ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(評論とブームをめぐって・その2)
月と太陽の違いは、そのまま批評と評論の違いにあてはまる。
私が月と太陽の違いに思い至ったのは、
ある人の独り言に近い、ある発言を聞いたからだった。
その人はその人本人に、瀬川冬樹と同じくらいの才能があれば、
あのスピーカーの実力を、もっと広く知らしめることができたであろう……、
そんな趣旨のことを一度となく聞いたことがある。
その人の心情はわかったうえで、このことを書いている。
それは才能の違いなのだろうか。
才能の違いからきたのであれば、
オーディオ評論家としての才能について考えていかねばならないわけだが、
私には才能の違いではなく、資質の違いのように思えてきたのだった。
最初に聞いた時は、私も「才能の違い」だと思った。
けれど二三度聞いていくうちに、ほんとうにそうなのだろうか……、
他の要素があるような気がしてきたことが、月と太陽に思い至るきっかけのひとつになった。
そのオーディオ機器の実力を正しく評価するのが批評であるとすれば、
評論とは、そのオーディオ機器に光を当てて輝かせることにあるはずだ。
惚れ込んで、自分で買い込んでしまったオーディオ機器を、いかに輝かせることができるか、
輝かせることができなければ、それはオーディオ評論とはいえないレベルのものである。
太陽は光を発している。
その光で、対象となるオーディオ機器を輝かせる。
瀬川先生によるオーディオ評論が、まさにそうだった。
このことに気づいてほしい、と思う。
月は残念ながら光を自ら発することはできない。
太陽の光を反射させるだけなのだから、輝かせることができたとしても淡い輝きに留るし、
太陽の存在がなければ、その淡い輝きすらも望めない。
月としての才能が高ければ高いほど、光を発することができないジレンマに陥る。