Date: 7月 14th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド
Tags:

編集者の悪意とは(その15)

いまになって、三十年も前のことを、
具体的に書く必要があるのか、と疑問に思う人もいていい。

沢村とおる氏をダメな書き手と思われる人もいるだろうし、
私に批判的な人もいよう。

この項を読まれて、どう思われるのか。それは読み手の自由であって、
私は、編集者の悪意とは何か、について考えてもらいたいだけである。

沢村とおる氏の原稿を、担当者から「なんとかしてくれ」と渡されるまで、
こんな記事があったのを知らなかった。

アンケートの項目についても、どうも沢村とおる氏にまかせっきりだったようだ。
ステレオサウンドは70号の管球式アンプの特集でも、
国内外の管球アンプのメーカーにアンケートを送っている。

そこでの質問は、すべて編集部で話しあいながら決めたものだった。
私が出した質問も、二、三採用された。

こんな原稿になったのは、沢村とおる氏だけの責任ではない、とも思う。
それでも〆切りをすぎて、この程度の原稿である。
書き直してもらう時間も、書き直してならったからといって、よくなる保証はない。

せめてメーカーからアンケートへの回答が手元にあれば、まだどうにかできた可能性はあったが、
それすらない。
あるのは〆切りをすぎた程度の低い原稿のみである。

同じことは別の筆者でも、以前にあった。
74号(1985年春号)掲載の、
「Cello by Mark Levinson ミュージックレストアラー〝オーディオパレット〟登場」
がそうである。

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