80年の隔たり(その2)
小学校に上がるまで暮らした家は、
ひんやりしているところも、薄暗いところもあった古い木造家屋だ。
だから、怖いテレビや本をみたり読んだ夜は、ひとりでトイレに行くのを避けたかった。
いまの、隅々まで光が行き届いた、マンションに住む子供は、そんな思いはしないような気もする。
アコースティック録音から電気による録音、SPからLP、
モノーラルからステレオ、アナログからデジタル、と変化するごとに情報量は増え、
それは隅々まで光が行きとどいた、薄暗さをなくした部屋のようになってしまうのか。
細部までよく見える(聴こえる)。かわりに陰影は薄れていく。
そんな(陰影なんて)のは、音がマスキングされた結果、
もしくは音をマスキングするものだから、要らない、という人もいて当然だと思うが、
ティボー/コルトーのフランクのヴァイオリン・ソナタを聴いていると、そうじゃないとも思う。
プログラムソースの情報量は増えている。シュワルツベルグ/アルゲリッチのフランクの、
音の漂う感じ、質感の素晴らしさ、そして実体感の見事さは、
最新の、最良の録音だからこそ捉えたものだろう。
私たちは、聴こうと思えば、どちらも聴ける世界に住んでいる。
だから、いまの時代の陰影を求めてみたい。