Date: 4月 20th, 2014
Cate: 香・薫・馨
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便利であっても(その6)

内田光子の最初のモーツァルトのレコードが出たころに私が鳴らしていたのは、
シーメンスのコアキシャルを平面バッフルに取り付けたモノだった。
アナログプレーヤーはトーレンスの101 Limited。

そこで鳴ってきた音に、不遜な聴き手であった私は驚く。
こんなにも薫り立つモーツァルトを、日本人のピアニストが弾けるのか、とも思ってしまった。

そのころの不遜な聴き手であった私は、
日本人のピアニスト(なにもピアニストだけとは限らない、クラシックの演奏家すべて)には、
薫り立つような音が出せない、と薄々感じはじめていた。

だからといってヨーロッパやアメリカの演奏家すべてが薫り立つような音を出しているかというと、
決してそうではないのだが、それでも巨匠と呼ばれているピアニスト(演奏家)、
旧い録音しかないにもかかわらず、
デジタル録音が主流となってきていた1980年代にはいっても聴き続けられている演奏家の多くは、
その演奏家ならではの薫り立つ音を持っているようにも感じている。

内田光子のモーツァルトを聴いて、日本人にもこういうピアニストがあらわれてくれた、
そう素直に思えて夢中になって聴いていた。

いまになって思っているのは、そのときのスピーカーがコアキシャルで良かった、ということである。
必ずしもすべての高能率のスピーカーがそうだとはいわないけれど、
スピーカーにも薫り立つような音をもつモノと脱臭されたような音のモノとがある。
私が聴いてきた範囲では、高能率型のスピーカーに、薫り立つような音を持つモノが多いと感じている。

もし別の、たとえば低能率の、そういう音とは無縁のスピーカーだったら、
内田光子にこれほど夢中になることも、いまにいたるまで聴きつづけるということもなかったかもしれない。

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