オーディオの「本」(ラジオ技術のこと・その3)
ラジオ技術が、いよいよ終りを迎えそうである。
私の中では、終りを迎えている──、
そんな受け止め方をすでにしているが、
どうみても、復活することはないように感じている。
それもきちんとした終りではなく、振り返って、
あれが終りだったのか……、そんな感じにもなりそうである。
個人的には復活してほしい、と思っている。
まだ休刊しているわけではないから、
復活というのはおかしいだろうと指摘があるだろうが、
やはり「復活」である。
ラジオ技術が、いよいよ終りを迎えそうである。
私の中では、終りを迎えている──、
そんな受け止め方をすでにしているが、
どうみても、復活することはないように感じている。
それもきちんとした終りではなく、振り返って、
あれが終りだったのか……、そんな感じにもなりそうである。
個人的には復活してほしい、と思っている。
まだ休刊しているわけではないから、
復活というのはおかしいだろうと指摘があるだろうが、
やはり「復活」である。
音の姿勢と音の姿静。
10月20日の野口晴哉記念音楽室 中秋会での594Aの音を聴いて、
音の姿勢と音の姿静が、呼吸のように聴こえてきた。
2020年は11月8日から、
2021年は11月1日から、
2022年は11月10日から、
2023年は11月1日から、それぞれこの項を書き始めている。
今年は今日(11月2日)から。
まだ二ヵ月あるから、何が起こるか(起こらないか)は、
まったくわからないけれど、それでもひとつ思っているのは、
オーディオ関係の友人、仲間、知人で亡くなった人がいないことだ。
昨年は、同世代の友人(オーディオ仲間でもある)が亡くなった。
私より少し年上のオーディオ関係の知人、仲間も亡くなった。
だから今年は、誰も亡くなっていないことが、ほっとする。
これから先、何年生きているのかはわからない。
私よりも先に亡くなるオーディオ関係の友人、仲間、知人がいることだろう。
人はみな死んでいくのだから、
嘆いたりはしないが、一人去り、また誰かが去り……、
最後の独りになる可能性もある。
菅野先生が「みんないなくなったよ……」と呟かれたことがあった。
岩崎先生が亡くなり、瀬川先生も、その四年後に──、
1990年代になり、また一人、また一人──と、
菅野先生の周りにいてオーディオ評論家として活躍されていた人が去った。
ながく生きるとは、そういうことでもある。
アナログディスクを再生することはめっきり減ったのは、
MQAが登場したから、と私の場合はそうである。
いま手元に三台のアナログプレーヤーがあるけれど、ほとんど稼働していない。
メインは、Wilson BeneschのCircleなのだが、
これすらも、ほぼ使っていない──、そんな状況だ。
なので6月末に引越ししてからも、アナログプレーヤーの設置は後回しにしていた。
昨晩、そろそろやるか、とふと思い立って、
ここだな、といえる場所に設置。
その際、今年、ヤフオク!で落札したジュエルトーンのガラス製ターンテーブルシート、GL602Jと組み合わせてみた。
Circleに付属していたのは、粗い感じのフェルトで、
ここだけターンテーブルプラッター、トーンアーム、ベースの質感と、
少しだけ違和感があった。
それを交換したわけだが、それほど期待していたわけではなかったのに、
GL602JをCircleに乗せた瞬間、カッコよくなった、と感じた。
Circleのプラッターは半透明のアクリル製で、
モーターやインナープラッターなどが、
ぼんやりとだが、透けて見える。
いままではフェルトだったから、普段は見えなかった。
GL602Jにすると、そのままというわけではないが、
いい感じで透けて見える。
これが、けっこういい感じで、新鮮なのだ。
改めて、Circleはカッコいいプレーヤーだな、と見直している。
ラドカ・トネフの“FAIRYTALES”。
このアルバムも、QobuzでもMQAで配信されている。
《自分自身の神性の創造》、
このことを念頭において、手塚治虫の「火の鳥」に「鳳凰」編を読んでほしい。
《自分自身の神性の創造》に必要なのは、
名声なのか、ふたつの腕なのか、恵まれた環境なのか。
別項でも何度も引用しているグレン・グールドのことばを、
ここでも引用することになる。
*
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。
*
《自分自身の神性の創造》、
仏像へと、私の裡ではつながっているといえる。
野口晴哉氏は、和室の天井に取り付けたタンノイのMonitor Redを、
どのアンプで鳴らされていたのか。
はっきりとした答は、いまのところないのだが、
10月20日の中秋会で、見つけたものがある。
ラックスのSQ38FDの箱があった。
SQ38FDは、野口晴哉氏のリスニングルームの写真には写っていない。
メインのスピーカーを、SQ38FDで鳴らされていたとは考え難い。
とすれば和室のタンノイ用なのか。
モノーラルのシステムだからといって、
モノーラル録音のディスクばかりかけられていたとは思っていない。
おそらくステレオ録音のディスクもかけられていたはずで、
そのためにはモードセレクターが必要になる。
昔のアンプには、たいていついていた。
SQ38FDにも、もちろんついている。
10月23日の夜からQobuzを使っている。
23日の時点でroonではうまく使えなかったけれど、
翌日には使えるようになっていた。
23日からの四日間ほどはQobuzばかり使っていた。
TIDALで聴けないアルバムがどれだけあるのかを探るためでもあった。
そして今日、TIDALとQobuzで、同じアルバムをいくつか比較試聴してみた。
同スペックでの配信であっても、TIDALとQobuzの音の違いはある。
Qobuzばかりを集中して聴いての音の印象は、
TIDALと比較しても変わらず。
どちらをとるかと言われれば、どちらもとる、と答える。
Qobuzで聴いた方が映えるアルバム(というよりも録音)があるのも事実。
ハイレゾという言葉を聴いて思い浮かべるイメージは、
Qobuzの方ではないだろうか。
MQAの音に関してもなのだが、若い時に聴いていた音が、
LPだったのか、CDだったのか、
それにLPだったとしても、MM型カートリッジがメインだったのか、
MC型カートリッジだったのか。
もっと言えば国産カートリッジだったのか、海外製のカートリッジなのか。
軽針圧なのか、そうでないのか。
ダイレクトドライヴのプレーヤーかベルトドライヴ、もしくはアイドラードライヴだったのか。
そういったもろもろのことの違いが、かなり影響していると感じている。
ながいことオーディオという趣味に熱中してきたのであれば、
特別な存在のスピーカーというものが、一つはあるはずだ。
それは世代によっても、どういうオーディオ機器に出合ってきたのか、
さまざまなことが関係しているから、
特別なスピーカーが、みな同じわけではない。
JBLの4343。
1970年代後半におけるオーディオ界のスーパースターだった。
そこでの憧れがあった。
けれど、それだけでなく、
4343は私にとっての「特別なスピーカー」だ。
なぜ特別なのかについて、
すべて書いていくと、どれだけでも書けてしまう。
なぜ特別なのか、
それは瀬川冬樹というひとりのオーディオ評論家と、
私の中では分かち難く結びついているからだ。
瀬川先生がいたからこそ──、そういえる。
今日、ソーシャルメディアを眺めていたら、
roonをやめてAudirvānaに移行する、という投稿があった。
それはそれでいいのだが、roonにケチをつけての移行を、
あえてソーシャルメディアに書いて何になるのか、と思う。
移行したい人は黙ってすればいいのに、なぜ公の場で一方を腐してまで、をするのか。
私はroon、Audirvāna、両方使えばいいじゃないかと考える方だ。
ストリーミングサービスも、TIDALがいい、とか、
いやQobuzがいい、とか、
なにかと白黒つけたがる人がいる。
日本人に多いのか思っていたけれど、
ソーシャルメディアを眺めていると、どうもそうではなさそう。
これらを使うにあたっての料金が相当に高価であれば、
どちらがいいか、いいと判断した方だけに絞るのもありだが、
サービス内容からすれば、むしろ安価と感じるのだから、
両方使えばいいのに──と思う。
両方使うのは優柔不断でカッコ悪いことと、こういう人たちは考えるのか。
TIDALになくてQobuzにあったアルバム、
“The Art of the Producer (Early Years 1948-1955)”。
196kHz、24ビットで配信されている、このアルバムは、
ジョン・カルショーがプロデュースした録音が収められている。
このアルバムには、カスリーン・ファリアーのイギリス民謡が収められている。
ファリアーの歌が196kHz、24ビットで聴ける。
さほど期待はしてなかったけれど、
ここで聴くことがかなったファリアーの歌は、
Qobuzにしてよかった、と思えるほどだ。
Qobuzには、MQAはない、と思い込んでいた。
e-onkyoからMQAが消えたのも、Qobuzの運営会社に買収されたからなのだから、
まったく期待していなかった。
ところが、ホフ・アンサンブルの二曲がMQAである。
2Lレーベルだから、他の2Lレーベルのアルバムは? と思って見ると、
やはりMQAである。
他のレーベルでは、見つけられていないけれど、
わずかとはいえ、QobuzでもMQAが聴けるのは、嬉しい。
ようやく昨日(10月23日)から、Qobuzのサービスが始まった。
さっそく使っている。
これでTIDAL、Apple Music、Qobuz、
三つのストリーミングを利用していることになる。
重複している曲(アルバム)は多い。
それでもTIDALで聴けなかったアルバムが、Qobuzにあった。
ものすごい数、あるわけではない。
わずかといっていいけれど、それでも聴きたいアルバムがあれば、
どれもしばらく使うことになる。
一年くらい経てば、どれかを使わなくなるかもしれないが、
いまのところ、三つとも使うのは、
audio wednesdayをやっていることも関係している。
時々リクエストを受け付けるのだけども、
TIDALだけだと、応えられないことがままある。
三つあれば、もうちょっとリクエストに応えられるはず。
Facebookを眺めていると、いろんな広告の他に、
Threadsも表示される。
これも一種の広告で、Threadsを使わせようと、
Threadsにおける誰かの投稿を、一部だけ表示する。
続きを読みたければ、Threadsを使いましょう、というもの。
でも、これまで続きを読みたいと思わせる投稿は、一度も表示されなかった。
なのでThreadsを使うことはなかった。
昨夜もThreadsの投稿が表示された。
いままでの投稿と違って、私にも関係のある投稿だった。
10月20日の中秋会に参加された方の投稿だった。
そうなると投稿の一部だけでなく、すべて読みたい。
Threadsをインストールした。
こんなふうに感じて聴いてくれていたのか、とひとり嬉しくなった。