Date: 6月 15th, 2019
Cate: ベートーヴェン
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ベートーヴェンの「第九」(その21)

ベートーヴェンの「第九」、私は名曲だと思っているけれど、
音楽を聴く人のすべてが、
「第九」を名曲だと思っていなければならないと考えているわけではない。

「第九」をつまらない曲と思っている人がいてもかまわない。
それでも、こんなこんなことを書いているのは、
「第九」から歌を取りのぞけば──、そういう発想をする人がいることに、
少々驚いているからだ。

「第九」の四楽章から歌を取りのぞく、
そんなことを考えたことは一度もなかった。

なかっただけに、
「歌が入っていなければ、いい曲なのに……」という発言の裏には、
「第九」の四楽章から、
歌を取りのぞける(取りのぞけたら)という考えがある、というふうに受け止めてしまう。

歌は、オーケストラの演奏と一体となっている。
いままでこんなことを考えてみたことがなかっただけに、
「歌が入っていなければ、いい曲なのに……」を聴いて、
よけいに一体となっていることを改めて感じた。

それだけに「歌が入っていなければ、いい曲なのに……」、
四楽章で歌が入ってくることでだいなしに、しかも演歌にしている──、
そういったことを聞いたり読んだりすると、
この人たちは、「第九」に涙したことはないんだな、と思う。

私が小澤征爾/ボストン交響楽団の「第九」を聴いて涙したのは、
四楽章の歌が始まってからだったし、
年末に刑務所で「第九」を聴いて号泣した受刑者も、たぶんそうであろう。

受刑者の、その人は、おそらく「歓喜の歌」のことはまったく知らなかったのではないか。
ドイツ語もまったく理解していなかったのではないか。

それでも「第九」の四楽章で、
“O Freunde, nicht diese Töne!”(「おお友よ、このような音ではない!」)と、
バリトン独唱が歌う、そのところで涙したのではないのか。

そして、そこからは最後まで涙していたようにおもう。

そういう力が「第九」にはある。

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