第77回audio wednesdayのお知らせ
6月のaudio wednesdayは、7日。
音出しの予定である。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
6月のaudio wednesdayは、7日。
音出しの予定である。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
一週間ほど前に書いているように、
audio wednesdayをやっていると、喫茶茶会記へのお客さんが覗きに来られることがある。
昨晩もそうだった。
和田明さんという方が入って来られた。
いまの時代のジャズに関心をもっている人ならば、
和田明という名前に反応されることだろう。
ジャズにうとい私は、ちぐさ賞のことはなんとなく知っていても、
どんな人が受賞していたのかまでは知らない。
和田明さんは、昨年、第四回ちぐさ賞 最高賞を受賞されている。
喫茶茶会記の店主、福地さんが、その時手にしていたのは、「ESSENCE」。
和田明さんのCDである。
つまり和田明さん本人を前にして、「ESSENCE」を鳴らすことになった。
(今回はセッティングを手抜きしてなくてよかった)
和田明さんは、写真で見るより、がっしりとした体格。
日本人に多い薄い体つきではなく、前後に厚い。
「ESSENCE」で聴ける和田明さんの歌は、体格の良さをきちんと捉えている。
楽しい体験だった。
和田明さんのディスクは、ちぐさレコードから発売されている。
CDだけでなく限定ではあるがLPもある。
昨晩の「最後のオーディオマニア」は、続きを書くつもりはまったくなかった。
昨晩は、audio wednesdayだった。
4月のaudio wednesdayでは手抜きの鳴らし方だったことは、以前書いた通り。
今回は手抜きをせずにセッティングした。
喫茶茶会記のスピーカーは、いわゆる自作スピーカーの範疇にはいる。
15インチ口径のウーファーを収めたエンクロージュアの上に、
中域のドライバーとホーン、高域のドーム型のユニットがのる。
それゆえいじろうと思えば、ずっといじっていられるほど、あれこれ試せる。
三つのユニットの位置関係はいじらなくとも、
中域と高域のユニットの置き方をいじっていくだけでも、音はころころ変っていく。
スピーカーとは、そういうモノである。
ただ、そのことを面倒に思う人がいるのも事実である。
いまでは、そう思う人のほうが多いのではないだろうか。
それから、自作スピーカーを未完成品、
既製品スピーカーを完成品と捉えてる人も、また多いのかもしれない。
いつのころからか、オーディオ機器がブラックボックス化している。
いやむしろオーディオマニアがブラックボックスとして捉えているようでもある。
デジタル機器はそういうところを感じさせがちだが、
アンプもブラックボックス化していたといえるし、スピーカーもブラックボックス化している。
メーカーにその気がなくとも、オーディオマニアがブラックボックスとして見ている、
受けとめている、という傾向は増しているように感じている。
それがいいことなのか悪いことなのかについて、ここでは触れないが、
傾向としては、そうなりつつあるし、
このことは、好きな音楽をいい音で聴きたい、と思い行動する人が増えたとしても、
オーディオマニアは減っていくのではないだろうか。
あれこれ考えてしまうから、このブログを書いているといえるけれど、
毎日ブログを書くためにあれこれ考えているともいえるところもある。
だからなのか、このブログを書きはじめる前には考えたことのない範囲まで、あれこれ考えるようになったのか。
ふと思いつくことがある。
「最後のオーディオマニア」ということもふと思いついた。
私はオーディオマニアだ、と自認している。私の周りにもオーディオマニアがいる。
私が生きている間は、最後のオーディオマニアということは起りえないであろうが、
いつの日か、そういう日が来ないとはいえないのではないか。
オーディオマニアが減りはじめる。
言いかえれば、若い世代からオーディオマニアが誕生しなくなる日が来て、
それまで生きてきたオーディオマニアがいなくなっていけば、
最後のオーディオマニアといわれる人が出てこよう。
オーディオマニアが誕生しなくなった日から、
最後のオーディオマニアまでのカウントダウンが始まる。
昔のラジオ技術を読み返していると、ハッと気づかされることがいくつもある。
1961年7月号「ベテラン8氏にきく現用再生装置」で、
瀬川先生はガラード301のことを、
《目下のところ自家用としてベルト・ドライブの必要を感じないほど》
と書かれている。
これが1965年1月号「ステレオ再生装置の総合設計」の中では、次のように変っている。
*
わたくし自身は、モノ時代から長いこと、ガラードのプロフェッショナル・ターンテーブル〝301〟を愛用してきて、とくに不満を感じなかった。ところが、ハイ・コンプライアンス・カートリッジの採用にともなってSMEのライト・シェル・タイプなどに切りかえてみると、急にゴーゴーというウナリが気になりはじめて、ついにもっと優れたターンテーブルに交換する必要をせまられるほど、プレーアの問題は大きくなるいっぽうである。
結論からいえば、ターンテーブルはベルト(あるいは糸)ドライブ以外は使いものにならない。しかし具体的にはどうするかということになると、やはり問題が多い。
*
まだこのころはEMTの930stを使われていないし、
ダイレクトドライヴ型も登場していない。
アイドラードライヴ、ベルトドライヴ、ダイレクトドライヴ、
というふうに順をおって体験してきたわけではない世代の者にとっては、
そうか、そうなのか、と思うわけだ。
ダイレクトドライヴ型が登場したころは、
1965年当時よりも、もっとハイコンプライアンス化されている。
MC型カートリッジよりも、MM型、MI型カートリッジがかなり使われていた時代でもある。
カートリッジがますますハイコンプライアンス化(軽針圧化)していく時代に添うように、
ダイレクトドライヴ型は登場した、ともいえる。
私がオーディオに興味を持ち始めた1976年は、
国産のアナログプレーヤーはほぼすべてダイレクトドライヴ型といえた。
海外製品でもアイドラードライヴは、EMTの930stと927Dst、
ガラードの401にマイクロトラックのModel 740、デュアルの1225、BSRくらい、
ベルトドライヴも少なかった。
リンのLP12、トーレンスのTD125、エンパイアの698、EMTの928、
これらの他にデュアル、シネコ、B&Oなどがあった。
ベルトドライヴを出していた海外メーカーも、
翌年、翌々年にはダイレクトドライヴに移行していた。
にも関わらず1970年代が終ろうとしていたあたりから、
ダイレクトドライヴ型プレーヤーの音質への疑問がいわれるようになってきた。
このことは別項「ダイレクトドライヴへの疑問」でも書いている。
ダイレクトドライヴ型があっというまに席捲し、
数年後には疑問がもたれたことには、
カートリッジのコンプライアンスも関係しているように思われる。
MC型カートリッジのブームが1970年代の終りにやってきた。
ステレオサウンド別冊として、
長島先生による「図説・MC型カートリッジの研究」が1978年秋に出ている。
MM型、MI型カートリッジに比べれば、
このころ新しく登場したMC型カートリッジであっても、針圧は重めである。
つまりローコンプライアンスである。
もしMC型カートリッジのブームが訪れなかったなら、
ダイレクトドライヴ型への疑問は生れなかったか、
もしくはもっと後のことになっていたかもしれない。
長岡鉄男氏の、トータルバランスが重要という視点には、
多く欠けているものがあると、私は感じている。
それはデザインである。
オーディオにおけるトータルバランスを語る上でも、
どのジャンルにおいてもトータルバランスを語るのであれば、
デザインを除いて語ることはできない。
長岡鉄男氏の文章を当時読んでいたときには、このことは感じなかったが、
いまいくつか読み返してみると、
そして曖昧な記憶ではあるが思い出してみると、
デザインという視点を欠いたままトータルバランスであったことに気づく。
このことについて書いていくと、
ここでのテーマ、598のスピーカーから離れていくのは明らかだから、
ここではこのへんに留めておく。
別項で、書いていく。
ケーブルを、関節だと考えるようになったきっかけは、
別項で、骨格のしっかりした音について書いている時だった。
骨格のしっかりした音を出していく上で、
まず重要なのはスピーカーであるわけだが、ここでケーブルによる音の変化について考えていて、
それは関節にあたるのではないか、と気づいた。
骨格のしっかりした音とは、
骨格のバランスがとれている音でもあるはず。
そう考えると、関節があるべきところにある音ともいえる。
たとえば腕の長さが同じでも、
手首と肘の間隔、肘と肩の間隔の比率が大きく違っていたら、
それは骨格のしっかりした音、骨格のバランスのとれている音とはいえない。
言葉にとらわれすぎてケーブルについて考えていることはわかっていても、
機能的にみれば、オーディオを内部からとらえてみればケーブルは神経であり血管であるが、
そこから出てくる音からとらえていけば、ケーブルは関節でもあるし、
オーディオ機器を配置することからみても、ケーブルは関節といえる。
とはいえ、骨格のしっかりした音について書いていたときも、
この「骨格のしっかりした音」についての説明が難しい、と感じていた。
音を表現する言葉はすべてそうなのだが、その中でも「骨格のしっかりした音」については、
人によって捉え方、というか理解が大きく違うように感じているから、
ケーブルは関節である、と説明しても、同意してくれる人もいるはずだが、
どんなに説明しても理解してくれない人もいよう。
それでも書いているのは、ケーブルを一度「関節」という視点でとらえてほしいからだ。