Archive for 11月, 2015

Date: 11月 2nd, 2015
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その13)

伊藤先生の「獄道物語」は最低でも一度は読んでいる。
それでも、いま読み返していると、以前読んだ時以上に興味深い。

まだまだ引用しておく。
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 家庭で聞いてバランスのとれた音のスピーカーもステージに置くと、それを何十個並べ立てても客席に到達するまでに聞くに堪えない消え入るばかりの音に痩せ細ってしまう。アンプの出力とは関係なく要はスピーカーの効率だけに絞られてしまう。舞台全面でなんとなくたち騒いでいる感じで画面にくローズアップされた大砲が煙を吐くと同時に耳をつんざく砲声を期待していると「さながら遠雷を聞くが如し」的音がしてしまうのである。哀しいことである。
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この項で以前書いた、音が飛ぶスピーカーとそうでないスピーカーがあるのは、そういうことではないのか。
つまり遠くで聴いても音が痩せ細らないスピーカーと痩せ細ってしまうスピーカーとがある。

測定上の音圧は同一であっても、
音が痩せ細ってしまっては、音が飛んでこない、と感じてしまう。

伊藤先生は続けて書かれている。
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音はステージから客席に訴えるものであって、シネラマやシネスコープの効果音的効用としての客席周囲の壁面のスピーカーの存在は認めるが、殊に音楽の鑑賞用としてのスピーカーは舞台(ステージ)が基本である。
 大きなホールで四チャンネルステレオを試聴する催が増えて来たが止むを得ぬ事情とは察するが昏迷の世界への勧誘であると思う。
 劇場ではステージから出る音のみに限られ(例外はあるが)、その音の聴衆に到達するまでのある程度のリバービレーションを経た音を鑑賞している。
 一方あたかもその劇場に坐しているかのように現在狭い部屋にいる人に錯覚を起こさせるのが四チャンネル方式である。これを広いホールで演奏し鑑賞させた結果が如何なるものかを判別できないとしたならば無感覚も甚だしきものである。
 適当な広さ(狭さ)の部屋に小人数を招じ入れて最良の条件の位置に坐らせて聞かせるのが四チャンネル方式であり、「何処でもいい処に坐って下さい」といって聞かせるのが劇場である。
 こんな平凡なことが忘却されている処に目的を逸脱した昏迷がある。
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ここで伊藤先生が述べられている4チャンネル再生と、
現在のハイエンドオーディオと呼ばれているスピーカーの音場再現とを、
完全に同一視するわけではないし、できないことはわかっているが、
それでも「最良の条件の位置に坐らせて聞かせる」ところは共通するところである。

Date: 11月 1st, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(ガウスのこと・その5)

JBLのスピーカーシステムのユニットをガウスに換装する──、
そんなことをあれこれ考えていたのは、ガウスのユニットへの強い関心だけでなく、
ガウスの音がどういう音なのかがつかめていなかったことも大いにある。

ガウスの音を聴く機会はいなかにいたころはなかった。
となるとオーディオ雑誌のでの評価が気になるわけだが、
ガウスの輸入元となったシャープによるスピーカーシステムの第一弾、CP3830は、
ステレオサウンドの新製品紹介では取り上げられていなかった、と記憶している。

第二弾のCP3820は52号の新製品紹介に登場している。
さらに54号の特集でも取り上げられている。

52号の新製品紹介のページをみて、やっと登場した、と思い読んだ。
CP3820は2ウェイのスタジオモニターであり、
あとからトゥイーターの1502を追加して3ウェイに対応できる。

このことからわかるようにCP3820はJBLの4331を意識したモニターである。
ドライバーは4331は2420だが、CP3820には2440相当のHF4000という違いはあるものの、
コンセプトそのものは4331そのものといえる。

できれば1502を最初から搭載した3ウェイで出してほしかった、と思っていた。
そうすれば、もっとガウスの音についてはっきりしたことがわかるのに……、と思っていた。

HF4000は、52号の記事によれば、
《ハイエンドまでスムーズで、決してレンジが狭い感じがない》と山中先生が発言されている。
そうであろう。
でも1502ほどには高域が伸びているわけではないし、
JBLの4331と4333の関係からしても、ガウスの3ウェイの音が聴きたい、と思う。

それに井上先生がいわれている。
《最良の状態で鳴るガウスのウーファーは、厚みのある低音が特徴となっているのですが、その点にやや不満が残りました。もう少し分厚く、しっかりした質感のクリアーな音が出てしかるべきだと思います。しかし、ウーファーが強力なだけに、エンクロージュアづくりはむずかしいのでしょう。》

CP3820が中途半端なまとめ方のスピーカーのように思えたものだ。

Date: 11月 1st, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(小さい世界だからこそ・その3)

KK塾での濱口秀司氏の話を聞いていると、
世界は広い、という当り前のことを実感するし、
オーディオの世界は、目の前におかれたコップ一杯の水くらいであることも実感していた。

だから会場となったDNPホールに、オーディオ関係者がまったくいなくても不思議でもない。
もう七年以上の前のことだ。
川崎先生の講演をききたい、という人がいた(ひとりではない)。
オーディオの仕事をしている人だ。

二度ほど東京で川崎先生の講演があることを伝えた。
けれど来なかった。

人それぞれいろんな事情があるから……、ということはわからないわけではないが、
その程度なのか、と思い、それ以降伝えることはやらなくなった。

直接オーディオに関係する話が出てこないのならば、
オーディオ関係者として行く必要はないと考えているのかどうかは私にはなんともいえない。

それでも、なぜ来ないのか、とは川崎先生の講演の度に思うことだ。

二年前の三月、川崎先生の最終講義をききにいったことを書いている。
大阪大学に行われたにもかかわらず、オーディオ関係者がふたり来られていた。
今回のKK塾でも、このオーディオ関係者のふたりは来られていた。
(もしかすると他にも来られていたオーディオ関係者がおられたかもしれないが)

世界の広さからすれば、オーディオの世界はコップ一杯の水くらいなのだから、
KK塾にオーディオ関係者がまったくゼロであっても、対比からすればそうかもしれない。

でも来る人は来る。
来ない人は来ない。

そのことも実感していた。

Date: 11月 1st, 2015
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その12)

トーキー用スピーカーといえば、まずウェスターン・エレクトリックのスピーカーのことである。
その次にシーメンスのスピーカーが、私の場合は頭に浮ぶ。

ウェスターン・エレクトリック、シーメンスときいて、私はそれぞれのスピーカーの型番よりも、
まず先に思い出すのは伊藤先生のことだ。

伊藤先生はトーキーの仕事をされてきた方だ。
伊藤先生はトーキー用スピーカーのことをどう表現されているのか。

ステレオサウンド 24号掲載の「獄道物語(2)」で、
劇場用と家庭用の音のあり方、について書かれている。
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 映画の音に就いて甚だ感覚的な談をさせて頂くが、前号にも述べたように今まで自分が追求していた音のすべては自分の住居の広さ、つまり極めて狭い場所で鑑賞していたのに較べて映画の音は劇場のあの広さの中で聞くのである。しかも入場税までも払って鑑賞するのである。「新発売、当社のステレオ装置試聴会にご招待、粗品呈上」とはわけが違う。聴衆は貪欲に聴こうとする。
 とにかく金を払ったからには聞く方は必死であり、金を取ったからには聞かせる方も真剣である。スクリーンに画が映るというおまけがあるが私達には音の方が大切である。
 ウェスターンの再生装置を確認して入場するのである。勿論光学録音であるから自分の所有している再生装置と音を較べくもないが問題は休憩時間に演奏してくれるディスクである。一般に市販されているレコードをかけてくれるのである。
 ステージに据付けられた五五五型のレシーバーから流れ出るその音は、最早私に帰宅して自作のシステムを聞こうとする意欲を完全に喪失させてしまうほどの絶品であった。
 英国フェランティのスピーカーとトランス、そして英国マルコニのピックアップで組み上げた私の装置も顔色なく、よい音を出すには生やさしい金では不可能であるという諦めとも悲憤ともつかぬ、初恋の失恋でなく分別盛りの失恋に似たものを味わわされた。
 相当のパワーを出して、ある距離をおいて、ある拡がりを与えてから聞く目的のスピーカーは別格のものである。
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伊藤先生が映画館に、ウェスターン・エレクトリックの音を聴きに通われていたころは、
休憩時間にレコードがかけられていたことがわかる。
私が小さかったころ、いなかの映画館でも休憩時間には音楽が流れていた。
けれど、それはレコード(ディスク)ではなく、テープであったはずだ。

上京してからも、休憩時間には音楽が流れていたが、
あきらかに貧相な音で鳴っているのしか記憶にない。

休憩時間にウェスターン・エレクトリックのシステムでディスクが聴ける。
うらやましい時代である。

24号は1972年のステレオサウンドである。
ここで、伊藤先生は「休憩時間に演奏してくれるディスク」という表現されていることにも注目したい。