Date: 7月 14th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド
Tags:

編集者の悪意とは(その14)

ステレオサウンド 88号で、
沢村とおる氏は、
《ユニットとエンクロージュアを相互に考えながら、一体化して考えていく》のが、
スピーカーの専門家(いわばメーカー)の考え方であって、
《ユニット構成に基づいて、それに一番適合したエンクロージュアを考える》のは、
アマチュアの考え方として書かれているが、
それはあくまでも沢村とおる氏の目にうつっている範囲内でしかない。

海外のスピーカーメーカーに目を向ければ、そうでないことは誰の目にも明らかなのに、である。
ここでのテーマは、
海外のスピーカーメーカーと日本のメーカーの、
スピーカー開発における考え方・手法の違いについて述べることではないので、
これ以上詳しくは書かないが、
JBLにしてもタンノイにしても、それからKEFもそうなのだが、
日本のメーカーが、新しいスピーカーを開発するにあたって、
新しいユニット、さらには新しい素材による振動板から開発するのに対して、
海外のメーカーは、既存のユニットをベースに、システムを組み立てていく。

もちろん、そこには既存のユニットであっても、
《ユニットとエンクロージュアを相互に考えながら、一体化して考えて》いっているはずであり、
アマチュアであっても、それは同じである。

もちろんアマチュアにはユニットを開発していくことは無理ではあるが、
既存のユニットを選び使い、
《ユニットとエンクロージュアを相互に考えながら、一体化して考えていく》ことは可能である。
なかには、そうでないアマチュアも少ないないとは思うが、
だからといって、沢村とおる氏の捉え方は、狭すぎる。

何かについて書くにあたって、
すべてのことを書くことは、まず無理である。
どこかで情報の取捨選択を迫られる。

それに書き手が、書くテーマについてすべてを知っていることなんて、
まずありえない。

意図的な取捨選択、そうでない取捨選択が常にあるのが原稿といえよう。

Leave a Reply

 Name

 Mail

 Home

[Name and Mail is required. Mail won't be published.]