快感か幸福か(その13)
山中先生のリスニングルームでの、この体験をこれまで何人かに話したことがある。
興味を持って聞いてくれる人もいれば、まったく無関心という人もいるのが世の常かと思っているが、
無関心な人は徹底して無関心なところが、私にとっては興味深いことでもある。
なぜ無関心なのか、は、その人なりの理由があってのことだろうし、
こういう経験はなかなかできないから、実際に経験してみないことには実感がつかみにくいことだろうとは思う。
だが、自分が経験していないことだからこそ、関心をもつ人もいる。もたない人もいる。
人さまざまだと思うし、すくなくとも関心をもってくれる人と私は、共通するところを聴いているといえるだろうし、
関心のまったくない人と私には、そういう共通するところは聴き方においてあまりないのかもしれない。
山中先生のリスニングルームでの体験は、
そこに招かれた者として聴いていたときには、先に書いているように山中先生の音とは思えなかった。
けれど前のめりになって、少なくとも気持のうえだけでも山中敬三になったつもりで聴き挑む姿勢になったとき、
音は、はっきりと変っていた。
関心のない人は、それはあなたの気のせい、思い込みだよ、とばっさり切り捨てるに違いない。
だが、そう単純に(というか、私には短絡的に、と思える)言い切れることとは、どうしても思えない。
いま手もとに1970年代のスイングジャーナルがけっこう冊数あって、
そこからジャズ・オーディオに関する文章を拾い出している。
facebookの「オーディオ彷徨」というページには、それらは公開している。
昨日、菅野先生による文章を見つけた。
「音楽とオーディオにかかわり合う心情的世界をかいまみて」というタイトルがつけられた、
スイングジャーナル1972年12月号に掲載されたものだ。
これも、facebookの〝ここ〟で公開している。
菅野先生が、ここに書かれていることが、また興味深い。
註:「音楽とオーディオにかかわり合う心情的世界をかいまみて」を読むには、facebookのアカウントと、
私がやっていますfacebookグループ「audio sharing」へ参加していただくことが必要となります。