Archive for category オーディオの科学

Date: 12月 17th, 2015
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その2)

「オーディオは科学だ」は正しい。
でも「オーディオは科学だ」とは、どういうことなのかが、場合によってひどく曖昧となる。
曖昧となったまま「オーディオは科学だ」を声高に叫ぶ一部の人たちがいる。

科学であるのだから、オーディオのすべての現象は、測定で捉えられるものだと信じきっている。
測定で差が出なければ音は変らない、と主張する。
わずかな差があったとしても、その程度の差は人間の耳では関知できない、ともいう。

科学は観察することから始まる。
「オーディオは科学だ」と主張するのであれば、
まずオーディオの現象を観察することから始めなければならない。

オーディオにおける観察とは、聴くことである。
測定することは、その次に来ることであって、
徹底的な観察は、徹底的に聴くことである。

ただし観察力は人によって違ってくる。
この当り前すぎることを「オーディオは科学だ」と主張する人の中には、
理解していないとしか思えない人がいる。

自分の耳で聴き分けられないから、他の人も聴き分けられない、となるようだ。
なぜか、音の聴き分けに関しては、人による能力差はないものとして、これらの人たちは語ってくる。

「オーディオは科学だ」といってケーブルの違いによる音の差を認めない人は、
100mを13秒くらいで走ることができたとしよう。

走るのもまた能力であり、人によって違う。
短距離を速く走れる人もいれば、長距離を速く走れる人もいる。

自分が100mを13秒くらいでしか走れないからといって、
100mを10秒を切って走る人たちを否定することはできない。

これはどんなことだってそうである。
自分にできないことを別の人は軽々となしえるし、その逆もある。

なぜか「オーディオは科学だ」と主張する人たちは、
音の聴き分けの能力に関しては、すべての人が同じだととらえている節がある。

Date: 5月 14th, 2015
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その1)

世の中にはいろんな人がいることはわかっていても、
こうやってブログを書いていると、そのことを強く実感することがある。
ほんとうにいろんな人がいる……。

何度も書いていることだが、
オーディオはどこかを変えれば、音は変る。
ほんのわずかな違いのときもあれば、大きな違いとなってあらわれることもある。
小さな違いの時には、人によっては気がつかないこともあるだろう。

その場合、違いに気がつかなかった人にとっては音は変らなかった、ということになる。
気がついた人には音が変った、ということになる。
この時、わずかな違いに気がつかなかった人も、誰かの指摘を受けたり、
経験を積むこと、耳の訓練を積むことで、
その時はわからなかった音の違いをしばらくしたらわかるようになることだってある。

とにかく音はささいなことで変っていく。
こんなことで変ってくれるな、と思うようなことでも変化する。

ケーブルを替えれば音は変る。
接点が汚れていたのをクリーニングしても変るし、
RCAコネクターの嵌合具合を変えてみても音は変化する。

ラック(置き台、置き場所)をかえても変る。
ラックの天板の上でアンプやCDプレーヤー、アナログプレーヤーの位置をずらしても変る。

音が変る要素をひとつひとつ書いていったらキリがないくらいに、
つまり無数にあるといっていい。

けれど、世の中にはケーブルでは音は変らない、
ましてラックなどで音が変ってたまるか、と頑なに主張する人がいる。
それはそれでいい。
その人は、音の変化を聴きとれていないからなのだ。
耳の音の変化に対する閾値の違いであり、
何もこまかな音の違いを聴き分けているから、オーディオでいい音が出せるとは限らないし、
そうでないからといっていい音が出せないわけでもない。

だから私には違いがわからなかった、といわれた上で、
だから私にとっては音は変らなかったと同じこと、といわれるであれば、
それに対しては私は何も言うことはない。

けれど世の中にはいろんな人がいるのだから、
変らないという人の中にもいろんな人がいる。
やっかいなのは「オーディオは科学だ」という、
彼らにとっては水戸黄門の印籠ともいえる、このセリフを口にする。