、ある事柄(オーディオ、音楽)について継続して書いていくとは、
こういうことだと私はおもっている。
編集という仕事はこういうことだと私はおもっている。
私が勝手におもっているだけのことなのだが、
実のところ、ステレオサウンドもそれほど売れるとは思っていないのではなかろうか。
定期刊行物でもないしムックでもないから広告は入ってこない。
そういう書籍を、いまあえて出すのはなぜなのか、と考えてしまう。
本は読者に向けてのものであるわけだが、
「オーディオ彷徨」の復刊と、いまになっての瀬川先生の著作集の刊行は、
読者に向けてのものとして当然あるわけだが、それだけとは私には思えない。
それは深読みしすぎだといわれるだろうが、
「オーディオ彷徨」の復刊と、いまになっての瀬川先生の著作集の刊行は、
いまステレオサウンドに執筆している人たちに向けてのものなのではなかろうか。
そして、さらにもっとも深読みすれば、ステレオサウンド編集の人たちに向けてのもののようにもおもえてくる。
なぜ、私がそうおもっているのかは、勝手に想像していただきたい。
「オーディオ彷徨」、それに瀬川先生の著作集がどれだけ売れるのか。
売れてほしい、とはおもう。
特に岩崎千明の名も瀬川冬樹の名もまったく知らない世代に読んでもらいたい、と思う。
だから売れてほしい。
けれどそう多くは売れない、とも思ってしまう。
それはしかたないことかもしれない。
おふたりが亡くなられて30年以上が経っている。
私がaudio sharingをつくったときですから、
「いまさら岩崎千明、瀬川冬樹……」といわれた。
私より年齢が上の人数人から、そういわれたものだ。
そのときから13年が経っている。
この13年間のオーディオ界の変化をどう捉えているのかは、人それぞれだろう。
ステレオサウンドがどれだけの売行きを見込んでいるのかは、私にはわからない。
実際の売行きがどうなるのかも、正直わからない。
ステレオサウンドの売行きの見込みよりもずっと売れるかもしれないし、そうではないのかもしれない。
どちらになるしても、「オーディオ彷徨」と瀬川先生の著作集は、
とにかくずっと売っていてほしい。
5年後も、10年後も、20年後もステレオサウンドに注文すれば入手できる。
そうあってほしい。
いまは──、そして当り前すぎることを書くことになるが、
これからさきもずっと「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」が続いていく。
もうすでに30年以上「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」が続いてきているのに。
「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」に終りは訪れない。
どれだけ待っていても終りは来ない。
ならば……、とおもう。
オーディオの世界を「豊か」にしていくことを。
表面的な意味ではなく、
それに単に製品の数の多さや価格のレンジの広さとか、そういったことでもなくて、
まったく違う意味での「豊かさ」が、
「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」のオーディオの世界にはあったように思えてならない。
瀬川先生の著作集が出ないことがはっきりした。
よく遺稿集という言い方をする。私もこれまで何度も使ってきた。
けれど遺稿とは、未発表のまま、その筆者が亡くなったあとに残された原稿であって、
すでに発表された文章を一冊の本をまとめたものは遺稿集とは呼ばない──、
ということを、私もつい先日知ったばかりである。
私の手もとには瀬川先生の未発表の原稿(ただし未完成)がひとつだけある。
いずれ電子書籍の形で公開する予定だけれど、それでも一本だけだから、遺稿集とはならない。
あくまでも著作集ということになる。
ステレオサウンドの決まり、
そんなことがあるものか、と思われる方も少なくないと思う。
けれどふりかえってみていただきたい。
瀬川先生の著作集は出なかった。
黒田先生の著作集も出なかった。
黒田先生の本は、すでに「聴こえるものの彼方へ」が出ていたから。
岡先生の本も出ていない。
岡先生の本は、すでに「レコードと音楽とオーディオと」というムックが出ていたから。
山中先生の本も出ていない。
山中先生の本は、すでに「ブリティッシュ・サウンド」というムックが出ていたから。
「ブリティッシュ・サウンド」は山中先生ひとりだけではないものの、
メインは山中先生ということになる。
長島先生の本も出ていない。
長島先生の本は、すでに「HIGH-TECHNIC SERIES2 図説・MC型カートリッジの研究」が出ていたから。
I先輩の言われた「決まり」、
そういうものがあることをあとになって「やっぱりそうなのか」と、
ステレオサウンドをやめたあと、岡先生、長島先生、山中先生が亡くなり、そう思っていた。
だからこそ瀬川先生が亡くなられて32年目の今年、著作集がステレオサウンドから出る、ということは、
嬉しいとともに、意外でもあった。
正直、遅すぎる、とは思う。
そう思うとともに、なぜ、いまになって、とも考えている。