陰翳なき音色(その5)
ハタチになるかならないかのころ、
クラリネット奏者といえば、
ベニー・グッドマンをまず思い浮べるだけのころ、
レオポルト・ウラッハを、サウンドボーイの編集長だったOさんからすすめられて、
はじめて聴いた。
そころウラッハのレコードは国内盤しかなかった。
音の艶に欠けがちな、という印象のある国内盤であっても、
ウラッハの音色は、ベニー・グッドマンをはじめて、
他のクラリネット奏者とは大きく違って、私の耳には聴こえた。
佳き時代のウィーンの香りが漂う──、
そんな陳腐な表現しか、その時は思い浮ばなかったけれど、
でもまさにそういう響きが、ウラッハのクラリネットの音からは感じられた。
そして、これが国内盤ではなく、いわゆるオリジナル盤だったら──、
その香りにむせたりするのだろうか──、そんなこともおもっていた。
マルティン・フレストのクラリネットを聴いていて感じたのは、
ウラッハの音に感じた香りが稀薄なのかもしれない、ということだ。
同じ香りがでなければならないなんて、いう気はもちろんない。
けれど、香りが稀薄と感じてしまうのはなぜなのか。
フレストの音に、もともとそういう香りがないのだろうか。
それとも私が感じていないだけなのか。
自分の体臭は気づかないものである。
同じことが時代の香り(匂い)についてもいえるのではないのか。
それゆえに、いまはフレストから感じていないだけなのかもしれない。