Archive for category オーディスト

Date: 4月 8th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その4)

ようするに、山口孝氏の熱心な読み手である、その人は、
山口孝氏による造語ともいえる「オーディスト」を、なんら疑うことなく賞讃していたともいえる。

そこには、その人がいままで読んできた山口孝氏の文章によってその人のなかにつくられていった、
ある種の知名度が関係しているのかもしれない。

これがもし他の人、
たとえば山口孝氏とは正反対のところでの書き手による造語としての「オーディスト」であったなら、
山口孝氏の熱心な読み手は同じように「オーディスト」を疑うことなく受け入れ賞讃したであろうか。

この態度は、はたして読み手として正しいといえるのだろうか。
特に造語として登場してきた「オーディスト」に対して、それでいい、といえるのだろうか。
山口孝氏の熱心な読み手は、
山口孝氏による「オーディスト」だからということで、考えることを放棄しているようにも見える。

私は山口孝氏による「オーディスト」になんら感心しなかったから、
その意味を調べるまでに一年以上経ってしまった。
ゆえにあまり人さまのことはいえないといえばそうなのだが、
だからといって、いわずにすませておける問題ではなく、
それは読み手以上に、送り手である編集者にとっては致命的ともいえることにつながっているはず。

Date: 4月 7th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その3)

山口孝氏による「オーディスト」を見て、私がまず連想したことは語感のいごこちの悪さと、
オーディストとカタカナ表記したときに、なんとなくヌーディストと似ているところも感じていて、
山口孝氏が「オーディスト」に込められているものは理解できていても、
素直に「オーディスト」を自分でも使いたいとは、そしてそう呼ばれたいとも、まったく思わなかった。
(念のため書いておくが、まだこのときはaudistの意味を調べていなかった)

私はそう思っていたし、そう感じていたわけだが、
「オーディスト」を積極的に評価されている人がいたことも知っている。
熱い口調で「オーディスト」について語られたことも、実はある。

その人の気持は分らないでもないが、
正直、その熱い口調で語られれば語られるほど、
「オーディスト」がそれほどいいことばとは思えなくなっていっていた。

つまり私は「オーディスト」に対してまったく感心するところがなかった。
だから無関心であり、自分でオーディストの意味を調べようと思うまでには、一年以上経っていた。

私はそうだったわけだが、
「オーディスト」への感心をつよく持っている人もいたのも事実。
感心すれば関心も出てこよう、と私はおもう。
その人たちは、オーディスト(audist)が、すでに存在しているかどうか、
存在しているとしたら、どういう意味を持つのか、
いまではインターネットのおかげで調べようと思えば、すぐにわかることを調べなかったのか、とも不思議に思う。

私に「オーディスト」について熱い口調で語った人は、
山口孝氏の熱心な読み手である。
私はというと、山口孝氏の熱心な読み手とは、とてもいえない読み手でしかない。

私の場合、熱の無さが調べるまでに一年以上かかることにつながっていったわけだが、
熱心な読み手である、その人は山口孝氏による造語だからと、そのまま受け入れたといえよう。

Date: 4月 6th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その2)

ピアノ(piano)を弾く人をピアニスト(pianist)という、
ヴァイオリン(violin)を弾く人をヴァイオリニスト(violinist)という、
チェロ(cello)を弾く人をチェリスト(cellist)という。

オーディスト(audist)は、だからオーディオを弾く人、というように理解できる。
ステレオサウンド 179号に掲載されている山口孝氏の文章で、
私はこの「オーディスト」という言葉を目にした。

目にして、山口孝氏による「レコード演奏家」の表現でもある、と思った。

「レコード演奏家」は菅野先生が提唱されている。
ステレオサウンドから「新レコード演奏家論」が出ている。

レコードを演奏する、ということについては、拒否反応を示される人、
反論される人がいることを知っている。
ここでは「レコード演奏家」についてはこれ以上ふれないけれど、
「レコードを演奏する」という表現は、何も菅野先生が最初に使われていたわけではない。
菅野先生が「レコード演奏家論」を書かれるずっと以前から、
瀬川先生も「レコードを演奏する」という表現を使われている。
それも、かなり以前から使われている。

ということは、そのころにオーディスト(audist)という言葉を思いついた人もいたのではないか、と思う。
でも山口孝氏が「オーディスト」を使われるまで、私は目にしたことがない。

なぜだろうか。
誰も思いつかなかった、という理由もあげられるだろう。
けれど、どうもそうとは思えない。
「レコードを演奏する」という表現が使われていながら、
ヴァイオリンによって音楽を演奏する人をヴァイオリニスト、
ピアノによって音楽を演奏する人をピアニスト、というのならば、
オーディオによって音楽を演奏する人をオーディストと呼称する人があらわれてもなんら不思議ではない。

オーディストという言葉は、audioにistをつけただけであり、
ひねりも工夫もそこには感じられない。

なぜ、誰も使わなかったのか。
それは、オーディスト(audist)が、
聴覚障碍者を差別する人・団体という意味で、アメリカでは使われているからである。
それもかなり以前から、である。

Date: 4月 5th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その1)

昨年の8月13日に、
オーディオにおけるジャーナリズム(無関心だったことの反省)」というタイトルで書いている。
リンク先を読んでいただければわかるように、詳細についてはあえて書かなかった。
言葉狩りが目的ではなかったし、その言葉が使われなくなるのであれば、
それに私自身もその言葉を最初見た時に無関心であった──そのことへの反省もあった──、
そして、もうその言葉をそのオーディオ雑誌で見かけることは今後ないという保証に近いこともあったため、である。

他のオーディオ雑誌ではときどき使われていた(掲載されていた)、
その言葉は少なくともステレオサウンドの誌面には登場することはなかった。
だから、「オーディオにおけるジャーナリズム(無関心だったことの反省)」については、
もう書くこともないだろう、と思えていた。

けれど、いま書店に並んでいるステレオサウンド 186号に、その言葉が載っている。
「オーディスト」という、山口孝氏による、いわば造語としての「オーディスト」が、
編集部による記事ではなく、広告で何度も使われている。
リンジャパンの広告の文章は、今回山口孝氏が書かれている。

私が、この「オーディスト」をはじめて目にしたのは、
2011年6月発売のステレオサウンドだった。
この号は、2011年3月11日の三ヵ月後に出ている。
巻頭エッセイとして、「今こそオーディオを、音楽を」というタイトルで、
柳沢功力、菅原正二、山口孝、堀江敏幸の四氏が書かれていて、
山口孝氏の文章と見出しとしても、「オーディスト」は大きく誌面に登場している。

Date: 8月 13th, 2012
Cate: オーディスト, ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(無関心だったことの反省)

ほぼ1年前に、ある言葉をオーディオ雑誌でみかけた。
そのときは、その言葉の語感がしっくりこなくて、それ以上の関心をもつことはなかった。

一昨日、あれこれ検索しているうちに、ふと思い立って、そういえば、あの言葉、一般的になったのだろうか、と、
カタカナではなく英語の単語として検索してみた。

1年前は、その筆者による造語だと、なんとはなしに決めつけてしまっていた。
筆者自身、本人による造語として使っていたように記憶している。

けれど実際にはアメリカではかなり以前から使われていて、
それも詳細については書かないが、差別に関する単語だった。

おそらく、この言葉を使われていた(というよりも提唱されていた、と受け取っている)筆者も、
その事実をご存知なかったのだろう。
その意味を知っていたら、不特定多数の読者の目に触れるオーディオ雑誌に、その言葉は使わない。

私が、この言葉をみかけた雑誌では、これから先、誌面に、この言葉が登場することはないはず。
それにその出版社から筆者のところへもなんらの連絡がいくであろう。
だから、誰が、どの言葉なのかについては、これ以上書くつもりは、いまのところない。

書きたいのは、無関心であったことへの反省である。
その言葉は、それ以前も、同じ筆者によって別の出版社の本で使われていた。
そのことも昨日知った。

見かけたときに調べていれば、すぐに気がつけたことを、ほぼ1年放ったらかしにしていたことになる。
無関心であったからだ。

その言葉の意味を調べるのは、たいした時間はかからなかった。わずか数分でしかない。
おそらく1年前に調べたとしても、いまと同じ検索結果が表示されたはず。
それをやらなかった。

その筆者による、その言葉について、賛同者もいる、否定的な人もいるだろう。
私と同じように無関心の人もいよう。
おおきくわけて、この3パターンがあり、このうち賛同者はときに盲目的であり調べずに同調し、
その言葉を使うのではないだろうか。
無関心であった人は、そのまま無関心のままだろう。
おそらく否定的な人のみが、この言葉の意味を調べたのではなかろうか。

そんなことをつい思ってしまった。

この時代、知らなかった、ではもうすまされなくなりつつある。
Google登場以前と以降では、まったく違う。

無関心ではいけない、と強制することはできない。
けれど、無関心であってはいけない人たちがいて、
その人たちが無関心であったから、その言葉がいままで放置されていたことになる。
私も、こうやって毎日ブログを書いていて、少なくない人たちがアクセスしてくださっている以上、
無関心でいてはいけなかった。

その言葉を見かけたときに語感的にしっくりこなかったのは、
なんらかの違和感に近いものを感じとっていたのかもしれない。
なのにその時、調べなかったのは、無関心であったから、というよりも無関心でいようとしたのかもしれない。
そのことへの反省がある。

たったひとつの言葉について、なんて大袈裟な、と思われるかもしれない。
でも、その言葉は、その言葉を使った人だけの問題にとどまらず、
その言葉を放置したまま、もしくは積極的に使っていくということは、
オーディオ界全体に関係してくることでもあるからだ。