菅野沖彦氏のこと(「僕のオーディオ人生」)
菅野先生の「僕のオーディオ人生」(音楽之友社刊)のあとがきだ。
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長々と私の拙い履歴書めいた一文を通読していただき恐縮至極である。もともと、この文章は昭和五十六年にステレオサウンド社発行の『サウンドボーイ』誌、後に『ハイヴィ』と改題された月刊誌に連載を始めたものであった。当時同誌の編集長の小高根克彦氏の主旨は、こだわりと真剣さを失いつつある若い読者に対し、僕のような音一筋の男の生き様を知ってもらい、人生と趣味あるいは仕事の関り合いを通して、オーディオの本質や価値観の認識の一助にしたいというものであった。そんな大それた役をお引受け出来る気持ちにはなれなかったけれど、素直に僕の音に関わる人生について書けばよいから、という言葉に乗せられて分不相応な自伝めいたものを書くはめになったものである。
書き出してみると、音と人間の関係を浮彫りにするためには、恥も外聞も捨てて、素直に自己をさらけ出すこと以外にはないことがわかってきた。「素直にありのままを書け」といった小高根氏をうらんでよいのか、感謝してよいのか、ついに八年もの長期間にわたって月刊誌に連載を果したものである。
したがって、本来は私個人のこととしてではなく書いたほうがどれだけ楽であったかしれないし、この文章がどこか露出趣味のように受け取られるのではないかという心配が常に私の中にあって、正直なところ苦しい仕事であった。それも、子供の頃のことならまだしも、大人へのなりかかり、あるいはなってからの自分の内面など、そう易々と書けるものではなく、どうしても事実の羅列という無能なものになっていることを深く恥じ入るものである。また、ここには四十六歳までで、それ以後は書かれていないわけであるが、この文脈通りに現在までを生々しく書く気持にはどうしてもなれなかったからだ。本文の終りに書いたように、四十六歳にして初めて大人になれたことを自覚出来たような僕のことだから、人様に語れるようなものはなにもない。しかし、終始一貫音と音楽を愛し続けた男の人生である事だけは確かであって、すべてはここを支点としての生活である。こういう、いわば音馬鹿の姿を見ていただいて、音の世界がいかに魅力的なものかを感じていただくことも多少は意味のあることかも知れないと、またまた、これを一冊の本にまとめるという恥の上塗りをやってしまった次第。
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八年間の連載をまとめたのが「僕のオーディオ人生」であるだけに、
サウンドボーイ、HiViに掲載された文章すべてが読めるわけではない。
ページ数と物理的制約があるから、割愛されたところが少なくないのは仕方ない──、
とは頭では理解していても、「僕のオーディオ人生」を手によって、
やっぱり、ここは省かれていたのか……、と思った。
どれを載せて、どれを省くかは、編集者によって違う。
私だったら、と思うところが省かれていた。
それは、菅野先生の性的初体験のところである。
これを書くにあたって、かなり苦労されていたことを菅野先生からきいているだけに、
惜しいと思うし、音楽之友社の編集者の判断もわからないわけでもない。
菅野先生は何冊もの官能小説を購入して読んだ、と言われていた。
川上宗薫の作品について、高く評価されていたことを思い出す。
サウンドボーイ、HiViのバックナンバーはほとんど持っていない。
それが載っている号もない。
いつかは国会図書館に行き、すべてコピーしたいと思いながらも、実行にうつしていない。
菅野先生の音(オーディオ)を語る上で忘れてはならないのことのひとつに、官能性がある。
「僕のオーディオ人生」から、ここだけは引用しておこう。
戦時中疎開されているときのことを書かれている。
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旧盆の八月十五日は、村をあげての盆踊りであった。これは、僕にとって実に大きな、フレッシュな体験となった。先に書いたように、佐渡へ着いて、船のPAスピーカーで聴いた《佐渡おけさ》によって、生れて初めて日本民謡の洗礼を受けた僕だったが、この盆踊りで、決定的に日本情緒が体内に染み込むこととなったように思う。これは、後年の僕の音楽生活だけではなく、情緒全般にきわめて大きな影響力をもつことになった体験であった。
それだけではない。僕はこの夜、生れてはじめて、リアルなセックス体験をすることになったのだから、ことはもっと大きい。今でもこの夜のことを思い出すと、そのショックが鮮烈に蘇ってくるほどだ。
農業組合の前の広場にやぐらが組まれ、昼間から太鼓や笛が奏されていた。「ピョロ、ピョロ、ピョロのロンロン」と笛は《おけさ》のメロディを奏で、僕のハートを踊らせた。僕の中には、ベートーヴェンもシューベルトもいなくなっていた。もっと強烈に、直接的に、心底からこみあげてくる情感の虜になってしまったようだ。
単純な二拍子のリズムは、素朴で強烈な生命の鼓動そのものだ。塩風にのって香る海の空気、編笠をかぶり、浴衣に白足袋の男女が妖しく腰をくねらせながら足を運ぶ4ビートのステップ。
やがて、陽がとっぷりとくれる頃、踊りのムードはクライマックスにクレッシェンドしていく。大人達に混じって僕ら子供達も、見よう見真似で《おけさ》や《相川音頭》を踊りながら、一種の恍惚の世界へ入り込んでいく。
今思うと、これこそ音楽と舞踊の原点だ。僕が今、よく口にするカントの言葉「芸術とは、悟性の秩序づけをもった感性の遊びである」という定義からすると、これは確かに芸術ではない。悟性の秩序づけなど、薬にしたくても無に等しい。これはまさに、官能的情感に満ち溢れた感性の遊びそのものである。しかし、これぞ、音楽や舞踊が芸術に昇華された次元においても、絶対に存在すべき要素の一つであることを痛感せずにはいられない。クラシック音楽にも、ジャズにも、ましてやロックやフュージョンに、これが欠けていたら、音楽という人間行為は、まことに空しい。洗練の極致などという音楽への評価は、必ずしも賞め言葉とはいえない。だから僕は、カントの芸術の定義を、感性と情緒の遊びというふうに訂正したい。
それはともかく、この昭和十九年八月十五日の夜は、僕の成長期における記念すべき夜であった。踊りに疲れた僕は、友達と一緒に目の前の海岸へ出た。嵐のあとでもあったので、そこにはたくさんの小船が引き上げられ、石垣にそって並べられていた。小船といってもかなり大きなものもあり、岸に上げられると、子供の背丈より高いものもあった。
月の光に照らされた岸辺は真暗ではなかった。突如、友達の一人が「シーッ」と口を指でふさいだ。何のことだかわからなったが、僕は本能的に身をすくめ、足を止めた。嵐のあとの静かな潮騒に交って、異様な物音が聞こえてきたのである。人の息である。ときどきうめき声にも似た響きも聞こえる。荒々しい吐息に交って、明らかに女性の甘い泣き声のような呻きが聞こえるのである。しかし、その時の僕には、それが何を意味するものなのかはわからなかった。一緒にいた友達はわかっていたらしく、「べべ、べべ」と小声で僕にささやいた。「べべ?」僕にはよくわからなかった。後でわかったことだが、それは男女の性行為を意味する土地の言葉である。
そこここに並べられていた船の中から、その声はもれていた。しかも一組ではないのである。友達に促され、そのうちの一つの船に近づいてみた。ちょうど船に上る台のような木材があったので、それに静かに上って、僕達は船べりから中を覗き見たのである。凄かった。悩ましかった。きれいだった。刺激的だった。踊りの着物を着た男女がもつれあっていたのだ。月の光に、雪のように白い女性の足が、赤銅色の男の足に絡んでいた光景は、壮絶に僕の目を射た。
僕は息をのんだまま、その木造船の船べりに釘づけになってしまった。心臓の鼓動が大きすぎて、相手に気取られるのではないかと心配であったが、僕はそこから離れようとは絶対に思わなかった。口の中がカラカラに乾き、つばも飲みこめない苦しさであった。一体、これは何なのだ? 魅力的だが、ひどく罪深いことのようにも感じられた。おそろしく恥ずかしいような気持でもあった。それにもかかわらず、僕は男女のその部分を見たいと思った。僕のいる角度からは、男の尻の動きが見えるだけで、その部分はどうしても見えなかった。
僕は疲れ果て、見つかることのおそろしさも手伝って、ついにその場を離れ、まだ見たがっていた友達を引っぱって、再び踊りの群へ帰ってきてしまった。
「どっと笑うて、立つ波風の、荒き折節、義経公は」武張った《相川音頭》を唄う青年の声は、艶と輝きに満ちていて美しかった。大きな輪を描いて踊る粋な男女の着物姿と、凛々しい太鼓のリズムは、今も僕の目と耳に焼きついて離れない。そして、それはあの生れて初めて見た男女の赤裸々な性の姿との見事なダブル・エクスポージュアなのである。
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昭和19年(1944年)だから、菅野先生は11歳である。