30年ぶりの「THE DIALOGUE」(その5)
先月開催されたOTOTENでのことも思い出した。
CSポートのブースで、美空ひばりのLPで「川の流れのように」がかけられた。
ひとつのブースを数社で共用していたため、それぞれのブランドの音出しの時間は短い。
数曲かければ、次のブランドのデモの時間となる。
CSポートで最後に美空ひばりだった。
それまでもレコードのかけかえ、音量の設定は高松重治氏がやられていた。
でも最後の美空ひばりは、ちょっと違った。
高松重治氏による音量は、美空ひばりの歌を聴くには小さすぎでもないし、大きすぎでもない。
人によっては、もう少し……、となるだろうが、
多くの人が、そこでの音量に不満を抱くことはない設定だったのだが、
鳴りはじめてすぐに、CSポートの社長がすすーっとアンプのところに来て、音量を上げられた。
「川の流れのように」は、CSポートの社長の愛聴盤のようだった。
ふだん、このくらいの音量で聴かれているのかもしれない。
かなり大きめの音量での美空ひばりの歌だった。
オーディオには、音量設定の自由がある。
実際よりも大きくも小さくもできる。
わが国では、実際よりも大きくすることに拒否にちかい反応を示す人も少ないないようだが、
ならば小さくすることにも同じように反応すべきのはずなのに、そうではない。
高松重治氏も、その音量には少し驚かれているようだったが、
私も最初は少し驚いたものの、こういう音量で聴く美空ひばりもありかな、と思っていた。
昨晩のaudio wednesdayでは、「THE DIALOGUE」はそこそこの音量で鳴らしていた。
でもグラシェラ・スサーナでは控えめな音量にした。
グラシェラ・スサーナの歌を、OTOTENでの美空ひばりくらいの音量で聴くのも自由である。
でも美空ひばりの歌では許容できる音量でも、グラシェラ・スサーナの歌を聴こうとは思わない。
このあたりのことを含めて、美空ひばりの歌に決して聴き惚れることのない理由は、
いずれ別項で書く予定でいる。
昨晩も「川の流れのように」を聴いた。
聴いていて、いい曲だ、と改めて思っても、
私は美空ひばりの歌唱に涙することはなかったし、これからもないように思う。
誰がなんといおうと、「川の流れのように」はホセ・カレーラスの歌唱をとるし、
カレーラスの「川の流れのように」には涙していた。