ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その61)
とにかくフォノイコライザーの基板を取去ったThaedraを接いだThe Goldの音は、
最初にすべての基板を搭載したままで聴いた音を、意外性ということでもさらに上をいっていた。
Thaedraで聴く前のThe Goldの音も素晴らしかった。
変幻自在とでもいいたくなるほど、The Goldによって鳴らされるスピーカーの音は、表現力が拡がっていく。
その自在さがThaedraによってさらに拡がり、
フォノイコライザーなしのThaedraにて、まだ先があるのか、とも思ってしまった。
見方をかえれば、ここまでThe Goldは、
その入力につながるモノの性格をそうとうにストレートに反応し出してくるともいえるし、
それだけの駆動力をもっているからこそスピーカーをあれだけ鳴らせるのだ、ともいえる。
The Goldの、こういう凄さは、それまでも、充分にわかっているつもりでいた。
なのにThaedraの初期モデルという、この時点で旧型ともいえそうなアンプによって、
The Goldが真価を発揮したことも、私には意外な変化であったわけだ。
このときは、Thaedraにした時の音の変化の大きさ、凄さに驚いてしまっていた。
だから気がついていなかったことがある。
だから、いま振り返ってみて気がつくことがある。
The Goldの音をひと言で表現すると、朦朧体だと思う。
音の輪郭線に頼らずに、音を立体的に、自然に、それでいて克明に表現してくれる。
だから輪郭線が細い、とか、太い、といった表現はThe Goldにはあてはまらない。
もともと音の輪郭線に頼る輪郭の表現ではないからだ。
私が聴いたThaedraも、基本的にはThe Goldと同じ表現方法によるアンプである。
けれど、そういう表現のもつ深さに、このときの私はまだ気がついていなかった。
音における朦朧体をきっきりと意識するようになったのは、
もう少し先のことである。
ジャーマン・フィジックスのスピーカーを聴くまで、かかった。