Author Archive

Date: 12月 29th, 2016
Cate: iPod

ある写真とおもったこと(その12)

インサイドフォースキャンセラーがついているトーンアームでは、
取り扱い説明書にゼロバランスを取る時は、
キャンセル量をゼロにすること、と書かれている。

SMEのように重りを吊り下げているモデルでは、
重りを外してゼロバランスをとるように、と書かれている。

にも関わらず、ゼロバランスをとる際に、
インサイドフォースキャンセラーの重りをそのままにしている人を見かけたことがある。

ステレオサウンドで働いていたころは、
実は私もインサイドフォースキャンセラーの重りは、いちいち外してはいなかった。

試聴という環境で、カートリッジを頻繁に交換する場合、
インサイドフォースキャンセラーの重りを外して、またつける手間は、
塵も積もれば……で、けっこうな量になる。

だから重りを指で下から持ち上げてインサイドフォースキャンセラーがかからないようにして、
ゼロバランスを調整していた。

慣れれば、これできちんとゼロバランスはとれる。
念のため、この方法でゼロバランスをとって、針圧ウェイトを調整して印可した針圧を、
針圧計で確認したことがあるが、問題なかった。

でも私が見た例は、そうではなかった。
重りをそのまま吊り下げたままだった。
ということは、他のタイプのインサイドフォースキャンセラーでも、
目盛をゼロにすることなく、ゼロバランスをとっている人がいるとみていいだろう。

CDプレーヤーは、そんなことはない。
きちんとした設置をすれば、最低レベルの底上げを果していた。

それにCDプレーヤーは安価なモノであっても、非常に高価なモノであっても、
物理特性的にもほとんど差がない。
16ビットで44.1kHzという枠が決っているからである。

音はもちろん違うが、アナログプレーヤーと比較すれば差の違いは狭い。
つまり録音された音楽の共通体験という点だけでみれば、
アナログディスク、アナログプレーヤーよりも、
CD、CDプレーヤーのほうが優れている、ということになる。

このことをさらに一歩も二歩も押し進めたのが、iPodの登場であり、
デジタルの利点をCDプレーヤー以上に、この点で活かしたともいえる。

Date: 12月 29th, 2016
Cate: iPod

ある写真とおもったこと(その11)

アナログディスク再生が、プログラムソースのメインであった時代は、
アナログプレーヤーに関する調整によっても、
アナログプレーヤー関連のオーディオ機器によっても、
同じレコードから得られる音は、大きく違っていた。

同じアナログプレーヤーであっても、
設置、調整する人が違えば、音はそうとうに変化する。

ベテランと自称する人ほど多いように感じるのは、
トーンアームのゼロバランスをうまくとれない人である。

私だけがそう感じているのではなく、
SNSを見ていると、同じように感じている人がいることがわかる。

カートリッジをトーンアームに装着して、まず何をするかといえば、
ゼロバランスの調整である。
ゼロバランスがきちんととれていなければ、そこから先は進めない、といえる。

にも関わらすゼロバランスがうまくとれない人が少なからずいるのは事実である。
ゼロバランスがうまくとれないことを自覚しているのであれば、
誰か確実な人に代りにとってもらえるが、
とれない人に限って、とれていると思っている節がある。

ゼロバランスが狂っていては、針圧が目盛通りには印可されない。
そういう人は針圧計を使っては、このトーンアームは針圧の目盛がおかしい、
うまく針圧がかからない、などと責任転嫁しがちである。

アナログプレーヤーに関する設置、調整については、ここではこれ以上細々したことは書かないが、
そのくらい使う人(設置、調整する人)によって、レベルが大きく違っている。

それにハードウェアも、性能に違いがある。
価格の安いモノ、高いモノ、新しいモノ、古いモノなど、実にさまざまであり、
それらが混在した状態のプレーヤーシステムもある。

そういうアナログディスク再生では、ひとりひとりが鳴らしている音の違いは、
千差万別であり、大きく違っていた。

それがデジタル(CD)の登場により、
ある最低ラインは保証されるようになった。

Date: 12月 29th, 2016
Cate: 進歩・進化

メーカーとしての旬(その3)

2017年は、iPhone登場10周年にあたる。
日本でiPhoneが売られる(使える)ようになったのは、iPhone 3Gからである。

すぐにでもiPhoneにしたかったけれど、しなかったのは、
扱っていたのがソフトバンクだったからだ。

それでも何度か乗り換えようか、と考えた。
iPhone 4が出たときは、かなり心が動いたけれど、それでもしなかった。
ソフトバンクが嫌だった、という気持が、
iPhoneを使いたい、という気持よりも強かったからだ。

2011年秋登場のiPhone 4Sから、auも扱うようになった。
やっとiPhoneに機種変更できる、いままで我慢してきてよかった、と思った。

それまでの携帯電話(いわゆるガラケー)とは、まるで異っていた。
同じiOSのiPadは2010年から使っていたが、これともiPhoneは違う。

もっと早くiPhoneにしておけば……、という気持を、
その時まったく感じなかったわけではないが、我慢してきてよかった、とも思っていた。

iPhone 4Sを手に入れた日(発売初日に買った)は、
ブログを書くことも忘れて触っていた。
何時間触っていただろうか、ブログを書かなければ……、ということで触るのをやめたほどだ。

初めてiPhoneを手にしたときの感じたものに比べれば、
その後登場した新しいiPhoneに触れたときに感じたものは、小さいし少ない、といえる。

それまでのガラケーからiPhoneへの変化と、
古いiPhoneから新しいiPhoneへの変化は同じには、当然だが感じるわけではない。

だからといってiPhoneの旬が終っている、とは私は思っていない。
10年前のiPhone登場のころといまとでは、
iPhoneをとりまく環境も大きく変化している。

この変化が、iPhoneの在り方を変化させていてもいるわけで、
2007年のiPhoneが、iPhone単体の環境であったのに対し、
いまのiPhoneは、iPhoneをハブとする環境へ変化している。

iPhone単体だけを見て、あれこれいう時代は終っているのだ。

Date: 12月 28th, 2016
Cate: 正しいもの

正しい聴き方と自由自在な聴き方(self reliance)

マルチアンプのすすめ(その27)」で書いたことを、
もういちどここでも書いておこう。
     *
仏教学者の鈴木大拙氏は、「自由」の英訳を、
辞書に載っているfreedomやlibertyではなく、self relianceとした、ときいている。
     *
ここでいっている聴き方にかかってくる自由とは、freedomではない。
self relianceであるからこそ、そのためにも正しい聴き方を身につけたいのだ。

Date: 12月 28th, 2016
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その16)

オーディオの想像力の欠如の怖さは、楽な聴き方に安住してしまっていることを、
本人に気づかせないことにある。

Date: 12月 28th, 2016
Cate: 正しいもの

正しい聴き方と自由自在な聴き方

好きな音と嫌いな音があるだけだ、という人は、いわば好きな聴き方をしている。
私も好きな聴き方をするし、好きな聴き方よりも正しい聴き方を上位の聴き方とは考えていない。

むしろ好きな聴き方を、正しい聴き方よりも上位の聴き方だと考えている。

ここでの好きな聴き方は、
私が考える好きな聴き方と、
好きな音と嫌いな音があるだけだ、という人の好きな聴き方は、同じとはいえない。

同じである場合もあるだろうが、
好きな音と嫌いな音があるだけだ、という人の好きな聴き方は、
手前勝手な、ひとりよがりな聴き方が多いように感じている。

私は、そんな聴き方を好きな聴き方とは考えていない。
好きな聴き方とは、正しい聴き方を身につけての聴き方であるからだ。

正しい聴き方を身につけずにの好きな聴き方と、
正しい聴き方を身につけての好きな聴き方を同じに捉える人はいないはずだ。
私ははっきりと分けている。

ふたつの好きな聴き方だとごっちゃに受けとめられやすい。
だから、正しい聴き方を身につけての好きな聴き方は、自由自在な聴き方としたい。

Date: 12月 27th, 2016
Cate: 正しいもの

正しい音と正しい聴き方(蛇足とわかっていても)

ここでのタイトルは「正しい聴き方」でもなく「正しい聴き方とは何か」でもなく、
「正しい音と正しい聴き方」にしている。

Date: 12月 27th, 2016
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その15)

オーディオの想像力の欠如は、正しい音の存在の否定へと傾く。
そして正しい聴き方から遠ざかっていく。

Date: 12月 27th, 2016
Cate: audio wednesday

第72回audio wednesdayのお知らせ(セッティングとチューニングの境界)

オーディオにおけるチューニングとは、
正しい聴き方を身につけるための作業、といえる面をもつ。

一回の音出しで、そこまで踏み込めるかどうかはなんともいえない。
それでも2017年のaudio wednesdayでは、このことを一年を通してのテーマにしていきたい。

2017年最初のaudio wednesdayは、1月4日。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 12月 27th, 2016
Cate: 正しいもの

正しい音と正しい聴き方(その1)

正しい音と正確な音が同じとは考えていない。
間違っている音があると考えている。
正しい音があると考えている。

そう考えない人がいることは知っている。
好きな音と嫌いな音があるだけだ、と、そういう人はいう。

正しい聴き方がある。
正しい聴き方をしていなければ、正しい音は聴きわけられない。

正しい音を聴こうとしなければ、正しい聴き方は身につけられない。

正しい音と正しい聴き方。
常に考えていかなければならないことだと思っている。

Date: 12月 26th, 2016
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」

二度目の「20年」が今年だ。

NHKで「3月のライオン」というアニメが放映されている。
毎週楽しみにしている。

先日の11話もよかった。
二回見た。
昭和の大晦日、昭和の正月が描かれている。

今年は一週間もない。
年末にも関わらず、あまり、そんな感じがしてこない。

「3月のライオン」11話を見て、
あっ、そうだ、もう今年も終りだ、
そんなあたりまえすぎることを感じていた。

毎回見ている。
だからオープニングとエンディングは、毎回見る必要はない。
そういえないことはない。
でも、毎回見ている。

エンディングの最後のシーンが見たいからかもしれない。
詳しいことは書かない。

二人の少年が描かれている。
私にもいる、と思う。毎回見ていて思っている。

「五味オーディオ教室」で出逢った13歳の少年だった私だ。
このときからオーディオ少年だった。

いまはオーディオマニアと口では言っているが、
心の中ではオーディオ少年だ。

Date: 12月 26th, 2016
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その14)

オーディオの想像力の欠如が生むのは、音だけでなく音楽をも所有できるという錯覚だ。

Date: 12月 26th, 2016
Cate: ジャーナリズム, 楽しみ方

ある試みと思い出したこと(余談)

昨日のブログで取り上げたオタイオーディオの取り組み。
この取り組みが、オタイオーディオのブログで公開されたのが12月21日。
私は四日遅れで、facebookを通じて知った。

だから昨日(12月225日)に書いた。

今日(12月26日)、
ステレオサウンドのウェブサイトでも、オタイオーディオの,この取り組みが取り上げられている。
Stereo Sound ONLINE 編集部・佐藤めぐみ氏が記事を書かれている。
ホームパーティーにピュアオーディオを。名古屋のオタイオーディオが、日本ホームパーティー協会とコラボ
というタイトルがついている。

一日遅れで、ステレオサウンドのウェブサイトが記事にしている。
きっと、偶然なのだろう。

私のブログを読んで、オタイオーディオの取り組みを知ったわけでもないだろう。

Date: 12月 26th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ラックスCL32・その10)

この項は、(その3)ぐらいで終るつもりで書き始めた。
なのに(その10)まで来てしまっているし、もう少し書くつもりでいる。

書きながら、なぜ長くなっていくのか、と考えてもいる。
     *
 昭和三十三年ごろ、つまりレコードがステレオ化した頃を境に、私はインダストリアルデザインを職業とするための勉強を始めたので、アンプを作る時間もなくなってしまったが、ちょうどその頃から、ラックスもまた、有名なSQ5Bをきっかけに完成品のアンプを作るようになった。SQ5Bのデザインは、型破りというよりもそれまでの型に全くとらわれない新奇な発想で、しかも♯5423やXシリーズのトランスのデザインとは全く別種の流れに見えた。
 途中の印象を飛ばすと次に記憶に残っているのはSQ38である。本誌第三号(日本で最初の大がかりなアンプ総合テストを実施した)にSQ38DSが登場している。いま再びページを開いてみても当時の印象と変りはなく、写真で見るかぎりはプロポーションも非常に良く、ツマミのレイアウトも当時私が自分なりに人間工学的に整理を考えていた手法に一脈通じる面があってこのデザインには親近感さえ感じたのに、しかし実物をひと目見たとき、まず、その大づくりなこと、レタリングやマーキングの入れ方にいたるまですべてが大らかで、よく言えば天真らんまん。しかしそれにしては少々しまりがたりないのじゃないか、と言いたいような、あっけらかんとした処理にびっくりした。戦前の話は別として♯5423以来の、パーツメーカーとしてのラックスには、とてつもなくセンスの良いデザイナーがいると思っていたのに、SQ5BやSQ38を見ると、デザイナー不在というか、デザインに多少は趣味のあるエンジニア、いわばデザイン面ではしろうとがやった仕事、というふうにしか思えなかった。
 少なくともSQ505以前のラックスのアンプデザインは、素人っぽさが拭いきれず、しかも一機種ごとに全く違った意匠で、ひとつのファミリーとして統一を欠いていた。一機種ごとに暗中模索していた時期なのかもしれない。その一作ごとに生まれる新しい顔を見るたびに、どういうわけか、畜生、オレならこうするのになア、というような、何となく歯がゆい感じをおぼえていた。
 ほかのメーカーのアンプだって、そんなに良いデザインがあったわけではないのに、ラックスにかぎって、一見自分と全く異質のようなデザインを見たときでさえ、おせっかいにも手を出したくなる気持を味わったということは、いまになって考えてみると、このメーカーの根底に流れる体質の中にどこか自分と共通の何か、があるような、一種の親密感があったためではないかという気がする。
     *
瀬川先生によ「私のラックス観」からの引用だ。
(ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」ラックス号より)

現在のラックスの一部のアンプのデザインについて書いている。
いいことを書いているわけではない。

ラックスのアンプのデザインだけがだめだというわけではない。
瀬川先生が書かれているように「ほかのメーカーのアンプだって、そんなに良いデザイン」ではない。
なのに、なぜラックスのアンプについてだけ、書きたいことがとまらないのか。

瀬川先生はインダストリアルデザイナーを志されていたから「おせっかいにも手を出したくなる気持」に、
私はデザイナーではないけれど、おせっかいとわかっていても、
何かいいたくなる気持がわいてくる。

これはきっと私だけではないはずだ。
ラックスの歴史は長い。
それだけに多くのユーザーとファンがいる。

昔からのユーザーとファンは、大なり小なり、一種の親密感をおぼえているだろうから、
黙っていられないところがある──、私は少なくともそうである。

Date: 12月 25th, 2016
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その10)

人はいつか死ぬ。
死を避けることのできる人なぞいない。

そんなことみなわかっている。
にも関わらず、死ぬということをわすれてしまいがちでもある。

いつでも会える。
そう思っていないだろうか。

たしかにお互いが生きていれば、いつでも会える。
でも人は死ぬのだ。

いつか死ぬ。
こんなことを書いている私だって、いつ死ぬのかはわからない。
20年後かもしれない。もっと後かもしれない。
でも、もしかしたら明日、事故にあって……、ということだって、
可能性としてはあるわけだ。

会って話すことは、互いが生きているからだ。
相手が生きていて、私が生きていてこそ、会って話せる。

このことを忘れないでほしい。
憶えていても、つい先延ばしにすることがある。
そこでの後悔は、どうしようもない。

岩崎千明氏のこと(その5)」に書いた。
年明けにでも、と思っていたから、急ぐ気持はなかった。

人はある日突然いなくなる。
会えなくなる。