新製品(マッキントッシュ MC3500・その5)
ステレオサウンド 52号特集の巻頭「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」で、
瀬川先生がこう書かれている。
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ずっと以前の本誌、たしか9号あたりであったか、読者の質問にこたえて、マッキントッシュとQUADについて、一方を百万語を費やして語り尽くそうという大河小説の手法に、他方をあるギリギリの枠の中で表現する短詩に例えて説明したことがあった。
けれどこんにちのマッキントッシュは、決して大河小説のアンプではなくなっている。その点ではいまならむしろ、マーク・レビンソンであり、GASのゴジラであろう。そうした物量投入型のアンプにくらべると、マッキントッシュC29+MC2205は、これほどの機能と出力を持ったアンプとしては、なんとコンパクトに、凝縮したまとまりをみせていることだろう。決してマッキントッシュ自体が変ったのではなく、周囲の状況のほうがむしろ変化したのには違いないにしても、C29+MC2205は、その音もデザインも寸法その他も含めて、むしろQUADの作る簡潔、かつ完結した世界に近くなっているのではないか。というよりも、QUADをもしもアメリカ人が企画すれば、ちょうどイギリスという国の広さをそのまま、アメリカの広さにスケールを拡大したような形で、マッキントッシュのサイズと機能になってしまうのではないだろうか。そう思わせるほど近ごろ大がかりな大きなアンプに馴らされはじめた目に、新しいマッキントッシュは、近ごろのアメリカのしゃれたコンパクトカーのように小じんまりと映ってみえる。
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《決してマッキントッシュ自体が変ったのではなく、周囲の状況のほうがむしろ変化したのには違いないにしても》
とある。
「五味オーディオ教室」から始まった私のオーディオだけに、
この点は、確かにそうだな、と思いながら読んでいた。
といっても、この時点で、マッキントッシュのアンプの音を聴いていたわけではない。
五味先生、瀬川先生の書かれたものを信じて、思っていたわけだ。
(その1)で引用した五味先生の文章。
そこには、《MC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある》
とある。
これこそまさに大河小説のアンプではなく、短詩で表現するアンプである。
そのMC275に対してMC3500は、大河小説的なアンプであったわけで、
MC3500だけが、当時のマッキントッシュのアンプのなかで特別だった、ともいえる。
そこからさらに四十年ほどが経っているわけで、
昔のMC3500も、52号で瀬川先生が書かれたように感じてしまうのだろうか。
そして新しいMC3500は、どう感じるのか。