ケンプだったのかバックハウスだったのか(コーネッタで聴いておもったこと)
昨晩のaudio wednesdayの最後には、
バックハウスとケンプのベートーヴェンをかけた。
時間があれば、もっとじっくりと、この二人のベートーヴェンを鳴らしたかったけれど、
気がついたら、時間はそれほど残っていない。
なので、バックハウスの32番を最初から最後まで鳴らした。
そのあとに、ケンプの32番の二楽章だけを鳴らした。
どちらが素晴らしい演奏か、という比較をしたかったわけではない。
二人ともMQAで聴けるようになった。
だから、聴きたかった、という理由だけである。
こうやって鳴らすことが、めったにしない。
クラシック好きの人ならば、同じ曲の聴き比べをする。
ベートーヴェンの32番を一枚しか持っていない、という人は珍しいだろう。
何枚かの32番が、クラシック好きの人のコレクションにはある。
それらをすべてひっぱり出してきて、一度に聴き比べる──、
ということを、私はほとんどしたことがない。
32番も、何枚も持っているけれど、
一度に並べて聴いての印象をもっているわけではなく、
違う日に聴いての、それぞれの演奏(録音)に対しての印象を持っているだけである。
どれがいちばんいいのかを決めたいわけでないのでから、それでいいし、
ずっとそうやってきた。
なので昨晩は、32番の二楽章はたてつづけに聴いた。
五味先生がさいごに聴かれたのは、ケンプだったことは、以前書いている。
昨晩、ケンプを聴いていて、人生の最期には、ケンプを聴きたい、とおもっていた。
だからといって、ケンプの32番をバックハウスの演奏より素晴らしい、と思ったわけではない。
バックハウスの32番は、この世を去ったあとに鳴らしてほしい、とおもっていた。
たぶん、私はこのままずっと独り暮しのままだろう。
くたばったときに、誰かが傍にいてくれるということは、ほぼないだろう。
だから、誰かがバックハウスの演奏を鳴らしてくれるわけではない。
でも、何があるかはわからないのが人生だから、
もしかすると誰かがいてくれるのかもしれない。
そうなったのであれば、ケンプは生きているうちに聴いておきたい。
バックハウスは、死んだあとに鳴らしてくれればいい。
そんなふうに感じる二人のベートーヴェンだった。