Date: 7月 14th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド
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編集者の悪意とは(その16)

ステレオサウンド 74号掲載の記事は、
Celloを興したばかりのマーク・レヴィンソンへのインタヴューである。

ここには筆者名がない。
ほんとうは筆者名(オーディオ評論家)が入るはずだった。

マーク・レヴィンソンにインタヴューしたのは、その人であった。
記事をまとめて原稿を書いたのは、その人である。
けれど、記事には筆者名がないのは、
これも〆切りをすぎてあがってきたうえに、ひどい内容だったからだ。

書き直してもらう──、
その選択肢は時間的余裕がすでになくて無理だったし、
ここでも書き直してもらったからといって、よくなる可能性は低かった。

結局、どうしたかというと、私が書くこと、まとめなおすことになった。
筆者に渡していたテープ起しのワープロ原稿と録音したカセットテープとがある。

このテープ起しは、編集部で行ったのではなく、テープ起し専門の会社に依頼したものだった。
以前から、この会社に依頼していて、
担当もその都度かわるのではなく、専門用語が出てくることもあって、
同じ人がやってくれていたようだったが、それでもオーディオに関心のない人には、
荷が重い作業のはすだ。

テープを、今度は私が聞いてワープロで文字にしていった。
そのうえで新たに記事としてまとめたのが、74号に載っているものである。

この記事も私が担当ではない。
けれど時間が迫っていればそんなことはいってられない。

それに私が新たに書いたもののほうが、ずっと濃い内容になっている。
というか、なぜ、あそこまで薄い内容にまとめられたのかが、不思議なほどである。

ここまで読まれた人のなかには、
沢村とおる氏の名前は出していて、
74号の記事では、誰なのか書かないのか、と疑問に思われるかもしれない。

沢村とおる氏の場合は、不本意ながらそのまま原稿が記事になっているから、
記事に沢村とおる、とある。

けれどCelloの記事は、私の原稿だから、
編集部原稿となってしまったから、筆者名はない。
だから、ここでの誰なのかは書かないだけである。

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