Archive for category ステレオサウンド

Date: 7月 27th, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(その6)

「オーディオの殿堂」で、
オーディオテクニカの製品は、AT-ART1000のみがノミネートされている。
殿堂入りはしていない。

AT-ART1000の殿堂入りしていないことについては、何も書かない。
意欲的な製品だとは捉えているが、音を聴いていないので。
それよりも、なぜオーディオテクニカのVM型カートリッジが殿堂入りしていないのか、
ノミネートすらされていない。

VM型カートリッジは、オーディオテクニカの特許である。
オーディオテクニカの最初の製品は、MM型カートリッジのAT1、その上級機のAT3、
どちらも1962年に登場している。

その後、オーディオテクニカはトーンアーム、MC型カートリッジなどを出してきて、
1967年にVM型のAT35Xを誕生させている。

MM型に関しては、よく知られるようにエラックとシュアーが特許を取得していた。
世界各国で、両社は特許を取れたにもかかわらず、
日本では無理だったのには理由がある。

瀬川先生から、どうしてだったのかを聞いている。
ちょっとここでは書けないことがあっての、日本での特許不成立である。
このときばかりは、日本のオーディオメーカーが一致団結した、といわれていた。

なので日本では各社がMM型カートリッジを製造販売できたが、
それはあくまでも日本国内に限られる。
MM型カートリッジを海外に輸出しようとすれば、特許料を支払うことになる。

オーディオテクニカは、海外に打って出るためにもVM型を開発した、と聞いている。
VM型ならば、この方式自身が特許を取れたわけだから、
MM型の特許に関係なく海外でも販売ができる。

Date: 7月 25th, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(その5)

SMEのSeries Vも、殿堂入りしている。
当然の結果だと思っている。

1985年に登場したSeries Vは、トーンアームとして飛び抜けて高価だった。
その後、Series Vよりも高価なトーンアームがいくつも登場している。
Series Vも値上げしているが、それでもいちばん高価なトーンアームではなくなっている。

それでも私は、Series Vが最高の音を聴かせてくれるトーンアームだと、いまでも思っている。
もっともSeries Vよりも高価なトーンアームのすべてを聴いているわけではないが、
部分的にはSeries Vを上廻る良さを持っている製品もあるだろうが、
トータルとしてのパフォーマンスはいまでもSeries Vが一番のはずだ。

そのSeries Vは、黛 健司氏が担当されている。
     *
 この製品にいちばん興奮したのは長島達夫先生で、1985年発行の74号に記事を執筆されたが、取材に際して、日本に1本しか入荷していなかったシリーズVをバラバラに分解してしまい、編集担当のわたしを慌てさせた。
     *
Series Vの試聴には私も立ち会っている。
長島先生の昂奮ぶりは、いまもはっきりとおもい出せるのだが、
この時からおもっていることがひとつある。

Series Vの前に、SMEからは管球式フォノイコライザーアンプSPA1HLが登場していた。
SPA1HLは、最初オルトフォン・ブランドでのプリプロモデルがあった。

SMEのSPA1HLは長島先生といっしょに聴いた。
SPA1HLについて長島先生の詳しいこと詳しいこと。

思わず「長島先生が設計されたのですか」と口にしそうになるくらいだった。
そうなんだということはすぐにわかった。
パーツ選びの大変さも聞いている。

それに長島先生自身、SMEのアンプは、マランツのModel 7への恩返し、といわれていた。
そういうことがあったから、Series Vも長島先生の設計なのかもしれない──、
ずっとそうおもっている。

完全な設計ではないにしても、
そうとうに長島先生のアイディアが取り入れられている──、
これはもう確信といってもいいくらいに、そうおもっている。

そうでなければ、最初に日本に入ってきた一本なのに、
あそこまで詳しいわけがない。
それに手馴れた感じで分解されてもいた。

SPA1HLのときと同じだと感じていた。

Date: 7月 24th, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(その4)

ステレオサウンド 223号「オーディオの殿堂」で、
黛 健司氏がLNP2Lのところで、こんなことを書かれている。
     *
 数年前、ひょんなことから、井上卓也先生がLNP2をお持ちだったことを知った(井上先生のことだから、ひと声聴いただけで「コレクション」になっていたのかもしれない。マランツ・モデル7がお好きで何台も所有されていたが、LNP2も手に入れられていたとは意外だった。
     *
井上先生はLNP2も数台お持ちだった。
LNP2だけでなくJC2も所有されていた。
記憶違いでなければ、LNP2はマークレビンソン製モジュールだけでなく、
バウエン製モジュールのLNP2も、である。

試聴のあいまで雑談で、ぽろっと話されることがけっこうあった。

井上先生はジェンセンのG610Bに関しても、
別項「ワイドレンジ考(その38)」で書いているとおりである。

その他にも、いくつか知っているけれど、
とにかく、意外なモノも持っておられた。

井上先生が所有されていたオーディオ機器の全貌を知っている人は、おそらくいないだろう。
私が知っているのも、全体の何割かなのかすらわからない。

けれど、この項を書いていると、
223号で殿堂入りしているモノよりも、
井上先生が所有されていたオーディオ機器のほうが、
私にとっては「殿堂入り」にふさわしいモノのように感じられる。

Date: 7月 12th, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(型番の表記)

別項「サイズ考(その6)」でも書いていることなのだが、
LS3/5Aの型番表記がいいかげんである。

最近の復刻モデルはLS3/5aと、型番末尾が小文字になっているモデルもある。
だからそれらのモデルはLS3/5aという表記でいいのだが、
ロジャースのLS3/5Aは、大文字である。

ロジャースのLS3/5Aだけではなく、同時期に各社から出たLS3/5Aも、
大文字表記である。
リアバッフルの銘板を見ればわかることだ。

十四年前に書いたことをまた持ち出しているのは、
ステレオサウンド 223号の特集「オーディオの殿堂」を読んでいたら、
ロジャースのLS3/5A(136ページ)が、LS3/5aとなっていたからだ。

LS3/5Aは三浦孝仁氏が担当されている。
三浦孝仁氏の本文は、ちゃんとLS3/5Aとなっている。
なのに編集部は、LS3/5aとしてしまっている。

どうしてこんなことがやらかしてしまうのだろうか。
いまのステレオサウンド編集部には、
LS3/5Aに思い入れをもつ人はいないのだろう、おそらく……。

Date: 7月 1st, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(その3)

一昨日のスピーカー、昨日のアンプ、
今日のプレーヤー関係の殿堂入りの機種の発表を見て、
改めて、この「オーディオの殿堂」という企画の無理な面を感じざるをえなかった。

「オーディオの殿堂」は、
いわば50号の旧製品のステート・オブ・ジ・アート賞の焼き直しともいえる。

50号は1979年夏に出ている。
いまから四十年以上前である。

この企画に登場しているオーディオ機器は、まさしく「オーディオの殿堂」といえた。
オーディオの歴史を一端を窺い知れる面もあった。
勉強にもなった、といえる。

過去には、こんなスピーカーやアンプがあったのか。
もちろん知っている機種もあったけれど、初めて知る機種も少なくなかった。

ジェンセンのG610Bは、50号で初めて、その存在を知ることができた。
50号の特集は、何度も読み返した。

似た企画、同じような企画である「オーディオの殿堂」には感じられなかったことが、
いくつもあった。

50号をひっぱり出してくるまでもない。
それほどわくわくしながら読んだ50号なのだから、しっかりと憶えている。

ならば、今回も旧製品のステート・オブ・ジ・アート賞をやればよかったのか──、
そうとは思わない。

旧製品のステート・オブ・ジ・アートは、1979年ごろだったから可能だった企画である。
それに50号の一年ほど前まで、「クラフツマンシップの粋」という連載が続いていた。
この連載があったからこその旧製品のステート・オブ・ジ・アートでもあった。

今回の「オーディオの殿堂」には、それもない。
たとえあったとしても、これまで市場に登場してきたモデル数をふり返れば、
いかに難しい企画というか、無理な企画というのが誰の目にも明らかだったはずだ。
結果、中半端な印象を拭えないし、偏ってもいる。

なぜ、いまになっての「オーディオの殿堂」なのか。

オーディオの殿堂(その2)

殿堂入りしていないだろうな、と予想していたとおり、
やっぱり入っていなかったのが、BOSEの901である。

このユニークなスピーカーシステムが入っていない。
なんとも寂しい感じがしてしまう。

BOSEの901は、シリーズを重ねるごとに良くなっていた。
私はすべてのシリーズを聴いてきたわけではないが、
それでも私が聴いた範囲でもシリーズが新しくなるたびに、音の品位は良くなっていった。

901の最初のころは、音の品位という点では難もあったようだが、
それはずいぶん昔のことであり、
私がステレオサウンドを辞めてから登場した901WBは、なかなかの出来である。

残念なことに901WBの音は聴いているものの、
井上先生が鳴らされた音を聴いているわけではない。

井上先生が鳴らされる901の音は、いまも思い出せる。
以前書いているように、マッキントッシュのMC275で鳴らしたこともある。

使用ユニットがフルレンジだけ、間接放射型ともいえる構成ゆえ、
901をゲテモノ扱いする人が少なからずいるし、
マニア心をくすぐられないこともあるとは思う。

そういう人は、901がきちんと鳴った音を聴いていないのだろう。

Date: 6月 29th, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(その1)

ステレオサウンドのウェブサイトで、
223号の特集「オーディオの殿堂」入りした105機種を公開している。

今日(6月29日)にスピーカーシステムとスピーカーユニット、
30日にアンプ関係、7月1日にアナログプレーヤー、CDプレーヤー関係が公開される。

これを書いている時点では、スピーカーシステム39機種が公開されている。
この種の企画では、
この機種が殿堂入りしているのは、あの機種はなぜ? ということは常に起る。
そういうものだということは最初からわかっている。

それでも今回公開された殿堂入りしたスピーカーシステム39機種を眺めていると、
偏っている、としか感じられない。

ステレオサウンドが創刊されてから五十五年以上経つ。
その間に登場してきたオーディオ機器の数がいったいどれだけになるのか。
厖大なモデルが登場してきたわけで、今回の「オーディオの殿堂」は、
それらのなかから105機種である。それは割合としてはわずかでしかない。

なので、なぜ、あの機種が? ということは、誰にでもあること。
それはよくわかったうえで、なぜ、あの機種が? というモデルについて書いていきたい。

まずはJBLのDD55000である。
別項「ホーン今昔物語(その17)」で、
DD55000は「オーディオの殿堂」で選ばれているのか、と書いた。

facebookでコメントがあり、選ばれていないことはすでに知っていた。
やはり選ばれていないのか……。

JBLのスピーカーシステムでは、パラゴン、ハーツフィールド、オリンパス、
4343、4344、S9500、DD66000が殿堂入りしている。

4343が殿堂入りしているのだから、4344はいいのでは? と私は思ってしまう。
それよりもDD55000があるだろう、と思うし、4350も殿堂入りしていないのか、
4310(4311)はないのか、と。

Date: 6月 21st, 2022
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その13)

この項だけでなく、他の項もここまで書いてきてはっきりしたのは、
私はオーディオの雑誌ではなく、オーディオ評論の本が読みたい、ということだ。

別項で書いているように、
ステレオサウンドはオーディオの評論の本だった時期が確かにある。
いまはもうそうではなくて、オーディオの雑誌である。

オーディオの雑誌を求める人は、それでいいじゃないか、となる。
それでいい、と私も思う。

でも読みたいのは、オーディオ評論の本なのだ。
この欲求を、もうステレオサウンドは満たしくれないし、
これから先も望めそうにない。

それでも可能性として月刊ステレオサウンドがほんとうに登場してくれれば、
オーディオ評論の本となってくれるかもしれない。

Date: 3月 3rd, 2022
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 222号

今日(3月3日)が、ステレオサウンド 222号の発売日だった。
通常、ステレオサウンドの発売日は、12月の冬号以外は、
3月、6月、9月の2日ごろである。

確かに2日に、これまで発売されていた、と記憶している。
なのに今回3日だったのは、編集作業の遅れというよりも、
意図してのことなのか、とちょっと思ってしまった。

今年は2022年である。
今号のステレオサウンドは222号である。
だからぞろ目の今日を発売日にしたのか。

どうでもいいことなのだが、ちょっと気になっている。

Date: 11月 13th, 2021
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その12)

十年前、「確信していること(その20)」で書いたことを、くり返す。

瀬川先生のオーディオ評論家としての活動の柱となっているものは四つある。
これは本のタイトルでいったほうがわかりやすい。

「コンポーネントステレオのすすめ」(ステレオサウンド)
「虚構世界の狩人」(共同通信社)
「オーディオABC」(共同通信社)
「オーディオの系譜」(酣燈社)

それぞれのタイトルが本の内容をそのまま表わしている、といえる。

「コンポーネントステレオのすすめ」は、
オーディオがプレーヤー、アンプ、スピーカーをそれぞれ自由に選んで組み合わせることが当り前のことになって、
その世界の広さ、深さ、面白さを伝えてくれる。

組合せは、他のオーディオ評論家もやっているのでは? といわれそうだが、
組合せに関して、瀬川先生ほど積極的に取り組まれていた人はいなかった、と私は感じている。
それに瀬川先生の組合せは、興味深いものが多かった。
それは単に読み物として興味深いだけでなく、
実際に自分で自分にとっての組合せを考えていく上でのヒントにつながっていくものがちりばめられていた。

瀬川先生の組合せのセンスは、他の方々とはあきらかに違う。
この違いを感じているのかどうかは、読み手次第としかいいようがない。

「虚構世界の狩人」には説明は要らないだろう。

「オーディオABC」はタイトルからいえばオーディオの入門書ということになるが、
瀬川先生の平易な言葉で書かれた文章は、決して表面的な入門書にはとどまらず、
確か岡先生が書評に書かれていたように「オーディオXYZ」的な内容でもある。
オーディオを構成しているものについて学んでいくには最適の本のひとつである。

「オーディオの系譜」は、オーディオの歴史を実際の製品にそって語られている。

もちろんこの四つ以外に、オーディオ雑誌での製品評価、新製品紹介もあるのだが、
これはオーディオ評論家として誰もがやっている柱であるから、あえて加えない。

でも、オーディオ評論家と呼ばれている人が誰でもやっている柱、
とつい書いてしまったが、この一本の柱すら、まともにやれていない人もいる。

そういう人は、オーディオ評論家としての柱はない、ということになるのか。
それとも私には見えていない柱を持っているだろうか。

Date: 10月 8th, 2021
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その11)

FM fanの記事は、一回目が長岡鉄男、上杉佳郎、
二回目が瀬川冬樹、菅野沖彦、
この四氏のリスニングルームを傅 信幸氏が訪問というものだった。

おもしろかったのはだんぜん二回目である。
当時、何度も読み返し、グラビアのリスニングルームのカラー写真を、
それこそ穴が開くほどに見ていた。

この記事のあとに、ステレオサウンドの記事も読み返した。
でも、やっぱりおもしろくない、というよりも、最後まで読み通すのがしんどいのは、
まったく同じままだった。

いまにして思えば、この時に気づいていたのかもしれない。
傅 信幸氏は狂言まわしの才能がある、ということに。

こんなふうに書いてしまうと誤解する人がいるかもしれない。
いまオーディオ評論家と呼ばれている人たちで、
傅 信幸氏と柳沢功力氏が、オーディオ漫談家もしくは狂言まわしである、というだけのことだ。

ほかのオーディオ評論家と呼ばれている人たちと比較してどうのこうという話ではない。
ほかのオーディオ評論家と呼ばれている人たちには、
オーディオ漫談家、狂言まわしとしての才能もない、ということである。

そして月刊ステレオサウンドというものが本当に登場してくれるのであれば、
傅 信幸氏、柳沢功力氏のオーディオ漫談家、狂言まわしといった、
よいところを読みたいのである。

Date: 10月 7th, 2021
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その10)

傅 信幸氏の名前を知ったのは、1970年代後半の無線と実験においてだった。
ハンダによる音の違いの実験記事だった。

それ以前も無線と実験に記事を書かれていたのかもしれないが、
このハンダの記事は、ここまでやるのか、と意味で印象に残っている。

ハンダ付けがどういう現象なのかを理解していれば、
この試聴方法が必ずしも、実際のハンダの音を聴くこととイコールなのか、
疑問がないわけではないが、とにかく記事のおもしろさ、
それだけでなく試聴用のケーブル作りまで、自身でやるというところも、
無線と実験の記事のようでいて、それまでの記事とは違うところも感じさせていた。

その傅 信幸氏は少ししてからステレオサウンドの誌面に登場。
カセットデッキのノイズリダクション、dbxの一連の製品の試聴など、である。

一機種ごとの、いわゆる試聴記という形ではなく、
巻末に地階ところでの掲載ではあったが、かなり力の入った記事(文章)であった。

あのハンダの人が、ステレオサウンドに登場なのか、と期待して読み始めた。
けれど何度か読み返しても、最後までスムーズに読み通せない。

手抜きの文章だったからではない。
じっくり時間をかけての文章だった、と感じられる。

けれど読んで行くと、流れにのれないとでもいおうか、
もういいや、という感じになってしまった。

最初は聴く音楽のジャンルが違うからなのか、と思った。
けれど、どうもそうではないようだ。

当時は高校生で、周りにステレオサウンドを読んでいる友人はいなかった。
ほかの人がどうだったのかは、わからなかった。

いま読み返すと、はっきりとなぜだったのか、わかるのだが、
それはここで書くことではない。

その傅 信幸氏の文章を、おもしろいと感じたのは、
FM fanに二号連続掲載の記事だった。

Date: 9月 8th, 2021
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その9)

柳沢功力氏の「ぼくのオーディオ回想」がつまらない。
以前、そう書いた。

けれど柳沢功力氏が書かれるものすべてをつまらない、と思っているわけではない。
ステレオサウンド 200号掲載の「ステレオサウンド誌の基礎を築いた人たち」、
これはおもしろかった。

以前、私は柳沢功力氏と傅 信幸氏は、なかなかのオーディオ漫談家である、と書いた。
このことに変りはない。

オーディオ漫談家、狂言まわしとしての良さが、
「ステレオサウンド誌の基礎を築いた人たち」の面白さを支えている。

いまオーディオ雑誌になんらかを書いている人たちのなかには、
オーディオ評論家と呼ばれるのを嫌がっている人がいる、と聞いている。

オーディオ漫談家、オーディオ狂言まわし、
そんなふうに呼ばれたくはない、という人もいるだろう。

でも、オーディオの読み物として、
オーディオ漫談、オーディオ狂言まわしはあればおもしろいではなく、
それが良質であれば、なければならないものである。

Date: 8月 2nd, 2021
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドと幕の内弁当の関係(その2)

ステレオサウンドの幕の内弁当化について、これまで何度か書いてきている。

弁当といえば、弁当箱が必要になる。
弁当箱があるから、弁当といえる。

弁当箱という器である。
器ということで思い出すのは、菅野先生の「仕出し弁当の器」である。
     *
さて、六本木に「正直屋」というめし屋がある。近くに私が仕事の関係でこの十年来出入りしている出版社があるが、食事時になるとこの正直屋の仕出し弁当を出前してもらう。とてもアットホームな味付けで、ご飯もよく焚けており、惣菜にも細かい気配りがしてあって私は大いに気にいっていた。料理も美味しいが、お重がまた何ともいえない情緒があり、料理の味をいっそう引き立てていた。
 ところが、あるとき例によって出前を頼むと、お重の表面がいやに光っているし重量感がない。つまり、木のお重から姿かたちは同じようだがプラスティック系の器にかわっていたわけだ。幸い中身はかわっていなかったが、食べながら何となく寒々しい気持になってきたことを覚えている(最近はさらに、持ち帰り用の寿司などに用いられているペラペラの容器に入って、表面を紙で巻いて届けられる)。
 以来、私はこの弁当を、正直屋の〝うそつき弁当〟と名付けて呼んでいるが、考えてみればこれは、出前する方としてはワンウェィなので回収の手間が省けるし、こちらも食べ終ったらそのまま屑籠に捨てればいいのだから、便利といえば便利だ。
 しかし、以前のお重に入っていたときのお弁当の味と、現在の味気ない容器に入っているお弁当の味は、味付けは同じであるが、見た目も、舌での感じかたにも残念ながら大きな違いがあることは否めないのだ。先刻申しあげたように、TPOという観点で言えば、出前のお弁当なんだから使い捨ての容器に入っていても容認はできよう。しかし、実質は同じでも、容器が違えば味も違ってくるということのひとつの見本ではある。
     *
六本木にある出版社とはステレオサウンドのことであり、
私が勤めていたころのステレオサウンドである。

正直屋の弁当は、だから何度も食べている。
私がいたころは、すでにペラペラの容器になっていた。

菅野先生は、うそつき弁当と名付けられていた。

料理はなにがしかの器に盛られている。
弁当では、弁当箱という器である。

弁当箱は、皿や椀とは、同じ器であっても、包んでいる、という点での違いがある。

Date: 6月 5th, 2021
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドの表紙に感じること(その7)

昨年12月、別項「2020年をふりかえって」で、
ステレオサウンド 217号の表紙がひどい、と書いた。

いま219号が書店に並んでいる。
手に取ることはしていないが、その表紙を見て、おっ、とおもった。
いままでのステレオサウンド表紙とは、違ってきているからだ。

手放しで褒めたくなるほどではないが、
217号の表紙からすれば、ずいぶんとよくなってきた。

217号の表紙がひどすぎた、ともいえるのだが、
それでも、今後のステレオサウンドは、いままでの表紙とは違う路線で行くのかと、
少しは期待している。

それでも一言だけいわせてもらうならば、季節感がそこにはない。
ない、というよりも無視している、と感じた。

219号は夏号である。
私は219号の表紙をみて、秋号? と感じていた。

家具の選択、背景の選択などで、夏号らしいの印象は実現できたはずだ。
もう、そんなことを、いまの編集部は考えもしないのか。