第15回 audio sharing 例会のお知らせ
次回のaudio sharing例会は、4月4日(水曜日)です。
時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
次回のaudio sharing例会は、4月4日(水曜日)です。
時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
より正確なピストニックモーションを追求し、
完璧なピストニックモーションを実現するためには、振動板の剛性は高い方がいい。
それが全面駆動型のスピーカーであっても、
振動板の剛性は(ピストニックモーションということだけにとらわれるのであれば)、高い方がいい。
ソニーがエスプリ・ブランドで、振動板にハニカム構造の平面振動板を採用し、
その駆動方法もウーファーにおいてはボイスコイル、磁気回路を4つ設けての節駆動を行っている。
しかもボイスコイルボビンはハニカム振動板の裏側のアルミスキンではなく、
内部のハニカムを貫通させて表面のアルミスキンをふくめて接着する、という念の入れようである。
当時のソニーの広告には、そのことについて触れている。
特性上ではボイスコイルボビンをハニカム振動板の裏側に接着しても、
ハニカム構造を貫通させての接着であろうとほとんど同じなのに、
音を聴くとそこには大きな違いがあった、ということだ。
つまり特性上では裏側に接着した段階で充分な特性が得られたものの、
音の上では満足の行くものにはならなかったため、さらなる検討を加えた結果がボイスコイルボビンの貫通である。
APM8は1979年当時でペアで200万円していた。
海外製のスピーカーシステムでも、APM8より高額なモノはほとんどなかった。
高価なスピーカーシステムではあったが、その内容をみていくと、高くはない、といえる。
そして、この時代のソニーのスピーカーシステムは、
このAPM8もそうだし、その前に発売されたSS-G9、SS-G7など、どれも堂々としていた。
すぐれたデザインとは思わないけれど、
技術者の自信が表に現れていて、だからこそ堂々とした感じに仕上がっているのだと思う。
これらのソニーのスピーカーシステムに較べると、この10年ほどのソニーのスピーカーシステムはどうだろう……。
音は聴いていないから、そこについては語らないけれど、どこかしら弱々しい印象を見たときに感じてしまう。
このことについて書いていくと、長々と脱線してしまう。
話をピストニックモーションにもどそう。
ステレオサウンド 124号の特集は、オーディオの流儀──自分だけの「道」を探そう、と題されて、
第一部が「独断的オーディオの流儀を語る」で、
朝沼予史宏、井上卓也、上杉佳郎、小林貢、菅野沖彦、長島達夫、傅信幸、三浦孝仁、柳沢功力、
以上9氏による座談会。
第二部は「流儀別システムプラン28選」という組合せの紹介、という二部構成になっている。
座談会のページは、各氏の紹介囲み的に各ページにあり、そこには各人がそれぞれの流儀について書かれている。
井上先生は、こう書かれている。
*
録音・再生系を基本としたオーディオでは、再生音を楽しむための基本条件として、原音再生は不可能であるということがある。録音サイドの問題にタッチせず、再生側のみのコントロールで、各種のプログラムを材料として再生音を楽しむこと、の2点が必要だ。再生系ではスピーカーシステムが重要だが、電気系とくらべ性能は非常に悪い。しかし、ルーム・アコースティック・設置条件、駆動アンプ等の調整次第でかなり原音的なイリュージョンが聴きとれるのは不思議なことだ。
スピーカーは20cm級全域型が基本と考えており、簡潔で親しみやすい魅力がある。プログラムソースの情報量が増えれば、マルチウェイ化の必要に迫られるが、クロスオーバーの存在は振幅的・位相的に変化をし、予想以上の情報欠落を生じるため、遮断特性は6dB型しかないであろう。
ステレオ再生では、音場再生が大切で、非常に要素が多く、各種各様な流儀が生じるかもしれない。
*
そして、井上先生はシンボル・スピーカーとして、
パイオニアExclusive 2404とアクースティックラボStella Elegansを挙げられている。
Stella Elegansは、ドイツのマンガーのBWTを中心としたシステム。
BWTは、Bending Wave Transducerの頭文字をとったもので、
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットと同じベンディングウェーヴ型(非ピストニックモーション)で、
口径は20cmで、振動板はジャーマン・フィジックスと同じで柔らかい。
Stella Elegansは、BWTに22cm口径のコーン型ウーファーをダブルで追加している。
井上先生は、座談会のなかでも20cm口径のフルレンジについて語られている。
音像の確かさと音像の見事さは、同じように受けとめられる人もおられるかもしれないが、
私はこのふたつのことは同じことをいっているようにみえて、本質的な違いがあると感じている。
岩崎先生にもう確認することはできないから、あくまでも私の想像でしかないけれど、
岩崎先生は音像の見事な音では、対決はすることはやられないのではないだろうか。
もちろん見事な音像に、音像の確かさが含まれているのであれば、なにもいうことはない。
けれど、現時点では音像の確かさと音像の見事さは、必ずしも同じことを語る表現ではない、と感じている。
音像の確かさと音像の見事さを、いまの時点であえて使い分けようと私がしているのは、
このふたつのことの違いこそが、
私がオーディオにのめり込むことになった大きなきっかけである「五味オーディオ教室」の最初に書かれていること、
そして、それがずっと私にとっての、テーマのひとつであり、
そのことをはっきりと捉えることが課題にもなっていた。
「五味オーディオ教室」を熱心に読んだことのある方ならば、そのことがなんなのかはすぐに理解されるはず。
最初に「五味オーディオ教室」を読んだ時、
「音を知り、音を創り、音を聴くための必要最少限の心得四十箇条」として、
その最初の「音を知る」という大きな括りの最初(一箇条)に
「音」と「音楽」の違いをわきまえよ。とつけられて、語られていることが、
音像の見事さと音像の確かさとの違いでもある。
音像の確かさにあって、音像の見事さに存在しないものは、肉体である。
肉体のない音と対決できるだろうか。
ステレオサウンド 39号はカートリッジの特集号である。
岩崎先生も試聴メンバーとして参加されている。
岩崎先生の「テストの方法」には、次のことが書かれている。
*
もうひとつのスピーカーシステムを、このラインナップに加えている。これは、ごく小さなブックシェルフ型の自作のシステムで、アルテックの12cmフルレンジ・405Aをたったひとつ収めたものだ。これは、至近距離1mほどにおいて、ステレオ音像のチェックに用いたものだ。いうなればヘッドフォン的使用方法だ。シングルコーンの405Aも、コアキシャル604−8Gもともに音源としてワンスポットなのでこの点からいえば大差ないはずともいえなくもないのだが、実際は好ましかるべきマルチセラーの高音輻射より405Aの方が音像をずっとはっきり判断できるのは、多分、単一振動板だからだろう。単純なものは必ず純粋に「良い」のをここで知らされる。それにも拘らず604をメインとしたのは、音質判断上もっとも問題とされてしまう音色バランスの判断のためである。
*
このとき岩崎先生はカートリッジ123機種を、自宅で試聴されている。
だから試聴用スピーカーとして、メインに使われたのは上の文章からもわかるようにアルテックの620Aである。
この他に、405Aを使った自作のブックシェルフ型に、さらにJBLのハーツフィールドでも試聴されている。
10機種ぐらいの数であれば、3組のスピーカーシステムでの試聴もそう大変なことではない。
けれどステレオサウンド 39号では123機種という数である。
405Aとハーツフィールドはサブ的な試聴のためのものだったのかもしれないが、
それでも大変な手間をかけて試聴されている。
ちなみにアルテック620AとJBLハーツフィールドは別々の部屋に置かれているので、
アルテック620Aが置いてある部屋(パラゴンの置かれている部屋でもある)で、
620Aと405Aで試聴した後に、部屋を移動してハーツフィールドで聴かれていることになる。
ここで書きたいのは、そのことではなく、同軸型の604-8Gを搭載した620Aをメインとしながらも、
音像のより確かな判断をするために405Aを使われている、ということである。
この、音像の確かさは、岩崎先生によって、重要な要素であることは、
書かれたものをまとめて読んでいくと誰しもが気づくこと。
パラゴンを買われた理由のひとつにも、音像の確かさが大きく関係している。
そして、この音像の確かさを求められるのは、「対決」するためなのだと私は思う。そうとしか思えない。
アポジーのスピーカーシステムは、外観的にはどれも共通している。
縦長の台形状の、広い面積のアルミリボンのウーファーがあり、
縦長の細いスリットがスコーカー・トゥイーター用のリボンなのだが、
アポジーのスピーカーシステムが鳴っているのを見ていると、
スコーカー・トゥイーター用のリボンがゆらゆらと動いているのが目で確認できる。
目で確認できる程度の揺れは、非常に低い周波数なのであって、
スコーカー・トゥイーターからそういう低い音は本来放射されるものではない。
LCネットワークのローカットフィルターで低域はカットされているわけだから、
このスコーカー・トゥイーター用リボンの揺れは、入力信号によるもではないことははっきりしている。
リボン型にしてもコンデンサー型にしても、
理論通りに振動箔・膜の全面に対して均一の駆動力が作用していれば、
おそらくは振動箔・膜に使われている素材に起因する固有音はなくなってしまうはずである。
けれど、現実にはそういうことはなく、コンデンサー型にしろリボン型にしろ素材の音を消し去ることはできない。
つまりは、微視的には全面駆動とはなっていない、
完全なピストニックモーションはリボン型でもコンデンサー型でも実現できていない──、
そういえるのではないだろうか。
この疑問は、コンデンサー型スピーカーの原理を、スピーカーの技術書を読んだ時からの疑問だった。
とはいえ、それを確かめることはできなかったのだが、
アポジーのスコーカー・トゥイーター用リボンの揺れを見ていると、
完全なピストニックモーションではない、と確信できる。
だからリボン型もコンデンサー型もダメだという短絡なことをいうために、こんなことを書いているのではない。
私自身、コンデンサー型のQUADのESLを愛用してきたし、
アポジーのカリパー・シグネチュアは本気で導入を考えたこともある。
ここで書いていくことは、そんなことではない。
スピーカーの設計思想における、剛と柔について、である。
オーディオの「現場(げんじょう)」は、どこなのか。
映画館をホームシアターの「現場」として捉えるのであれば、
まず思いつくのは、オーディオの場合はオーディオ販売店の試聴室がある。
販売店の店主のポリシーによって、試聴室に並べられているオーディオ機器は、さまざまである。
すでに製造中止になっている、名器と呼ばれるものを中心に取り揃えたところもあれば、
最新のオーディオ機器、それもひじょうに高価なモノばかりをあつめたところもあるし、
このふたつの両極の間に、いくつものポリシーがあって、
それらの試聴室で聴ける音もひとつとして同じところはない。
たいていのオーディオ販売店では、CDなりLPを持参すれば、そのディスクを鳴らしてくれる。
ホームシアターでは映画館でも自宅でも、同じプログラムソース(同じ作品)を鑑賞できる。
その意味では同じプログラムソースを聴くことができるわけだから、
オーディオ販売店の試聴室は、オーディオの「現場」と呼べなくはないところがあるのは否定できない。
こんな書き方をしたくなるのは、オーディオ販売店の試聴室が、
ほんとうにオーディオの「現場」たり得るのか、と思っているからだ。
かりにオーディオ販売店の試聴室がオーディオの「現場」だとしても、
それは「げんば」であって、「げんじょう」ではない──、
こういう気持がどこかにひっかかっている。
平面振動板のスピーカーと一口に言っても、大きく分けると、ふたつの行き方がある。
1980年頃から日本のメーカーが積極的に開発してきたのは振動板の剛性をきわめて高くすることによるもので、
いわば従来のコーン型ユニットの振動板が平面になったともいえるもので、
磁気回路のなかにボイスコイルがあり、ボイスコイルの動きをボイスコイルボビンが振動板に伝えるのは同じである。
もうひとつの平面振動板のスピーカーは、振動板そのものにはそれほどの剛性をもつ素材は使われずに、
その平面振動板を全面駆動とする、リボン型やコンデンサー型などがある。
ピストニックモーションの精確さに関しては、どちらの方法が有利かといえば、
振動板全体に駆動力のかかる後者(リボン型やコンデンサー型)のようにも思えるが、
果して、実際の動作はそういえるものだろうか。
リボン型、コンデンサー型の振動板は、板というよりも箔や膜である。
理論通りに、振動箔、振動膜全面に均一に駆動力がかかっていれば、振動箔・膜に剛性は必要としない。
だがそう理論通りに駆動力が均一である、とは思えない。
たとえ均一に駆動力が作用していたとしても、実際のスピーカーシステムが置かれ鳴らされる部屋は残響がある。
無響室ではスピーカーから出た音は、原則としてスピーカーには戻ってこない。
広い平地でスピーカーを鳴らすのであれば無響室に近い状態になるけれど、
実際の部屋は狭ければ数メートルでスピーカーから出た音が壁に反射してスピーカー側に戻ってくる。
それも1次反射だけではなく2次、3次……何度も壁に反射する音がある。
これらの反射音が、スピーカーの振動板に対してどう影響しているのか。
これは無響室で測定している限りは掴めない現象である。
1980年代にアポジーからオール・リボン型スピーカーシステムが登場した。
ウーファーまでリボン型ということは、ひとつの理想形態だと、当時は考えていた。
それをアポジーが実現してくれた。
インピーダンスの低さ、能率の低さなどによってパワーアンプへの負担は、
従来のスピーカー以上に大きなものになったとはいえ、
こういう挑戦によって生れてくるオーディオ機器には、輝いている魅力がある。
アポジーの登場時にはステレオサウンドにいたころだから、聴く機会はすぐにあった。
そのとき聴いたのはシンティラだった。
そのシンティラが鳴っているのを、見ていてた。
オーディオ(audio)ということばが好きで、
サイトの名前はaudio sharingにした。
サウンド(sound)、ステレオ(stereo)よりも、audioを、
何かの名前を考えるときには使いたい、と思っているから、このブログも当然audioにした。
audio identityだと、検索してみると2008年の時点ですでにいくつかのサイトやブログで使われていた。
だからaudio identityのあとに括弧でくくって、designingをつけ、
audio identity (designing)と、すこし長い名前とした。
audio identityをどう日本語に訳すのかは、人によって多少違ってくるだろうし、
私自身は、audio identityにいくつかの意味をこめて使っている。
そのaudio identityにあえてdesigningをつけた──、designedではなくて。
designingをつけると決めた当初は、そのことについてそれほど深く考えていたわけではなかった。
でも、audio identity (designing)というタイトルのもとに毎日書いていくことで、
はっきりしてきたことがある。
audio identity (designing)は、2008年9月3日に始めた。
翌4日に「目的地」というタイトルで書いている。
そこに書いたことのくり返しになるが、だから(designed)となることは、ないといえる。
1989年12月25日に、ベルリンの壁崩壊を記念して、
バーンスタインがベートーヴェンの「第九」を指揮していることは、よく知られている。
このニュースをきいたとき、このとき存命中の指揮者で、
この「第九」にふさわしく思えたのは、やはりバーンスタインだった。
ジュリーニも素晴らしい指揮者で、私にとって大事な指揮者のひとりではあっても、
こういう場の「第九」だと、バーンスタイン以外に、誰か適任がいるだろうか、と思える。
ベルリンの壁がどういう存在であったのかは、文字、映画などで知っているだけである。
いつかは無くなる日が来るはず、とは思っていても、それがいつの日なのかはまったく見当がつかなかったし、
漠然とではあったが、それはずっとずっと遠い日のような気がしていたから、
ベルリンの壁崩壊のニュースを聞いたとき、信じられない、という思いが強かった。
もし日本が東西に壁によって分離されていたら……、そしてその壁がやっと崩壊したとしたら、
そのとき日本では、何が演奏されるだろうか、と考えたりもした。
自国の作曲家の作品でなにかあるだろうか。
やはり、ベートーヴェンの「第九」が演奏されるだろう、としか思えなかった。
ベルリンの壁の存在がどれほどの存在であったのかを実感している人間でないから、
こんなことを言えるのかもしれないが、
ベートーヴェンの「第九」をもつドイツ人は、倖せかもしれない、と。
ベルリンの壁はカラヤンが生きているときに建築され、
カラヤンが生きているあいだは存在していた。壁崩壊の4ヵ月前にカラヤンは亡くなっている。
別項の「プロフェッショナルの姿におもう」を書いているせいだろうが、
カラヤンがもしあと数ヵ月ながく生きていたら、もしかすると壁崩壊を記念しての「第九」を、
カラヤンもまた振ったことだろう。
ウィーン・フィルハーモニーとではなく、やはりベルリン・フィルハーモニーを指揮しての「第九」だったはず。
フルトヴェングラーは壁が建設される前にこの世を去っている。
カラヤンは壁があった時代に、クラシック界の頂点に昇りつめた。
ベルリンの壁はカラヤンの演奏に、なんらかの影響を与えていたのだろうか……。
カラヤンの最晩年の演奏は、壁の崩壊を予感していたのだろうか……。
こんなことは私の勝手な妄想にすぎないけれど、
なにかどこかカラヤンの演奏の変化はベルリンの壁の存在とリンクしているところがあるような気もする。
でも、これは私のこじつけでしかないはず。
それでも、カラヤンがもし生きていたら、
そのときの「第九」は永く語り継がれるものになっていた──、と、
なぜかそう信じられる。
ステレオサウンド 54号のスピーカー特集の記事の特徴といえるのが、
平面振動板のスピーカーシステムがいくつか登場しており、
ちょうどこのあたりの時期から国内メーカーでは平面振動板がブームといえるようになっていた。
51号に登場する平面振動板のスピーカーシステムはいちばん安いものではペアで64000円のテクニクスのSB3、
その上級機のSB7(120000円)、Lo-DのHS90F(320000円)、ソニー・エスプリのAPM8(2000000円)と、
価格のダイナミックレンジも広く、高級スピーカーだけの技術ではなくてなっている。
これら4機種はウーファーまですべて平面振動板だが、
スコーカー、トゥイーターのみ平面振動板のスピーカーシステムとなると数は倍以上になる。
ステレオサウンド 54号は1980年3月の発行で、
国内メーカーからはこの後、平面振動板のスピーカーシステムの数は増えていった。
私も、このころ、平面振動板のスピーカーこそ理想的なものだと思っていた。
ソニー・エスプリのAPM8の型番(accurate pistonic motion)が表すように、
スピーカーの振動板は前後にピストニックモーションするのみで、
分割振動がまったく起きないのが理想だと考えていたからだ。
それに平面振動板には、従来のコーン型ユニットの形状的な問題である凹み効果も当然のことだが発生しない。
その他にも平面振動板の技術的メリットを、カタログやメーカーの広告などで読んでいくと、
スピーカーの理想を追求することは平面振動板の理想を実現することかもしれない、とも思えてくる。
確かに振動板を前後に正確にピストニックモーションさせるだけならば、平面振動板が有利なのだろう。
けれど、ここにスピーカーの理想について考える際の陥し穴(というほどのものでもないけれど)であって、
振動板がピストニックモーションをすることが即、入力信号に忠実な空気の疎密波をつくりだせるわけではない、
ということに1980年ごろの私は気がついていなかった。
音は空気の振動であって、
振動板のピストニックモーションを直接耳が感知して音として認識しているわけではない。
まず、このリンク先にある”Years“と名付けられた動画を見てほしい。
薄くスライスした木の円盤の年輪を光学的に読み取って、音へと変換されていく。
オーディオの世界では、レーザーで音溝を読み取って再生していく、
いわゆるレーザーターンテーブルが存在しているわけだから、
こういうプレーヤーが登場する技術的下地はすでにあったわけで、
この”Years”の登場に対しては、技術的な驚きは感じずに、そのアイディアの面白さに魅かれるところがある。
Yearsの光学ピックアップが読み取るのは、
木の年輪であるからアナログディスクの音溝のように刻まれたものではない。
つまり平面の円盤上に描かれている年輪を読み取っているわけだから、
同じことはアナログディスクでも可能となる。
ようするに、これまでのレーザーターンテーブルは音溝の形状を読み取って再生していたわけだが、
音溝ではなく、音溝と音溝のあいだを読み取ることも充分可能ということになる。
この部分の形状は隣接する音溝の形状によってきまる。
レコードが1回転するだけの時間のズレが、この部分の形状をつくっていくわけだ。
レコードはrecordであり、re:codeと考えるのであれば、
この部分からは、どんな音楽が変換されていくのだろうか、とこんなことを考えてしまう。
ハークネスとS9500、このふたつのJBLのスピーカーシステムに対する田中一光氏の使い方は違う。
ハークネスに対しては、(私の勝手な解釈だが)田中一光氏は音を奏でる家具として、
S9500に対しては、いわゆるオーディオ機器としてスピーカーシステムとして、の使い方をされている。
S9500にはハークネスのような使い方は、もうまったく似合わない。
ハークネスとS9500とは、そういう性格の違いをもっているわけだ。
そしてハークネスとオリンパスにも、ハークネスとS9500ほどではないにしても、
同じ性格の違いがあると感じている。
ハークネスは田中一光氏の使い方もできる一方で、いわゆるスピーカーシステムとしても使いたくなる。
つまり通常のスピーカーシステムと同じように左右に拡げ、左右のスピーカーのあいだには極力物を置かずに、
スピーカーシステムの内側への振りも聴きながら調整して詰めていく。
このことが私にとって、ハークネスとオリンパスの大きな違いとして、ずっと以前からあるものだ。
結局、これは私にとっては、ハークネスとオリンパスのスピーカーシステム・デザインの違いである。
ハークネスとオリンパスとでは、オリンパスのS8Rともなれば、
ユニット構成はハークネスよりもワイドレンジ志向のものになり、ドライバーも375を採用するなど、
より本格的な再生を目指していくのであれば、ハークネスよりもオリンパスのユニット構成の方が可能性は高い。
そういう意味では、それに見合っただけの使いこなしが聴き手には求められるともいえるのだが、
オリンパスの雰囲気は、こまかい使いこなしをいくらか遠ざけてしまうようにも感じられる。
オリンパスは、音を奏でる家具としてはハークネスよりも徹底しているようにみえる。
だから家具として、オリンパスは、そういう使い方を聴き手に暗黙の了解として、求めている。
家具ということになれば、それが音を奏でるモノであっても、
多くの家具と同じように壁に寄せて置くことになる。
そういう置き方をしたときに、部屋の中にしっくりと収まるからだ。
音は「バランスが大事だ」とかなり昔からいわれつづけている。
まずは帯域バランス。それから音色の硬軟のバランス。情緒的な面と知性的な面とのバランス、陽と陰とのバランス。
こうやって例をあげていくと、いくつでも出てくる。
これらのバランスが見事にとれいてる総合的な音は、見事な音といえることだろう。
それが、いい音であるのか、は措いとくとしても、ケチのつけようのない音であることは確かなはず。
ただ、バランスでも、特に対比的・対称的・対照的な面に関わってくるバランスにおいては、
1対1、つまりぴったり同等であることが、美しい音を生み出すとはどうしても思えない。
1対1ではなくて、すこしどちらかに傾いたバランス、
それはおそらく黄金比とよばれる比率になるのかもしれないが、
そういうバランスの音こそが、
そしてその比率が、ときに音楽の表情の変化によって逆転することのできる音のみが、
美しい音として認識されてゆくような気がする。
こんなことを書いてはいても、
ではどうやって音の、そういう面のバランスを数値化が出来るのか、と問われても答えられない。
結局は、耳で判断するしかないことなのだから、そこに黄金比をもってくるのはもともと無理がある考え──、
そう思われてもいい。同意してくれる方がいなくてもいい。私もそう思っているところがある。
それでも感覚的な黄金比は確かにある、と感じていて、
この黄金比を己の感覚として身につけることが、私にとっての「音を表現する」ということになっていく……。
(その2)以降からスピーカーのエンクロージュアに焦点を絞って書いていくつもりでいた。
(その2)を、2、3日うちにでも書こうかな、と思っていた金曜日に、
「この空間から……」に川崎先生からのコメントがあった(facebookのほうで)。
(その1)で紹介した写真を見たときから、この空間を、なんと表現しよう、と考えていた。
考え出す前に、(その1)を書いて公開したのは、
やはり、1日でもはやく、一人でも多くの人に、
これらの写真(ベルリンフィルハーモニー室内楽オーケストラのポスター)を見てもらいたかったからなのだが、
だからこそ、川崎先生の表現を目にしたとき、
正直、こういう言葉は出てこなかったことに気づかされ、
同時に、この項の(その2)以降の内容も変えていこうと触発もされた。
とはいっても、いまはまだ川崎先生の、コメントに書かれたその表現を頭のなかでくり返しているだけでだから、
いますこし時間がかかるけど、それでもわくわくするものを感じている。
川崎先生のコメントを読むにはfacebookのアカウントが必要で、
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