瀬川冬樹氏の「本」(続・余談)
瀬川先生の本をiPadで読むことを前提としたものにつくるために、
iPadとは、いったい何だろう? ということをはっきりさせてたくて、考えたことがある。
8月の頃だった。
結論は、「鏡」だった。わりと即、自分の中で返ってきた答だった。
それから三ヵ月経ち、瀬川先生の「本」をつくり、もう一冊つくって思っていることは、
「鏡」であるからこそ、
iPadは、私にとって音を出す道具ではないけれども、オーディオ機器であるといえる、ということ。
瀬川先生の本をiPadで読むことを前提としたものにつくるために、
iPadとは、いったい何だろう? ということをはっきりさせてたくて、考えたことがある。
8月の頃だった。
結論は、「鏡」だった。わりと即、自分の中で返ってきた答だった。
それから三ヵ月経ち、瀬川先生の「本」をつくり、もう一冊つくって思っていることは、
「鏡」であるからこそ、
iPadは、私にとって音を出す道具ではないけれども、オーディオ機器であるといえる、ということ。
柴犬さんのコメントを読み、補足します。
私の手もとにあるステレオサウンドは38号から、です。ただし40号と44号が欠けています。
ステレオサウンドの別冊関係では、High-Technicシリーズ(4冊すべて)、SOUND SPACE、
コンポーネントの世界の’77と’78、コンポーネントのすすめ(3冊すべて)、
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(’78年号と’81年号)、あとはヘッドフォンの別冊、以上です。
これら以外のステレオサウンドと、
1981年以前に出版された、瀬川先生の文章が掲載されているものを探しています。
レコード芸術、スイングジャーナルとその別冊、週刊FM、FM fanと別冊FM fan、などです。
私の記憶にある範囲では、’80年か’81年の、どの号かはわすれましたが、特選街に、
B&OのBeogram について書かれていたはずです。
それからいまは廃刊になってしまった月刊PLAYBOYの創刊号から数号に亙って、
原稿を書かれているはずです。
それから、ベートーヴェンの「第九」の聴き比べの記事も、PLAYBOYのはずです。
これら以外にも、こういう記事を読んだことがある、とご記憶の方、
情報だけでも、お教え下されば、助かります。
瀬川先生の「本」の第二弾の作業にとりかかっていますが、
すでに私の手もとには入力がおわった本しかありません。
国会図書館に足をはこんでコピー、ということも始めましたが、
いまのペースで行くと、第二弾で十分な分量の公開はかなり厳しくなってきました。
瀬川先生の文章が掲載されているステレオサウンド、別冊FMfan、レコード芸術、
その他のオーディオ雑誌のバックナンバーをお貸し出しいただける方はいらっしゃらないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
こちらまで、ご連絡、お待ちしております。
先週末から、試してみたいことがあって、ある本を電子書籍にする作業にかかっきりになっていた。
スキャナーに附属していたOCRソフトを使えば、どのくらい作業時間を短縮できるのか、がひとつ。
それから、こまかい作り込みをおこなうために、
瀬川先生の「本」では、Sigil(このソフトで作成している)のBook View で行なっていたのを、
今回は Code View も使いながら、タグの編集もやってみた。
約15万字あった本を、瀬川先生の「本」よりもこまかいところまで作り込んで、
入力からすべての作業の終了まで3日で了えた。今回の本に関しては公開の予定はないが、
作業の最後のほうで感じていたのは、既存の本をこうやって電子書籍化することは、
リマスター作業なのではないか、ということ。
これまで「電子書籍化」という言葉を使っていたけれど、なにかしっくりこないものを感じていたし、
「電子書籍化」という言葉だけでは、はっきりしない何かを感じていた。
デジタル化、という言葉も使いたくない。
本のリマスタリング、リマスターブック、とか表現することで、
目ざそうとしているところが、すこしはっきりしてきた感がある。
はっきりと書いているわけではないが、私のTwitterもあわせて読んでいただいている方は、お気づきのように、
いま瀬川先生に関するオーディオの「本」の作業にかかりっきりになっている。
電子書籍として、まず11月7日に、そして来年の1月10日に出す予定で、いまやっている。
おそらく3月ごろまで最終的にかかるだろう。
最初は11月7日までにすべてまとめあげたいと考えていたが、やりはじめると、
せっかくやるのだから、あれもこれもとやりたいこと、おさめたいことが増えていき、
ページ数に制限のない電子書籍だから、すべてやろうと変更したため、11月7日には、
ともかくいま出せるところをダウンロードできるようにする。
とにかくいまは、瀬川先生の文章を集め入力している。
ステレオサウンドから出ていた「世界のオーディオ」シリーズのラックス号に載っていた「私のラックス観」、
これをさきほど入力し了えた。
ステレオサウンドにいた頃、ふるい号を読もうと思えばいくらでも読めた。もちろん仕事の合間にずいぶん読んだ。
でもそれは読んだつもりだった、としか、いまはいえない。
瀬川先生の「私のラックス観」を、なぜか読んでいなかったからだ。
「世界のオーディオ」シリーズは、
Vol. 1・ラックス、Vol. 2・マッキントッシュ、Vol. 3・サンスイ、Vol. 4・アルテック、Vol. 5・ビクター、
Vol. 6・パイオニア、Vol. 7・テクニクス、Vol. 8・ソニー、Vol. 9・オンキョー、Vol. 10・タンノイ、が出ている。
読んでいたのは、マッキントッシュ、アルテック、タンノイだけだった。
そのあとずいぶん経ってからサンスイとパイオニアを読んだだけだった。
手もとにある本とコピーをあわせると、ビクター以外はすべて読んだ。
そのどれとも、「ラックス観」はちがい、なにかちがうものが現れている。
*
このメーカーは、ときとしてまるで受精直後の卵子のように固く身を閉ざして、外からの声を拒絶する姿勢を見せることがある。その姿勢は純粋であると同時に純粋培養菌のようなもろさを持ち、しかも反面のひとりよがりなところをも併せ持つのではなかろうか。
*
これは、ラックスについてのことだけを語られているのではない。
「瀬川冬樹」についても語られている。
この数行前に、こうある。
*
このメーカーの根底に流れる体質の中にどこか自分と共通の何か、があるような、一種の親密感があったためではないかという気がする。
*
説明は要らないはずだ。
「展」という漢字には、おしのばす、平らにひろげる、という意味がある。
この「展」こそ、電子書籍を考えるうえでの重要な言葉となっていくように思う。
「展」のつくことばに、展開、展覧、展望がある。
そして開展、進展、発展がある。
いまiPadをプラットホームにした電子書籍(もちろんのオーディオの「本」)にとりかかっている。
Twitterで、さきごろ「展(ひら)く」と書かれている人がいた。
なるほど、と思った。
紙の本では、ページを開く、だった。
電子書籍では、ページを展く、になっていくはずだ。
そして、個人的には「展く」に、もうひとつの意味をこめたい。
29年前の今日(8月7日)、瀬川先生は入院された。
ステレオサウンド創刊15周年記念の特集「アメリカン・サウンド」の取材の途中で倒れられたのが、前日の6日。
ちょうど三カ月後の11月7日、8時34分に亡くなられた。
その約二カ月後、ステレオサウンド編集部で働くことになった。
そのとき、ステレオサウンドから遺稿集が出版されるものだと思っていた。
七年後、ステレオサウンドを離れてからのことだった。
もう出す術もないのに、瀬川先生の遺稿集をどうにかしたいと思っていた。
想うだけだった……。
それから十年後、遺稿集ではないものの、瀬川先生の書かれたものをインターネットで公開することも思いつく。
これだけはなんとか実現できた。
また十年経った。それが今日。
ふりかえると瀬川冬樹について語ることは、私にとってオーディオ評論についての考えを述べることでもあり、
オーディオそのものについて考えさせられることでもある。
だからこそ瀬川冬樹について語り尽くそう、と思い今日まで来た。
今年の11月7日に、ひとつのくぎりをつける。
ひとつのかたちにする。
想像力の欠如が、オーディオの「本」をつまらなくしている、いちばんの原因かもしれない。
「紙の本」でも、想像力に関して、まだまだやれることはきっとある。
電子書籍のほうが、想像力に関しては、あれこれやれる。
けれど、安易にやっているだけでは、むしろ「紙の本」に、その点でも負けてしまう。
iPadで読むオーディオの「本」について、考えているところである。
「オーディオを読む楽しみ」は、想像する楽しみへとつながっているはずだ。
そこへ、つなげていくのが、オーディオの本としての役目でもある。
想像力をどこかで失ったのか、それとも想像力をはぐくんでこなかったのか、
およそ想像力のカケラもない人は、オーディオには向いていない、とはっきりと言える。
想像力がなければ創造力は持ちえない。
音を創造することもできない。
もっとも、そういう人たちは、
「音を創造するなんて、もってのほか」と顔を真っ赤にして反論するであろう、
ある意味、シアワセな人たちである。
読むことに関しては、本で読もうと、パソコンの画面上で読もうと、
同じであろうはずなのに、やはり違う。
このことについては、別項の「Noise Control/Noise Designという手法」で述べている。
audio sharing、このブログをやっていて、こんなことを書くのはなんだかだが、
ウェブマガジンというものは、いまあるものではなく、もっと別のかたちだと思っている。
そんなふうに思っていたこともあって、紙の本にこだわろうとしてきた。
でも、もう「紙の本」でなくてもいい、と考えている。
いまはCDだけでなく、DVD-Audio、SACDもあり、容れものとしてはCDよりも大きい。
さらにネットでは、ハイビット・ハイサンプリングレートによる配信も可能になっている現在では、
1980年半ばのCDを附録としたオーディオ雑誌よりも、
より精確に試聴室で鳴っていた音を収録することは可能になっている。
やろうとおもえば、試聴室で取材そのものをライヴでネット中継することもできる。
時代が、技術がさらに進んでいけば、それじゃ、オーディオ雑誌はいらなくなるのか、というと、
決してそうじゃない、やっぱりオーディオを読む楽しさは、
これから先もずっとずっとつづいていくと固く信じている。
このブログを書いていくにあたって、想定している読者が、ひとりいる。
13歳のころの、オーディオに関心をもちはじめたばかりの「私」だ。
1976年、このころは、読むオーディオの楽しみが、それこそあふれていた。
五味先生の「五味オーディオ教室」は、まさしくオーディオを読む楽しみそのものだった。
いまあのころの私がいたとして、その私に「オーディオを読む楽しみ」を体験してほしい、と思うからだ。
CDが附録としてついてくる雑誌は、もうめずらしくも何ともなくなってしまったが、
CDが登場し普及しはじめたころ、1980年代の半ば、新しいオーディオ雑誌が創刊され、
CDがついてきていた。おそらくもっともはやくCDをつけた雑誌のひとつだろう。
もしかすると世界初だったのかもしれない。
このオーディオ雑誌(誌名を忘れてしまった)は、試聴室で鳴っていた音を録音し、
それをそのままCDに収録して、いわば音の出る本として売り出してきた、と記憶している。
この本が出た時は、まだステレオサウンド編集部に在籍しており、
編集部内でも、無視できないものとして発売日に購入していたはずだ。
このオーディオ雑誌は、結局成功しなかったようだ。
理由はいくつかあろうが、オーディオには「読む楽しみ」があるということを、
再認識させてくれたように思う。
オーディオの楽しみには、いくつもある。
いい音を出す楽しみ、いい音で好きな音楽を聴く楽しみ、それらに負けないくらいの魅力を、
「オーディオ(音)を読む楽しみ」はもっている。
紙の本、ということにこだわってきたところがある。
そのためか、本の理想としても、紙の本がそうであるように考えてきたところが、どうしてもある。
紙の本の延長線上に、理想の本の形態があるようにも思ってきた。
だから電子書籍、というよりも、電子紙(電子ペーパーとはあまりいいたくないので)の実現を、
あれこれ妄想し、理想の電子紙から電子書籍について考えをめぐらしていた。
いまのところ、電子書籍のなかに、パソコンで読むことも含まれているだろう。
ページをめくるという感覚ではなく、巻紙のようにスクロールしていく感覚。
パソコンで文章を読むことに、抵抗は特にもってはいないが、
それでもじっくり読みたいものは、それこそ紙の本で、という想いは、誰しもお持ちだろう。
でもオーディオの本として、紙の本からは、
昔からくり返し──それこそどれだけ言われてきたかわからないくらいだが──、
誌面から、音は出ない。音が直に伝わってくるわけではない。
そこからオーディオ評論が生れてきた、ともいえる。