つきあいの長い音(その22)
つきあいの長い音は、音の目的地を聴き手にわからせるものなのか。
つきあいの長い音は、音の目的地を聴き手にわからせるものなのか。
つきあいの長い音──、裸形の音と向き合っていくことなのかもしれない。
つきあいの長い音になっていくのだろうか、手本のような音は……。
つきあいの長い音は、そのつきあいにおいて聴き手を試しているのだろう。
つきあいの長い音と使いこなし──、使い熟していけるかだろう。
マルコ・パンターニの走りに、多くのロードレースファンは熱狂した。
沿道に集まっている人たちもそうだし、テレビで観戦している人たちもそうだ。
スポーツを見ても熱狂するということがほとんどない私でも、
パンターニの走りには熱狂した。
皆、パンターニの走りは熱い、そういったことを口にする。
私もそういっていたし、そう感じている。
山岳コースを誰よりも速く走るには最短距離を走ることも求められる。
平坦な道ではコーナーの内側を走る選手でも、
山岳コースを苦手とする選手はコーナーの外側を走ることがある。
内側を走った方が距離は短くなる。
山岳にはいくつものコーナーがあるわけだから、
すべてのコーナーを内側で駆け抜けるか、外側を走るかはけっこうな違いとなってくる。
それでも外側を走る選手がいるのは、内側を走ることがしんどいからでもある。
コーナーの内側と外側では山岳コースでは傾斜が、内側の方がきつくなる。
そのきつくなっている傾斜をもパンターニはすばやく駆け抜けていた。
そういうところにもロードレースファンは熱狂していた。
熱い走り──、それは情熱的な走りともいえようか。
そんなパンターニの山岳での走りをみていて、熱いものを感じていた。
このことは以前書いている。
けれどパンターニは、山岳のしんどさから抜け出したがっていた。
そのことをインタヴューを読んで知った。
情熱とは、いったいなんだろう……、と改めて考えていた。
もう10年以上の前で、いつ見たのか正確には憶えていない。
NHKで、ある実験のドキュメンタリー番組があった。
その実験が意味するところは最先端すぎて私には理解できなかったし、
その実験が成功すれば世界初だということだけは憶えている。
その実験機材の様子が映されていた。
それを見て、私は失敗するな、と思っていた。
オーディオマニア的観点からすれば、絶対にいい音が出ないセッティングだったからだ。
世界初の実験だから、いろいろな器材が段階段階で足されていったように見えた。
配線もぐちゃぐちゃになっている。
オーディオ機器をこんなセッティングでこんなにぐちゃぐゃちの配線をしてしまったら、
そこでのオーディオ機器がどんなに高性能なモノであっても(むしろ高性能であればあるほど)、
その良さを活かすことはできない。
配線さえ間違えなければ音は出る。
出るけれど……、というレベルの音でしかない。
テレビに映っていた実験もそれに近いというか、まったく同じといいたくなる状態だった。
実験は失敗だった。
私はそうだろう、と思って見ていた。
この実験室にはオーディオマニアがひとりもいないんだな、と思って見ていた。
実験はすべての器材がいったんバラされ、一から実験機材のセッティングが始まった。
今度は、以前の状態とはまったく違う、きちんと整理されぐちゃぐちゃの配線も、
少なくともテレビの画面からは伺えない状態に仕上げられていた。
実験は見事成功。
最先端の実験なのだから、細かな、デリケートなところが影響しての失敗だったのだろう、
とオーディオマニアの私は思っていた。
私がマルコ・パンターニが走る姿を見たのは、1994年のツール・ド・フランスの放送だった。
このころはフジテレビが深夜にダイジェスト版で放送していた。
カレラ・チームにいたパンターニは、まだスキンヘッドにはしていなかった。
山岳タイムトライアルでパンターニはコースは間違ってしまった。
それでもパンターニは速かった。
すごい選手というよりも、おもしろい選手が登場した、という印象があった。
パンターニは自転車選手としては小柄だった。
小柄な選手は体重が軽いこともあって山岳ステージに強い、というようなところがある。
パンターニもそうだった。
というより、驚異的な強さだった。
1994年よりも1995年、途中大けがをしてレースにでれなかったりしたが、
1997年のツール・ド・フランスでの復活、1998年での総合優秀と、
パンターニの山岳ステージの速さはますます驚異的になっていっていた。
坂バカという言葉がある。
多くの人は登り坂を自転車で駆け登るのはしんどいし苦痛である。
でも、駆け登ることに夢中になれる人がいる。
パンターニも、そういう人のひとりなのかと漠然と思っていた。
数年前に読んだパンターニのインタヴューは、そうではなかった。
なぜ、誰よりも速く坂を駆け登っていくのか、という質問に対し、
しんどいから、そのしんどさからすこしでも早く抜け出したいから速く走っている、と。
坂バカは坂や長い山岳コースを好む。
おそらく坂バカと呼ばれる人たちは、少しでも長く坂を、山を登っていたいと思う人たちなのかもしれない。
パンターニは違っていた。そこから逃れたいために速く走っている。
ということはパンターニは坂、山が嫌いなのか。
彼自身のロードレーサーとしての資質をもっもと発揮できるコースが山岳コースというだけであって、
それは結果として山岳コースが得意ということになるのだろうが、
それでも山岳コースが好きなわけではない。
パンターニの答は、私にとってほんとうに意外だった。
つきあいの長い音は、鳴らし手の「おもい」を受け止めてくれているのだろうか。
情熱とは? なんだろうと考えることがないわけではない。
オーディオへの情熱を持っているのだろうか、という自問自答とセットでもある。
情熱を辞書でひくと、
激しく高まった気持ち。熱情。
そう書いてある。
だから熱情を、ひく。
物事に対する熱心な気持。情熱。
そう書いてある。
熱心について、また辞書をひく。
物事に情熱をこめて打ち込むこと。心をこめて一生懸命すること。また、そのさま。
そう書いてある。
ここでの物事は、オーディオ、そして音楽をいうことになる。
つまりは、オーディオに激しく高まった気持ちをこめて打ち込むこと、となる。
「激しく高まった気持ち」を、オーディオに対して一度も持ったことがない、とはいわないが、
「激しく高まった気持ち」を、常に、今も持ち続けている、とはいえない。
情熱とは? と考えるときに思い浮べる人がいる。
そのひとりが、マルコ・パンターニだ。
ドン・ジョヴァンニとマントヴァ侯爵。
ドン・ジョヴァンニはモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」に、
マントヴァ侯爵はヴェルディのオペラ「リゴレット」の登場人物である。
ふたりは似ているようでいて、決定的にちがう。
このふたりについて黒田先生が書かれていた。
ステレオサウンド 47号掲載の「さらに聴きとるものとの対話を」で、
「腹ぺこ」のタイトルを文章で、ドン・ジョヴァンニについて書かれていた。
マントヴァ侯爵については、最後のほうで、ドン・ジョヴァンニとの比較対象として触れられている。
*
ドン・ジョヴァンニに似たタイプの、しかしドン・ジョヴァンニとは決定的にちがうマントヴァ侯爵という男がいる。ヴェルディのオペラ「リゴレット」の登場人物だ。彼は、夜会に出席している美女達たちをながめながら、「あれかこれか」と、いともくったくなくうたう。しかし、彼は、ただの好色漢でしかない。「あれかこれか」という、すくなくとも選択の意識が、マントヴァ侯爵にはあるが、ドン・ジョヴァンニにはそれがない。だから、ドン・ジョヴァンニは地獄におちるが、マントヴァ侯爵は、すくなくともオペラが終るまでは、生きのびていて、ベッドにひっくりかえって、鼻歌などうたっている。
しかし、マントヴァ侯爵の姿は、妙にうすぎたない。ドン・ジョヴァンニの輝きは、マントヴァ侯爵に感じられない。マントヴァ侯爵は、女性に対して、ドン・ジョヴァンニのようにはハングリーではない。一種の退屈しのぎというか、ひまつぶしに女性を誘惑しているだけだ。
*
黒田先生は、音楽についてのドン・ジョヴァンニは、ありえないか──、をテーマにされている。
そして《みんながハングリーでなくなったということが、ここでもいえるように思う》と書かれている。
みんながハングリーでなくなったのは、音楽だけではなく、オーディオに関してもいえるのではないか。
ドン・ジョヴァンニは、
イタリアで640人、ドイツで231人、フランスで100人、トルコで91人、スペインで1003人、
合計2065人の女性と交渉をもっている。
それでもドン・ジョヴァンニは女性を求め続け、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」では地獄に堕ちる。
ヤマハの新しいスピーカーシステムNS5000を書いている。
ジェームズ・ボンジョルノのアンプのことも書いている。
──こんなふうに語りたくなるオーディオ機器が、これだけではなく他にもいくつもある。
優秀なオーディオ機器だから、ではない。
語りたいと思うオーディオ機器は、必ずしも世評の高いモノではない。
そこに、何か共通した理由を私自身が見いだすのはできないことかもしれない。
とにかく語りたいオーディオ機器がある、ということだ。
この語りたいオーディオ機器を心の裡に持つ者がオーディオマニアである。
語りたいオーディオ機器を持たぬ者は、どれだけオーディオにお金を投じていようとオーディオマニアとは呼べない。
つきあいの長い音を持つことは、絶対不可避な機器の劣化を補っていくことかもしれない。
つきあいの長い音こそが、ハーモニーの陰翳を聴きとる耳をもたらすのかもしれない。
つきあいの長い音は、ハーモニーの陰翳とでも言うほかない音のニュアンスを聴かせてくれようになる。