Archive for category 音の良さ

Date: 8月 3rd, 2013
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その1)

以前の仕事場の同僚が、バイクで交通事故を起した。
単独事故で、被害者はいなくて、彼だけが怪我を負った。
たいへんな怪我だったときいている。
家族が呼ばれたほどだ、と。

いま彼はぴんぴんしている。
元気である。
事故から二年後ぐらいにたまたま会う機会があった。
近くの中華店に入った。
どこにでもある町の中華屋さんといった感じであって、
彼はチャーハンを頼んでいた。

チャーハンにはグリーンピースが入っていた。
事故以前の彼ならば、グリーンピースをレンゲでひとつひとつ取り除いていた。
とにかくグリーンピースが大嫌いだ、と彼はいっていたのに、
その日、彼はおいしそうにグリーンピースもご飯、ほかの具材とともに口に運んでいる。

グリーンピース、嫌いじゃなかったっけ? ときいた。
彼の返事は「そうだっけ?」だった。

私の記憶違いではなく、そのとき他の同僚も一緒で、
みんな「えっ?」という顔をしていた。
彼のグリーンピース嫌いは、そのくらい徹底したものだったから。

そのグリーンピースをおいしそうに食べている。
彼は事故の時、頭を強く打ち意識を失っていた。
本人も言っていたけれど、少し記憶がとんでいる、とのこと。

ということは事故後グリーンピースをおいしそうに食べているということは、
食べ物の好き嫌いは、記憶に強く影響されている、ともいえるわけだ。
記憶だけ、とはいえないのかもしれないが、それにしても彼のグリーンピースへの反応の違いは、
音の好みについても、考えさせられることであった。

Date: 7月 25th, 2013
Cate: 音の良さ

音の良さとは(その3)

私はオーディオを、完全なコントロール下におきたいわけではない、
支配したいわけではない。

それを心がけている。

ある人に、そのことについて話したことがある。
彼から返ってきたのは、「それじゃ、自分の音じゃないでしょ!」だった。
彼は、私とは違い、スピーカーから出てくる音、どんなにささいな音であっても、
すべての音をコントロールした音でなければならない、そうでなければ自分の音とはいえない、
そういうスタンスの人だということが、そのときわかった。

つづけて彼はいう。
「オーディオは自己表現だから」

自己表現だから、オーディオのシステムの自発性的な要素で鳴ってくる音は自分の音とはいえない。
そういうことだった。

その理屈がわからないわけではない。
彼の考え、つまり「オーディオは自己表現」に立てば、彼のいうことが正しい、といえなくもない。

だが私は「オーディオは自己表現」とは、彼ほど強くは思っていない。
自己表現であらねばならない(彼の口調だとそう感じられる)、そこからスタートした音と、
私の考えによってスタートした音とでは、
「音は人なり」の解釈に、大きな違いが生れてくる。

こんなことを含めての「音は人なり」ということにもなる。

Date: 7月 25th, 2013
Cate: 音の良さ

音の良さとは(その2)

少しでも良い音を求めて、時にはオーディオ機器を買い替えることもあるし、
細かな調整をやっていくこともある。

スピーカーの位置・向きをわずかに変えてみる、
スピーカーにレベルコントロールがあれば、ほんのわずか動かしてみる、
他にも細かなことはいくつもある。
ここに書き切れないほど、またうまく言葉でいいあらわせないような細かな多くの要素で音は変っていくのだから、
丹念に音を聴き、地道にやっていくことになる。

こんなことを年がら年中やっているわけではない。
やるときは、集中してやる。
いわば、それはオーケストラのリハーサルのような感じでやっている。

指揮者は楽器に直接ふれない演奏家である。
指揮者にとってのオーケストラが、オーディオマニアにとってのオーディオのシステムということになる。
オーディオのシステムの調整は、リハーサルそのものといっていいだろう。

徹底的にリハーサルを行う。
つまり、徹底してオーディオのシステムの調整を行う。
時には、ほかの人が気にしないようなところに執着しながらも、やっていくしかない。

そうやってオーケストラを鍛え上げるように、
オーディオのシステムを鍛え上げる。
そういう感覚が必要なのではなかろうか。

だからといって、本番で求めるのは、去勢された演奏(音)ではない。
高い演奏技術のうえに成り立つ自発性の高いものである。

Date: 7月 24th, 2013
Cate: 音の良さ

音の良さとは(その1)

音を聴く。
どこか誰かのリスニングルームで、その人の「音」を聴かせてもらう。

一枚目のディスクが鳴る。
一枚で終ることは、まずない。
二枚目、三枚目とディスクはつづいていく。

それまでまったく耳にしたことのないジャンルの音楽だとそうはいかないけれど、
よく聴くジャンルの音楽であれば、
それが初めて聴くディスクであったとしても、
三枚目あたりから、このディスクならこんなふうに鳴ってくるだろう、という予測ができるようになる。

三枚目あたりのディスクも初めてであったとしても、
途中まで聴いていれば、クラシックであれば曲そのものは知っているわけだから、
つづく箇所がどう鳴るのかは予測がつくものである。

予測のとおりの音が鳴ってきた。
そうかぁ……、とひとりおもっている。

予測した音が鳴ってくることは、悪いことではない。
ある程度、そのシステムが鳴っていることでもある。
どこかに大きな不備があれば、予測は外れることもあるからだ。

とはいえ予測のとおりの音が鳴ってきたら、それでいいのかといえば、そんなことはない。
むしろ、ここが「出発点」なのだから。

経験によって、予測は少しずつ精確になってくる。
だからといって、その予測が精確なことを自慢したいわけではない。
予測のとおりの音を求めているのでもない。
求めてきたわけでもない。

求めているのは、常に予測をこえる音である。