オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(あるオーディオ評論家のこと・その5)
いまのオーディオ業界にいる一流ぶったオーディオ評論家と、
私がオーディオ評論家(職能家)と思っている人たちとの大きな違いはなにか。
その一つは、意志共有できるどうか、だと思う。
一流ぶることなく「私は二流のオーディオ評論家ですから」という人は、どうか。
意志共有できていた、ようにも思うところもある。
そうだからこそ、「私は二流のオーディオ評論家ですから」といえるのではないのか。
そこまでの才能がないことを自覚している。
そのうえで、オーディオ評論家としての役目を考え、
そのうえで自分の役割を果たしていくことは、意志共有できていたからではないのか。
一流のオーディオ評論家がすべての役割をこなしていけるわけではない。
役割分担が必要になってくる。
一流ぶったオーディオ評論家も、二流のオーディオ評論家である。
同じ二流のオーディオ評論家でも、
「私は二流のオーディオ評論家ですから」といったうえで、自分の役割をはたしていく人、
一流ぶるだけの人たち。
一流ぶっているオーディオ評論家は、一流ぶっているうちに、
役割を忘れてしまった(見失ってしまった)のではないのか。
それでも一流ぶることに長けてしまった。
一流ぶっているだけ、と見抜いている人もいれば、そうでない人がいる。
そうでない人を相手に、オーディオ評論という商売をしていけば、
これから先も一流ぶって喰っていける。
一流ぶっている人のなかには、以前は、役割を自覚していた人もいるように思う。
なのに、自身の役割から目を背けてしまったのではないのか。
一流ぶることなく「私は二流のオーディオ評論家ですから」といい役割を忘れていない人、
一流ぶることに汲々として、役割を放棄した人、
そして見極められない読者がいる。